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木村太

2月16日「罪を積み重ねた結果」(ホセア書9章)

 「堪忍袋の緒が切れる」ということばがあります。怒りをこらえていたけれども、限界に来て怒りを抑えきれなくなる時に使いますね。ただこのことを別の角度から見れば、堪忍袋というのは相手が怒りを免れている猶予期間であり、怒られる前に止めるチャンスでもあります。旧約聖書を読むと、イスラエルに対する神の堪忍袋はとても大きいと思います。でも切れる時がやって来ました。今日は、北王国イスラエルが主から退けられる出来事を通して、主の忍耐とさばきについてみことばに聞きましょう。


Ⅰ.主は北王国イスラエルから喜びと希望を取り去る(9:1-9)

 6章からイスラエルの主への背きが語られています。9章も背きの内容が明らかにされていますが、ここではそのふるまいに対して主がどう感じ何を計画しているのかに焦点が当てられています。

 1-5節に「麦の打ち場、ぶどうの踏み場、例祭、主の祭り」とあるように、ここでは農作物の収穫を祝う祭りを扱っています。1節「イスラエルよ、喜ぶな。諸国の民のように楽しむな。」と収穫を喜び浮かれないように主はホセアを通して厳しく戒めています。なぜなら、2節「打ち場も踏み場も彼らを養わない。新しいぶどう酒も彼らを裏切る。」とあるように、麦やぶどう酒がたくさん穫れてもそれを自分の手にできないからです。苦労して育て収穫まで迎えたのに、それを一つも口にできないのは本当に悲惨です。これが姦淫すなわちイスラエルの神ではなくバアルのような神を崇め続けた末に下る罰なのです。ただし、収穫を口にできないのは、略奪とか災害でだめになってしまうのではありません。3節のように、北王国イスラエルの人々は主の地すなわち約束の地イスラエルを追われて、アッシリアといった他の国で囚われの身となってしまいます。「エジプトに帰り」とあるように、彼らはかつてのエジプトでの奴隷のような生活に戻されるのです。だから収穫したものを自分で食べることができなくなるのです。

 それだけではありません。4節「彼らは【主】にぶどう酒を注がず、自分たちのいけにえで主を喜ばせない。」とあります。囚われの土地ではその国の神を礼拝し崇めることを強制されます。つまり自分たちの主を崇めて主に喜んでもらうことは不可能な上、主以外の神を崇めるという神の民にとってたいへんな苦痛や屈辱を味わうのです。5節「例祭の日、【主】の祭りの日に、あなたがたは何をするのか。」のごとく、イスラエルの人々は収穫を主に感謝する祭りも、礼拝も、主を崇める一切の祭儀がもうできなくなります。彼らにとって主を礼拝できないのは祝福を受ける手段が絶たれることになり、絶望と不安と恐れが待っています。しかも、もしアッシリアの攻撃を逃れたとしても、エジプトが彼らを攻め、埋葬の土地メンフィスに葬られます。つまり主のわざわいから絶対に逃れられないのです。

 それでホセアはこう訴えます(7-8節)。イスラエルの人々は預言者や神のみこころを教える霊の人の言うことを聞かないばかりかバカにし、さらには彼らの働きを妨害しました。「今やっていることを直ちに止めよ」という警告は権威者やこの世を謳歌している人にとってはばかげている上に、迷惑なので排除しようとします。9節「彼らはギブアの日のように、心底まで堕落した。」とあるように、イスラエル史上もっともおぞましい事件があったギブアと同レベルまで彼らの信仰は落ちてしまいました。行き着くところまで行ってしまったので、主は北王国イスラエルを滅ぼし、人々を囚われの身として異国へ送るのです。これまでにないわざわいが目前に迫っているので、ホセアは「喜んでいる場合ではない。刑罰の日が来た。報復の日が来た。」と強く警告するのです。

 今の世界もこのイスラエルと似ています。「豊かな実りがあった/経済が豊かになった/軍事力では他国に負けない」のように栄えることを喜びます。けれどもこの地上の物事すべてが終わり喜び味わえなくなる時が必ず来るのです。それが世の終わりです。キリストが再びこの地上に来られた時、この世の物事はすべて消え去り、人々は天の御国か永遠の滅びかに判定されます。だから私たちもホセアのように「永遠の滅びという主のわざわいが来るから、悔い改めてキリストを信じなさい。」と警告するのです。


Ⅱ.主はイスラエルをすばらしい民として見いだし育んだが、背き続けたために彼らから離れる(9:10-14)

 このイスラエルの状況に主が語ります(10節)。主はかつてのイスラエルを振り返ります。

①イスラエルを、荒野のぶどうのように見出す:荒野のように主に従わない人間界の中で、主はアブラハムというぶどうのようにすばらしい人を見いだし、それがイスラエル民族となりました。

②あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた:いちじくは植えてから最初の実がなるまでに5-6年もかかります。主にとってイスラエルの先祖アブラハム・イサク・ヤコブは待ちに待った神の民でした。

 主にとってイスラエルの民は喜びであり、神の国を広げるための望みでした。13節「エフライムは、わたしが見たところ、牧場に植えられたツロのようであった。」も同じことを表しています。ところが彼らは異教の神バアル・ペオルに触れて魅力にとりつかれ崇めました。彼らは神の民なのに、異教の神を愛し続けたために忌まわしい者になってしまったのです。「忌まわしい」には気持ちが悪くてムカムカするとか吐き気をもよおすの意味があります。ですから、異教の神の虜となり主を背き続けた結果、喜びと望みの民が今では吐き気をもよおす民になったのです。10節には主の悔しさや無念さが滲み出ています。

 それで主はわざわいを決断します(11-12節)。主はイスラエルを離れて彼らを守り支えることをしません。それゆえ主の民としての栄光はあたかも羽が生えた鳥のように去って行きます。具体的には「産むことも、身ごもることも、宿すこともない。」とあるように子孫をできなくします。しかも、「子供が育っても人がいなくなるようにする」と語っているように、主の意志は非常に強いのです。まさに屠殺場で死を待っている家畜のように、イスラエルの子孫には滅びしかありません(13節)。イスラエルでは子供は繁栄や祝福を象徴しますか ら、子孫を絶つというのは主の祝福が絶たれてしまうのです。

この恐ろしいわざわいを知って、ホセアは主に願います(14節)。「死産の胎」は妊娠できない体、そして「涸れた乳房」は子供を育てられない体のたとえです。つまり、殺されるのであれば最初から子供ができないようにしてください、とホセアは訴えています。背き続けた事実を帳消しにはできないので、苦しみを少しでも軽くして欲しいと主に嘆願しているのです。

 主はイスラエルの先祖アブラハムを見出して彼の信仰を良しと認め、子孫を海の砂、星の数ほどにする、と繁栄を約束しました。そしてその通りイスラエル民族を増やし、国を繁栄させて、主の栄光を世に広めました。しかし、イスラエルは他の神々に心が奪われて主を捨てました。荒野のぶどう、初なりのいちじくだったのに、いまや屠り場の家畜のようになってしまったのです。私たち人も最初は非常に良かったと言われたのに、今や堕落して全員が滅びに定められています。主の嘆きと怒りはどれほどなのでしょうか。10節のことばには「それほどまでに人を大切にしたい」という主の思いが込められています。


Ⅲ.主は頑ななイスラエルを退ける(9:15-17)

 ホセアの訴えに主が答えます(15節)。ギルガルはかつてサウル王が重大な罪を犯した町であり、いまや偶像崇拝の拠点となっています。主はそういった宮を憎み、また首長といった政治・宗教の指導者が民衆を堕落に導いていると見ています。「首長たちはみな頑迷な者だ。」とあるように、主はエリヤやエリシャといった預言者を送って正そうとしましたが、指導者たちは自分たちの考えにこだわり、彼らのことばを聞きませんでした。それで主は指導者を含む北王国イスラエルをもはや愛さないと宣言するのです。ただ「愛さない」というのは主の愛が消えたというのではありません。主は愛によってイスラエルの回復を待っていましたが、もう待てないところまで来たのです。日本的に言えば、主はイスラエルに愛想が尽きたのです。それが16節のことばに現れています。「根は枯れて、実も結ばない。」とあるように、エフライムすなわち北王国イスラエルは主の恵みを吸い上げる根が枯らされ、主との結びつきを無くします。ですから、何をやっても国は決して復興しません。ホセアの「死産の胎を、涸れた乳房を。」という訴えも退けられています。

 主の決意を知ってホセアが語ります(17節)。これまでは主がイスラエルを自分の元へ引き寄せようとしましたが、イスラエルは主を退けました。しかし、今はイスラエルが主を必要としていますが、主は彼らを拒絶します。彼らの堕落は、もうその段階に達してしまったのです。アッシリアによって国が滅んだ後、北王国イスラエルの人々は周辺国に散らされ、祖国を持たないさすらいの民となります。しかも、エジプトを出た後の流浪では主の導きや守りがあったのに対し、今回は根が枯れて退けられているので、それが全くありません。イスラエルは不安と恐れと絶望の中に放り込まれるのです。これが長きに亘って聞き従わなかった結末です。

北王国イスラエルは度重なる警告にもかかわらず、主に背き続けました。初めはすばらしいいとし子だったのに、いまや見る影もありません。それで国は滅ぼされ、民は様々な国に散らされて苦難の生活を送ることになります。神殿も祭壇も主の祭りも礼拝も祭司もないので、心の安らぎを得る手段が奪われました。



 現代の私たちも背き続けたイスラエルと同じように、全員が罪ゆえに永遠の苦しみに定められています。しかし、主はあわれみのゆえにキリストを犠牲にして、キリストを信じる者を永遠の苦しみから救い出し、永遠の平安に入れてくださいました。しかも、イスラエルの回復を忍耐して待っているように、すべての人がキリストを信じて救われることを望んで今も忍耐しています。キリストがよみがえって天に上ってから約2000年が経っているのがその証拠です。これも主のあわれみです。キリストの再臨そして最後の審判は必ず来ます。その時、永遠の苦しみに定められた者はあらゆる喜び楽しみが取り去られ、屠り場の家畜、根の枯れた植物のように主から永遠に退けられるのです。それゆえ私たちは私たちの生き様を通して、世の終わりまで神の存在とキリストによる救いを明らかにしてゆくのです。

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