キリストは赦しの大きさと赦しを与えた方への愛との関係を借金の帳消しというたとえで説明しました。たくさん借金を帳消しにされたほうが、帳消しにしてくれた人をたくさん愛する、といったたとえです(ルカ7章)。それゆえ、神がキリストという犠牲を払って私たちの払いきれない罪を帳消しにしたので、私たちは神のみを愛するのです。ただ、もし帳消しにされた事実に気づいていなかったら、神を愛せるでしょうか。今日は、主のあわれみに気づかないイスラエルの姿を通して、頑なに主に背を向ける人の性質について見てゆきましょう。
Ⅰ.北王国イスラエルは主ではなく自分たちの力に頼った(7:1-7)
7章も北王国イスラエルの背きが語られます。ただしここでは、イスラエルが元通りなって欲しいという主のあわれみとイスラエルの頑なさが対比されています。
エフライムは北王国イスラエルの中心地域であり、またサマリアは首都です。そしてここはバアル神といった偶像礼拝の拠点でした(1節)。いわばイスラエルの背きの源です。主はイスラエルを癒す、すなわち元通りに直そうとします。そのとき、どこが悪いのかをはっきりさせて止めさせなければなりません。1節「彼らが偽りを行い...」とあるように、イスラエルは礼拝形式だけを見れば正しい信仰のようですが、真実は主を欺き、主の忌み嫌うことを公然と行っています。しかも、主はその悪行をすべてわかっていて一つも見逃してはいないのに、彼らは自分たちの行いが悪だと全然わかっていません(2節)。「今、彼らの悪行は彼らを取り囲んで」とあるように、自らの行いが間違いなく自らに災いを起こすことも気づいていません。ここにイスラエルの愚かさがはっきり出ています。
続く3-7節では「王、首長、さばく者たち」とあるように王を初めとする政治家の悪が暴かれています。王の交代において、南王国ユダでは王が死んでその子が継ぐという世襲でほとんどが交代してきました。一方、北王国イスラエルではクーデターのような謀反によって王が殺され、謀反を起こした者が王位に就きました。まさに北王国は血にまみれた歴史と言えます。
その北王国イスラエルを主は「パンを焼くときの燃えるかまど」にたとえました(4,6節)。「燃えるかまど」は謀反そのものあるいは謀反への燃えたぎるような熱を指し、「生地がこねられてから、ふくらむまで」は計画を練って機が熟すまで様子を指します。実際にはこのような行いでした。
①3節:国を司る者たちにこびへつらい、ご機嫌を取っています。
②5節:王の即位など特別な日に大宴会を催し、泥酔させるまでもてなします。一方で、保身のために嘲る者すなわち敵対者とも手を組むのです。
③7節:ついには自分たちをさばく者すなわち王のような自分たちの指導者を滅ぼし、その座に着きます。
イスラエルにおいて王は神の代理人として国を治める役割があります。だからダビデのように主に伺い従わなくてはなりません。しかし7節「彼らのうちだれ一人、わたしを呼び求める者はいない。」とあるように、すべての指導者が権力や策略に頼り、国の回復や繁栄を主に頼っていないのです。民族は神の民ですけれども、全く神に従わないばかりか、顔を向けることもしなかったのです。どこまでも頑なに背を向けるのです。
私たちもこのイスラエルのように自分の知恵や能力や財力、自分の人脈、自分の権威などに頼り切ってしまうことがあります。いろいろな手段や方法を用いるのは悪ではありません。でも大事なのは、「主よどうしてですか。どうすればいいのですか。」とまず主を呼び求めることなのです。
Ⅱ.イスラエルは神の民なのに主に返らず他国に頼った(7:8-12)
さて8-12節には「もろもろの民の中に混じり込む/エジプトを呼び求め/アッシリアに飛んで行く」とあるように、ここでは北王国イスラエルの対外的なふるまい、いわゆる外交が明らかにされています。
本来、イスラエルの役割は神の存在と大いなるわざを世界に示し、それを知った諸外国が神を崇めるようになり神の国を広げることでした。ところが今やイスラエルは周辺国から自分の国を守るために、自分の方から強い国に頼り同盟国になろうとしました。11節のごとく、右往左往する鳩のようにエジプトに頼ったり、アッシリアに頼ったりしていました(Ⅱ列王記17章)。この時代、どこの国でも政治は宗教を基盤としていましたから、「あなたの国の力を貸してください。」という同盟は相手国の宗教を認め受け入れることになります。つまり他国に頼るというのは主を頼らないばかりか、主を捨てることにつながるのです。イスラエルは神の民を自負していますが、他国に頼り混じることで信仰の純粋性を失うのです。それで主はイスラエルの中途半端な信仰を「片面しか焼けていないパンだ。」と皮肉るのです(8節)。
北王国イスラエルはエジプトやアッシリアといった強大な国と同盟を結んで国を守ろうとしました。これで安心のように見えますが実際は違いました(9-10節)。イスラエルは手を結ぶためにたくさんの貢ぎ物を相手に納めなければなりませんでした。そのため白髪が増えて年老いてゆくように、国力が低下していったのです。でもイスラエルは「強い国と手を結んでいるから大丈夫だ」という高慢のために、真実に気づきませんでした。自分たちの考えが正しいと信じ切っているので、主に向き直って何をすべきかを主に求めなかったのです。
それで主はイスラエルに罰を与えます(12節)。「彼らが赴くとき/彼らの群れの音を聞くとき」とはイスラエルが他国に助けや援助を求める姿を表しています。主は、飛んでいる鳥を網にかけて地面に引き降ろすように、他国に頼るというイスラエルの間違いを止めさせようとします。ただしこれは主を捨てたことへの単なる罰ではなく懲らしめなのです。国力の低下を初め、戦いでの負け、農作物の凶作など、主は様々な形でイスラエルにわざわいを下します。しかしそれは、そのわざわいによってイスラエルが罪に気づき、再び主に立ち返り主を尋ね求めるためなのです。そして、両面が焼けたパンのようにイスラエルが再び神の民としてふさわしく歩んで祝福に満ち、主の栄光を放つためなのです。どこまでもイスラエルを大切にしたい主のあわれみとしか言いようがありません。
キリストによって救われた私たちも、他の人の実力や権力に頼って安心を得ることがあります。あるいは金銭や設備といった物に安心を求めることもあるでしょう。しかし最も大事なのは「主がついておられるから大丈夫」という主への信頼です。主に信頼しなければ、主からいただく勇気や平安や知恵を必要としないから、私たちの信仰は削られてゆきます。「片面しか焼けていないパン」の信仰を主は喜びません。
Ⅲ.イスラエルは主のあわれみに対して悪事で応えた(7:13-16)
主は背き続けるイスラエルをこのように言います(13節)。「わざわいだ」と訳されたことばは「ああ」という嘆きのことばです。なぜ主が嘆くのか、それは主が贖い出す、すなわち救おうとしているのにイスラエルが裏切ったからです。15節のように、主はイスラエルが神の民としてふさわしい歩みをするためにことばやわざわいを通して彼らを戒めました。また、戦いに勝たせたり豊作をもたらすなど、イスラエルを繁栄させました。イスラエルを大切に思う主のあわれみに対して、イスラエルが主に背を向けた上に主を捨てたから、主は嘆くのです。14節にあるように、彼らは寝床でわめくといった異教の性的な儀式に没頭しました。また、穀物と新しいぶどう酒の収穫祭で大騒ぎをし、狂ったようにバアルの神に祈願をささげました(14節)。さらに16節「ののしった」とあるように彼らは「主に仕えてもムダ」と主をバカにしました。まさにイスラエルは「欺きの弓」すなわち、たるんだ弓のように何の役にも立たないことを夢中で真剣にやっていたのです。
主は「わたしが贖い出そうとしているのに/わたしが訓戒し、彼らの腕を強くしたのに」とあわれみによって、イスラエルにみわざを成しました。それに対してイスラエルは「離れ去り/主にまやかしを言い/主に悪事を企み/心から主に向かって叫ばず/いと高き方に立ち返らず/ののしり」ました。本来は主に感謝して主に従うべきなのに、イスラエルは主の忌み嫌う道をどんどん進んでゆきました。わかりやすく言うなら、イスラエルは恩を仇で返し続けているのです。それゆえ主は嘆き、そして北王国イスラエルを滅ぼすのです。16節「彼らの首長たちは、ののしったために剣に倒れる。これはエジプトの地で、嘲りのもととなる。」とあります。北王国イスラエルは最初アッシリアに頼りましたが、その後翻ってエジプトに頼りました。その結果、イスラエルはアッシリアによって滅ぼされるのです。その愚かな姿をエジプトが見下げて笑い物にするのです。「自分たちは神の民だから大丈夫」と高慢になり、主のあわれみによる祝福、警告、懲らしめに気づかなかったことが滅びに至らせたのです。
詩篇の詩人は主のあわれみについてこう語っています。「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」主は我が子キリストを犠牲にして私たちを永遠の滅びから救ってくださり、天の御国を約束しました。そして、地上の人生においては聖霊を通して私たちを慰め、勇気づけ、安心を与えておられます。キリストによる救いと日々の恵みに注意を払い、気づき、そして忘れずにいれば、おのずと主への感謝と従順が生まれて来るのです。イスラエルのように恩を仇で返す道に入ることは決してありません。
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