■はじめに
勝敗や優劣を決める競技では、競技が公正に行われるために必ずルールが定められています。ですので競技者はルールを頭に入れておかなければなりません。また、ルールが変わればおのずと戦い方も変わってきます。例えば柔道では、以前は効果や有効といったポイントがありました。それで、一本を狙わずに簡単なポイントを取った後は指導を取られないように注意しながら時間を稼ぐという戦術が目立ちました。しかし、これでは柔道本来のあり方ではないので、現在では技ありと一本だけになっています。ですから、ルールが変更になったことで競技者は逃げや守りから攻めの戦い方に変わるのです。そこで今日は、レビ族ではないキリストが祭司になったことで、律法というルールの時代から今はどんな時代になっているのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.レビ族以外の祭司が立つことは、律法では救いを完成できないことを意味する(7:11-14)
この手紙の著者は、メルキゼデクがユダヤ人の偉大な父祖アブラハムやレビ族の祭司よりも偉大なことを創世記から証明しました。その上で今度は、メルキゼデクのようにレビ族ではないキリストが大祭司になるとはどういうことなのかを語ります。
「レビ族が祭司職になる」という祭司制度は律法によって定められています。ただし、律法が機能するには祭司が必要です(11節)。ちょうど、スポーツでは審判がいるからルールに従って競技ができるようなものです。いうなれば祭司が律法を運用しているのです。
もし祭司職を中心とする律法が「完全さに到達(11節)」すなわち「罪による救いを完成」しているなら、レビ族のアロンのような祭司が立つはずです。けれども、旧約聖書の詩篇ではレビ族でなはいメルキゼデクのような祭司が立つと言われています。それで著者は、何の必要があって律法で定められていない祭司が立つ必要があるのか、と問いかけるのです。その答えとして著者は12節のように、律法で定められていない祭司が就任するというのは律法が変わったからだ、と言います。
ここで著者は「メルキゼデクの例に倣って(詩篇110:4)」と言われているキリストの血筋について語ります。この手紙で取り上げてきたイエス・キリストがレビ族ではなくユダ族出身なのは一般に知れ渡っています(13-14節)。そして、ユダ族と祭司の関わりについて、モーセは律法で何も語っていません。そればかりか祭壇の務めにさえ就いていません(13-14節)。ですから、キリストが大祭司になるとすれば律法とは違う別のルールが定められていると言いたいのです。違う言い方をすれば、律法が不完全だから律法とは別のルールとなった、と暗に言っているのです。
ユダヤ人は旧約聖書とりわけ律法を完全で絶対だと信じています。だから、律法に定められたレビ族の祭司が自分と神との間をとりなし、迫害という危機から脱出させてくれると信じています。モーセやアロンのような偉大なレビ族の者を期待していると思われます。たとえクリスチャンになったとしてもその思想は強く残っているのです。
それゆえ、著者はレビ族以外の祭司が立ったのは律法というルールの時代が終わった証拠とだと伝えるのです。律法ではなく今は大祭司キリストの時代に入っているから、律法にこだわるのではなくキリストに信頼するように命じるのです。パウロも手紙でこう書いています。「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(ガラテヤ2:16)」現代を生きる私たちも、律法が支配していた時代ではなく、キリストによる救いの時代に入っています。ですから、苦難に翻弄されても「何かをする」のではなくて「キリストを信頼して従う」ことが大切なのです。
Ⅱ.ユダ族のキリストが大祭司となることで救いが完成し、私たちはキリストを通して神に近づける(7:15-19)
さらに著者は、レビ族ではないキリストが大祭司になったのなら、律法に代わって何が定められたのか、を明らかにします。
繰り返しになりますが、神はモーセを通してイスラエル民族に律法を与えました。ですから律法は完全で絶対です。それで律法で定められていないレビ族以外の祭司が就任するとしたら、律法が変わったとしか言えないのです。だから、詩篇で語られているように、キリストはメルキゼデクのごとくレビ族ではなくユダ族の祭司ゆえに律法が変わったことは明らかなのです(15節)。
ここで著者は律法で定められていないユダ族のキリストがどのようにして祭司になったのかを語ります。キリストは、肉すなわち罪ある人に対する律法に従った血筋による祭司ではありません(16節)。「朽ちることのないいのちの力(16節)/とこしえ(17節)」とあるように、キリストは十字架で死んだ後、人とは異なるからだでよみがえり永遠に生きるからだになりました。そして、天に上り父の右に座して父なる神と人との間をとりなしています。つまり、神が朽ちないからだによみがえらせて祭司としたのです。
「朽ちることのない、いのちの力による祭司(16節)」というのは人にとって喜ばしい事実です。人間の場合は必ず交代するので、それぞれの性格によって働きに違いが出ます。あるいは、一人で長い年月を担った時も、年齢によって変化があります。しかし、キリストは「朽ちないいのちの力/とこしえ」の祭司ですから、性質も能力もまったく変わりません。だから、常にいつまでも神の愛に根ざした対応を期待できます。
さて、ユダ族のキリストが祭司に立てられたのであれば、律法はどのようになったのでしょうか。それが18-19節であり、これが「それ以上何の必要があって、別の祭司が立てられたのでしょうか。(11節)」の答えです。「前の戒め」すなわち律法は「罪の滅びからの救い」に対しては弱く無益でした(18節)。「律法は何も全うしなかったのです(19節)」とあるように、律法は人を罪から聖くして神に近づける者には決してできないのです。それゆえ「人が罪を赦されて滅びを免れ、天の御国で永遠のいのちを生きる」という救いにおいては廃止されたのです(18節)。
ただし、律法が無駄だったのではありません。パウロが「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。(ガラテヤ3:24)」と言うように、律法は人に罪を認めさせ、自力では罪をなくせないことを認めさせ、キリストによってのみ罪が赦されることを認めさせるものでした。また、罪が赦される仕方、すなわち「祭司といけにえ」という方法、いわゆるキリストを示すひな形を明らかにしました。
そしてついに「救いを完成する」ものがやって来ました。それが「キリストを救い主と信じれば救われる」という新しいルールです。「もっとすぐれた希望が導き入れられました。(19節)」とあるように、「律法による救い」という希望よりも、はるかに優る「キリストによる救い」の時代に入ったのです。大祭司であるキリストが、罪のないご自身のいのちをささげて、人に向けられた神の怒りをなだめました。それにより人は罪を赦されました。さらに、死からよみがえって天に戻ることで、人は死で終わりではなくキリストと同じように新しいからだによみがえって天の御国に入ることを明らかにしました。それでキリストを救い主と信じる者はキリストを通して神に近づいているのです。
「神に近づく」というのはユダヤ人にとっても私たちにとっても幸いです。「しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は【神】である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。(詩篇73:28)」とあるように、大祭司キリストのとりなしによって私たちはすでに神のそばにいます。完全な守りの中にあることを実感できるから、何よりも平安なのです。手紙の読者であるユダヤ人クリスチャンも私たちも「大祭司キリストによる救いの時代」に入っているから、キリストを信頼するだけで良いのです。
■おわりに
ユダヤ人にとって神の与えた律法は絶対かつ完全なものです。しかも、モーセの時代から約1500年以上も守られてきました。その上、神から誓いをもって祝福を約束されたアブラハムの血筋を彼らは引いています。ですから、キリストを救い主と信じてクリスチャンになったけれども「迫害が終わらない/助ける者が現れない」現実に直面して、ユダ族のキリストではなく、モーセやアロンのようなレビ族の祭司を求めてしまうのも不思議ではありません。それで著者は律法は廃止されて、キリストによる救いの時代に入っていることを教えたのです。何としても律法よりもキリストという希望を持って欲しいのです。
私たちにもユダヤ人のように「因果応報」の思想、すなわち「悪をすれば悪い報い、善をすれば良い報い」という思想が染みついています。だからクリスチャンでも「一生懸命祈ったのに願った通りにならない/願いが叶わないのは祈りが足りないから」のように行いに頼ってしまうことがあります。しかし、私たちはキリストによる救いの時代に生きています。大祭司キリストが私たちと神との間をとりなし、私たちを助けてださっているのです。どんな苦難の中にあってもキリストを信頼すれば、神からの不思議な平安に至るのです。
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