・はじめに
神は万物の創造において人を造りそして次のように言いました。「神である【主】は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』(創世記2:16-17)」「思いのまま食べてよい」とあるように、人が自分の意志で自由に生きることを神は認めています。ただし何をしてもよいのではありません。なぜなら「善悪の知識の木からは、食べてはならない。」と命じられているように、神に背かない範囲で自由なのです。同時にその生き方に神からの平安があります。ところがアダムとエバが神に背いた結果、人は神以外に平安を求めるようになりました。私たちは自由に生きているようですが、喜びや安心のためにたくさんの条件を設けているので、万物創造のときの自由を失っています。今日はユダヤ人の頑な姿を通して罪に囚われることについて聖書に聞きます。
Ⅰ.ユダヤ人はアブラハムの子孫という血筋によって罪の奴隷を否定した(8:31-38)
エルサレムの神殿でユダヤ人はイエスの教えを聞いていました。そして彼らはイエスの不思議なわざ、威厳のある語り方、イエス独自の教えによってイエスを信じました。ただし、信じると言っても「イエスは信用に足る者」程度であり、「イエスは罪の滅びからの救い主」と信じたのではありません。そんなユダヤ人にイエスは語ります。(31-32節)
イエスのことばにとどまる、具体的にはことばを疑わず、抵抗せず、真実と信じれば、まことの弟子としてイエスを見習いイエスに近づきます。そしてその者は真理すなわちイエスは完全に正しいとわかり、自由になります。自由とは縛られているものからの解放であり、後に語られる罪の奴隷からの解放を言います。言い換えれば、神以外のものに魅力を感じ、それを手にするための人生から、神のために生きたいという人生に転換するのです。
ユダヤ人の現実においては、神の国に入るために戒律を守らなければならない、あるいは災いを逃れるために土着の迷信に頼るといった様々な縛りからの解放になるのです。ユダヤ人にとってイエスは彼らにまことの自由を与える者でした。けれども、「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」とあるように、イエスは彼らを疑っています。イエスのことばにとどまるかどうかを試しているのです。
イエスのことばにユダヤ人が答えます(33節)。ユダヤ人にとって「自由になる」は奴隷からの解放を意味します。だから彼らは「自分たちはアブラハムの血を引くユダヤ民族であり、誰の血筋か分からない奴隷ではない」と主張するのです。一方で彼らは「真理」には反応していません。なぜなら「律法や戒律をきちんと守れば神から正しい者と認められ神の国に入れる」というユダヤ人固有の真理を持っているからです。
それでイエスは奴隷について語ります(34-36節)。罪の奴隷とは神を最優先とせず、神以外の何か、例えば物や人や出来事に囚われている状態を言います。また奴隷はお金や土地、家畜のような財産ですから自分の意志で主人を代えたり自由に生きることは不可能です。お金と同じように人から人、家から家へと渉り行きます。それと同じように罪の奴隷は自分の意志で罪を断ち切ることはできません。
罪の奴隷から解放する唯一の手段が子すなわち神の子イエスです。イエスを罪の滅びを救う救い主と信じ、イエスと結びつくことで、神のために生きる者とされます。そして神のもたらす平安に満たされるので、この世の縛りから解放されます。「これをしないと安心できない/これがないと幸せになれない」といった囚われからの解放です。
ここでイエスはユダヤ人が罪の奴隷であることを明らかにします(37-38節)。ユダヤ民族は確かにアブラハム、イサク、ヤコブの血を引く民族です。だからといって血筋が正しい人とか聖い人いわば神の民を定めるのではありません。現に彼らは彼らの父祖たちが定めた戒律や教えに聞き従い、それを真理と定めています。彼らの真理が自分の中に満ちているので、神から与えられたイエスのことばが入る余地はありません。だから戒律に囚われて、神のあわれみを実践するイエスを違反者として殺そうとするのです。まさにユダヤ人は神よりも自分たちの真理を優先しているから、イエスは罪の奴隷と指摘するのです。
キリストを信じる前の私たちも罪の奴隷でした。犯罪は犯さなくても、安心や喜びを得るために、
あるいは恐れや不安を払拭するために、自分なりの戒律に縛られていました。イエスを信頼しイエスに聞き従う者ではなかったのです。自由を謳歌しているようであっても、真実は様々な縛りにがんじがらめになっていたのです。
Ⅱ.罪の奴隷となっている者はイエスを信じず、愛さず、聞き従わない(8:39-47)
イエスに罪の奴隷を指摘されたユダヤ人が反論します(39節)。彼らはなおも「自分たちはアブラハムの血を引く正統な神の民」と主張します。異邦人のように律法を持たず、不品行な罪人ではないと訴えているのです。
それに対してイエスはアブラハムの子であるならなぜアブラハムのようにしないのかと反論します(40節)。アブラハムはどこまでも神に従いました。生まれ故郷を旅立ち、神の使いをもてなし、息子イサクを献げよという命令にも従いました。しかし、ユダヤ人は神から託された真理をイエスが語っているにもかかわらず、イエスを大切にしないどころか殺そうと企み実行しています。ユダヤ人はアブラハムの子孫を主張していますが、実際にはアブラハムとは正反対でした。それでイエスは「あなたがたの父がすることを行っている(41節)」とあるように、あなたがたは罪の奴隷を継承していてアブラハムの子ではないと指摘するのです。
イエスの指摘はユダヤ人のプライドを刺激しました。それで彼らは「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」と反論します(41節)。彼らは「他の神々を崇め、不品行で汚れた民族ではなく、神によって選ばれた神を父とする民だ」と言います。ユダヤ人はアブラハムから始まる神から選ばれた民という血筋を正しい者、聖い者の根拠としています。
この主張にイエスは反論します(42-43節)。もし、ユダヤ人が神の子であるなら、神のみこころを素直に受け入れて、神が遣わした神の子イエスを大切に扱い、語られたことばに従うはずです。けれども実際には正反対だから、イエスは彼らを神の子ではないと言うのです。かつて彼らの父祖たちが預言者のことばを聞き入れず、殺そうとしたのと同じです。だから、父たちがすることを行っていると言えるのです。
イエスはさらに強烈な指摘をします(44-45節)。悪魔は神に敵対する存在です。イエスもご自身の予告を否定したペテロをサタンと呼びました。「悪魔は初めから人殺しで偽り者」とあるように、アダムの子であるカインは弟アベルを殺し神に偽りを言いました。つまり、ユダヤ人は神の子イエスに聞き従わないどころか殺そうとしているので、「あなたがたは悪魔の性質を引き継ぐ悪魔から出た者」とイエスは言うのです。ユダヤ人たちは「自分たちはアブラハムの子孫であり、神を父とする民族」という自負の上に生きています。しかし、イエスは彼らをアブラハムの子孫でもなく、神から出た者でもなく、悪魔から出た者と断言します。間違いなくユダヤ人はイエスの指摘を侮辱と受け取り、怒りに燃えるでしょう。でもこれが彼らの本当の姿であり、この指摘を受け入れることから罪の奴隷からの解放が始まるのです。
イエスはこの問答をこうまとめます(46-47節)。ユダヤ人は「自分が正しい/自分たちの民族が正しい」という自分たちの真理を握りしめています。その誤った真理を土台として生きているから、イエスを信じないばかりか、イエスを罪に定めて十字架で殺すのです。神ではなくて自分の握っている自分なりの真理にこだわることが罪の奴隷です。
罪の奴隷についての問答は、ユダヤ人がイエスのことばにとどまっていないこと、そしてイエスを信じていないことを明らかにしました。「ご自分を信じたユダヤ人に言った」というイエスの狙いに間違いはありませんでした。
・おわりに
かつて私たちは罪の奴隷でした。神に聞き従うことなく、安心や喜びを得るために自分の真理にこだわって、神以外に頼っていたのです。人、財産、地位、血筋、学歴あるいは迷信や流行のようなこの世を心の拠り所としていました。だから何の制約もなく自由に生きていると思っていても、真実はいろんなことに縛られていたのです。
しかし、神はこのような私たちをあわれんでくださり、イエスという犠牲を払って罪の奴隷から私たちを解放してくださいました。私たちは神の子として神とイエスに迎え入れられました。そして私たちはイエスを通して神からの平安や喜びを知り、受け取ることで、この世の縛りから解放されました。「しかし 私にとって 神のみそばにいることが 幸いです(詩篇73:28)」これが自由になった者の告白です。
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