■はじめに
今日から旧約聖書預言書のヨナ書を扱います。一般的な預言書は「預言者に与えられた神のことば」を記していますが、ヨナ書はヨナに起こった出来事を伝記風に描写しています。この点はダニエル書に似ていると言えます。ただ、ヨナは自分の使命を放棄したり、神に文句を言ったりと、神に従順だったダニエルとは正反対に見えます。けれども「預言者でありながらも人間臭い」ところがヨナ書の魅力になっています。ヨナという人物を通して、すべての人に注がれている神のあわれみを受け取ってゆきましょう。
■本論
Ⅰ.ヨナはニネベ宣教という主からの使命を放棄して逃げた(1:1-6)
1節から、ヨナが主のことばを預かる預言者であることがわかります。第二列王記にはヨナが預言者として活動した様子が記されています(第二列王記14:23-25)。ヨナは北王国イスラエルでヤロブアム2世が王の時代に活動しました。第二列王記14:25から明らかなように、ヨナは主に忠実な預言者でした。しかも「ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」とあるように実績を残しています。そのヨナに主は新しい使命を与えました。
主は「今すぐにアッシリアの首都ニネベに行って、主のことばを叫びなさい」とヨナに命じました(2節)。なぜなら「彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。(2節)」とあるように、アッシリアの悪は天に届くほどひどかったからです。この当時、アッシリアは征服した人々への拷問と虐殺の残忍さで有名でした。その上、北王国イスラエルを脅かし、イスラエルの民はアッシリアの脅威を恐れていました。あまりにも主をないがしろにしていたため、このままでは直ちに主のさばきで滅ぶのは明白です。それで主はアッシリアが悔い改めてさばきを免れるために、「ニネベ宣教」という使命をヨナに与えたのです。
しかしヨナはこの任務を実行しませんでした(3節)。「【主】の御顔を避けて」の「避ける」には「急に走り出す」という意味がありますから、ヨナは任務を放棄しただけでなく、急いで主の支配から逃れようとしています。そのため彼はヤッファから船で人々に紛れ込みながらタルシシュへ行こうとしました。タルシシュがどこなのかいまだ特定できていませんが、有力な学説では現在のスペイン南部タルテスースとされています。ですから、ヨナはニネベとは正反対かつ果てしなく遠い所へ行こうとしたのです。それほどまでに、主から離れたかったのです。
この段階では、なぜヨナが任務を放棄して主から逃げたのかわかりません。ただ、4章によれば、ヨナは敵国であるアッシリアを救うという任務を嫌っていました。ヨナはイスラエルの預言者ですから、イスラエルの平安と繁栄の働きを担っていると自覚しています。けれども、イスラエルとってアッシリアは神の祝福の対象外であり、しかも自国を脅かすのですから、この国を救う働きはやりたくないのです。むしろ、ヨナからすればアッシリアは滅んだ方がイスラエルのためになるのです。この時、ヨナはすべての人への主のあわれみをわかっていませんでした。
このヨナの行動に主は怒り大嵐を船に投げつけました(4節)。船は今にも沈没しそうなので、水夫たちは自分たちの神々に助けを祈り、積荷を捨てるという最終手段を取りました(5節)。そんな騒ぎの中、ヨナだけが船底でぐっすり眠っていたのです。ここで、彼は水夫たちのように主に祈っていません。なぜならこの嵐の原因が自分にあるとわかっているからです。でも主を避けているので主に祈るはずがありません。むしろ、「どうなっても構わない」という自暴自棄になっているから眠ることができたのです。
そのヨナを船長が見つけました。この当時、自然現象は神のわざだと誰もが信じていました。つまり、大嵐は神の怒りだと信じていたのです。それで、船長は全員が神に助けを願わなければ神は聞いてくれないと思い、ヨナに神への祈りを命じたのです(6節)。
ヨナの反抗に対し主は怒りますが、彼を直ちに滅ぼしていません。大嵐という警告によってヨナが思い直し、主に従うことを期待しているからです。この主の思いはニネベに対しても同じです。天に届くほどの悪をしても、主はアッシリアが悔い改めて主に従い、滅びを免れることを期待しているのです。神はあわれみをクリスチャンだけとか良いことをしている者にだけにかけていません。私たちの目からすれば「こんな人にも/こんな国にも」となりますが、神にとってはすべての人があわれみの対象なのです。
Ⅱ.ヨナは大嵐が自分に対する神の怒りだとわかっていて、くじがそのことを人々に明らかにした(1:7-10)
船長がヨナに呼びかけている一方で乗船者たちに別の動きがありました(7節)。今申しましたように、船に乗っている人たちは全員、大嵐が神の怒り、すなわち乗っている誰かのせいだと信じて疑いません。それで彼らは誰が原因なのかをくじで判明しようとしました(7節)。この時代、くじは神のみこころを知る手段として信用されていたからです。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は【主】から来る。(箴言16:33)」と箴言にもあります。ヨシュア記でもアイ攻略に失敗した際、聖絶を違反した者をくじで探し当てています。
くじはヨナに当たりました。それで船の人々は彼にこう言いました(8節)。彼らはヨナの素性と旅の目的を尋ねて、ヨナの何が神のわざわいになっているのかを知ろうとしました。その質問にヨナが答えます(9節)。「ヘブル人」という言い方は、自分が神の民であり、異教の民とは違うことを意識した言い方です。「私はイスラエルの神の民」という宣言と言えます。と同時にヨナは「天の神、【主】を恐れる者です。」とも答えています。これは、「自分がこの世を支配する神を完全に信じている」という信仰告白です。
それを聞いて人々は恐れました(10節)。ヨナがいつの時点で、「自分が任務を放棄し、主の前から逃げている」ことを話したのかわかりません。ただ、乗船者たちはそのことを知っていました。それで、ヨナが大嵐の原因だとわかったから「何ということをしたのか」と彼を責めたのです。人々は自分たちの神々よりも、ヨナが崇めるイスラエルの神の方が比較にならないほど恐ろしいと認識していたからです。
大嵐の時点でヨナはこれが主の怒りだと気づいていました。だから、彼は主に祈らず船底でふて寝していました。船長に祈りを命じられても何もしませんでした。そして、くじ引きで自分に当たることを通して、怒りの原因が自分にあるという確信をますます深めるのです。
彼は「私は、海と陸を造られた天の神、【主】を恐れる者です。」と言うように、主は全知全能であり、すべてをご支配しているお方だと信じて疑っていません。自分が主によって定められた預言者であることも疑っていません。今、任務を放棄して逃げていてもです。けれども、この任務だけは忠実になれないのです。ここに、主よりも自分の思いに囚われてしまう、信仰者のかたくなさが表れています。どれほど主を信じていても感情や考えが先になり、それが自分を主のみこころから引き離すという弱さを人は持っているのです。それで主は、失敗や苦難を通して、主のみこころから外れていることを気づかせるのです。これが主のあわれみです。
■おわりに
ヨナは「ニネベ宣教」という神の使命を放棄し逃げました。その反対に困難な神の使命に従順なお方がいます。それがイエス・キリストです。ヨナは敵国アッシリアを滅びから救うという任務を嫌いました。イエスは罪びと、すなわち神に敵対する人間を滅びから救うという使命がありました。具体的には、罪のない自分が人の身代わりとなって神の罰を引き受けることです。
ヨナにとって神の使命は自分の信条を曲げることになります。一方、イエスの使命は自分がこの世で最も悲惨な十字架刑という刑罰を受けることですから、ヨナよりもはるかに肉体的、精神的苦しみが大きいのは明らかです。それゆえ、イエスも十字架を避けたかったのです。ゲツセマネでイエスはこう祈っています。「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)」
イエスは十字架を避けたい気持ちを父なる神に吐露しましたが、その使命を受け入れました。決して、逃げ出さず神の御顔を避けませんでした。このイエスの使命によって、私たちは滅びを免れて天の御国に入れます。この上なくすばらしい平安を永遠に生きることができます。そして、地上の人生ではこのイエスがともにいてくださり、私たちを支えています。今私たちが天への希望と日々の平安を持っているのは、ただイエスによるのです。それほどまでに神は私たちを大切にしているのです。
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