・はじめに
「あなたには罪がありますか。」こう聞かれたらどう答えますか。クリスチャンであればももちろん「はい。罪があります。」と答えるでしょう。でも、大抵の人は「警察に捕まるような犯罪はありません。」と答えると思います。では、質問を変えて「人を恨む/ねたむ/赦せないと思ったことはありますか。」と聞いたらどうなるでしょうか。おそらく全員が「そうなったことがある」と答えるでしょう。パウロが「義人はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」と言うように、神は目に見える悪だけではなくて、その源である心の思いもチェックします。だから、神の基準からすれば正しい者はだれ一人おらず、例外なく人には罪があります。ただし神が罪を指摘するのは、人を罰するためではありません。人を罪による滅びから救うためなのです。今日は、姦淫の女の出来事を通して罪を明らかにすることの意味を見てゆきましょう。
Ⅰ.律法学者とパリサイ人はイエスを告発するために「姦淫の戒め」を利用した(8:1-6)
仮庵の祭りが終わって人々は居住地へ帰って行きました。ところが、イエスはガリラヤに帰らずエルサレムに留まっていました。
イエスはエルサレムの東にあるオリーブ山で一晩過ごし、朝早く神殿に入りました(1-2節)。オリーブ山に行った理由はここからは分かりませんが、他の福音書からすると祈りのためであると思われます。イエスは神殿に集まった多くの人々に神の教えをじっくりと語ろうとしました。しかし突然中断されます(3-5節)。
律法学者とパリサイ人は、モーセの律法とそこから生み出した細かな戒律を完全に守らないと義と認められない、言い換えれば神の国に入れないという立場の人たちでした。彼らは姦淫の現場で女を捕まえ宮に連れてきました。十戒の第7戒では姦淫すなわち性的不道徳を禁じています。また、モーセに与えられた律法では、結婚している者が配偶者以外と性的関係を持った場合、当事者の男女は殺されなければならない、と定めています(レビ20:10,申命記22:22)。その処刑方法が石を投げつける「石打」です。
律法学者たちは群衆のすべてがイエスに注目するように女を宮の中央に立たせて、姦淫という罪と律法に基づく処罰についてイエスに言いました。その上で「あなたは何と言われますか。」と尋ねました。殺したい相手に向かって「先生」と持ち上げ、しかも男女とも処罰するところを女だけ連れてきたところに何らかの策略を感じます。
姦淫の罪とその処罰は神がモーセに与えた律法そのものであり、人が作り出した戒律ではないので否定はできません。一方、ローマ帝国が治めている社会ではローマの法律によらなければ死刑にできませんでした。ステパノやパウロはユダヤ人から石打にあいましたが、本来は違法行為なのです。ですから「石打にしなさい」と答えたら律法に従っているけれどもローマに反抗することとなり、逆に「石打はやめなさい」であればローマに従っているけれども律法に反抗することになります。つまり石打についてはどちらを答えても訴えられるのです。カエサルに税金を納めることの問答と一緒です。
それでヨハネは「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。(6節)」と書くのです。律法学者たちの心中には「群衆の前でイエスを間違いなく告訴できる」という勝利宣言が出ているでしょう。ただし、イエスは彼らの質問が自分を貶める策略と分かっていたので、安易に誘いに乗らず無関心を装っていました。
律法学者とパリサイ人にとって女の罪とか石打の刑などどうでもいいのです。なぜなら、彼らはイエスを殺すための告訴を目的として、死刑を定めている律法を利用しているだけだからです。律法は、神に従っているかどうかをチェックし、罪を再び犯さないためにあります。けれども彼らはその律法を人殺しの道具として使っています。罪を犯した女にも全く目を向けていません。ここに「自分は正しい」という高ぶりがあります。「姦淫の戒め」を持ち出して正論を言っているように見えますが、真実は自分の欲求を満たすために律法を利用し、しかも殺すという最も大きな戒めを破っているのです。
彼らのように私たちも「自分は正しい」という位置に立って、他の人々を神のことばを使って貶める性質を持っています。私たちは人の罪を指摘し、戒めることを神に許されています。でもそれは人が罪を認めて悔い改め、再び神に従うための手段です。自分の欲望を満たすためではありません。
Ⅱ.イエスは彼らに罪を自覚させるとともに女の罪を赦した(8:7-11)
イエスはかがんだままでしたが、律法学者たちはあきらめません。彼らは何としてでもイエスから答えを引き出したいので、しつこく問い続けました(7節)。そこでイエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と答え、再びかがみました(7-8節)。
イエスは「この人に石を投げなさい」と答えていますから、この女に姦淫の罪を認めています。ただし「石打という罰を与えるあなた方に罪はないのですか。」と問いただしたのです。人の目には姦淫という目に見える罪しか見えません。しかし「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。(マタイ5:28)」とイエスが言うように、神は目には見えない内面の罪をも照らし出します。
律法学者たちは「今回は絶対にイエスを告発できる」と確信していていたのに、このことばばが彼らを窮地に立たせます。なぜなら、石を投げれば公の前で「罪はない」というウソをつくことになります。逆に投げなければ「罪を指摘し罰する立派な立場」なのに罪を持つ者と見られてしまうからです。石を投げても投げなくても彼らの面目は丸つぶれになります。
それで、人間の罪深さを経験的に知っている年長者たちからその場を去って行きました(9節)。群衆の真ん中に残ったのは女とイエスだけになりました。女を連れてきた者たちが全員いなくなってから、イエスは身を起こして彼女に語ります(10節)。無関心のように見えていても姦淫の女のことを大切にしているのです。イエスを殺すために女を利用した律法学者たちとは正反対です。ここで「だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」とあるように、イエスは石打をさばきと見ていますから、「罰する者は一人もいなかったのですか」と尋ねています。
女は「はい、主よ。だれも。(11節)」と答えました。初対面のイエスに「主よ」と呼びかけていますから、このことばには命を救ってくれたイエスへの尊敬と信頼があるのです。それでイエスは「「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。(11節)」と答えました。
イエスは「決して罪を犯してはなりません。」と言ってますからこの女の姦淫という罪を認めています。と同時に「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。」とも言っています。イエスは罪のない神の子ですから、この状況の中で唯一姦淫の罰である石打が可能です。けれども罰しません。なぜならイエスはこの女の罪を赦したからです。それは「主よ」という呼びかけの中に女の罪の自覚と悔い改めを見たからです。
イエスはモーセに与えられた道徳的な律法を否定してはいません。姦淫は罪としています。ただし律法は人を貶めたり自分の欲望を果たすためではありません。律法広く言えば神のことばは、自分と照らし合わせて神に従っていないところを明るみに出し、それを悔いて再び神に従うためにあるのです。神はエゼキエル書でこう語っています。
「18:23 わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。」
神のことばは人を滅ぼすためにあるのではなく、罪を自覚させて悔い改め、祝福の人生を歩むためにあります。そしてそのためにイエスはこの地上に遣わされたのです。
・おわりに
イエスは律法学者、パリサイ人、そして姦淫の女に大逆転をもたらしました。律法学者とパリサイ人はイエスによって人を見下す立場から罪人という立場になりました。一方、姦淫の女はイエスによって死から命になりました。これは後に実現するイエスによる永遠のいのちと永遠の滅びを暗示しています。「私の罪のためにイエスは十字架で死んでよみがえった」この真実を信じる者は、すでにこの地上で罪が赦されて、やがては天の御国で永遠の平安を生きることができます。私たちはすでにイエスによって大逆転とされたのです。すべては人に生きて欲しい神のあわれみによります。
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