top of page

2月9日「八つの幻③~測り綱を持った人~」(ゼカリヤ書2章1-13節) 

  • 木村太
  • 2月9日
  • 読了時間: 7分

更新日:2月16日

■はじめに

 日本でも世界でも、かつては栄えていたのに今ではさびれた町があります。三笠や夕張、歌志内はその典型と言えます。そこに住んでいる人々は「昔はあんなに賑やかだった」と振り返り、中には「賑わいを取り戻したい」と思う人もいます。バビロニアの捕囚からエルサレムに戻って来た人たちもそれと同じです。ソロモンの時代にはエルサレムの栄華が全世界に知られ、多くの国々が関係を結ぶために贈り物を携えてやって来ました。しかし、バビロニアの捕囚から戻った民が見たのは、荒廃した都、滅茶滅茶に破壊された神殿でした。神の民にとってこれほど悲しいことはありません。だから、神とともに住む都の再建は、彼らの悲願なのです。今日は、神の都エルサレムがどのように建てられるのかをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.主は神の国の都エルサレムの中心に住んで都を完璧に守り、栄光を輝かせる(2:1-5)

 ゼカリヤは角と職人の幻に続いて新しい幻を見ます。ゼカリヤは測り綱を持っている人を見ました(1節)。この人が御使いなのかどうかは明らかではありません。ただ、はっきりしているのは、彼はエルサレムを測ろうとしていることです(2節)。「その幅と長さがどれほどあるか」とあるように、この人は測り綱によって測量するためにエルサレムに行きます。つまり、この幻はエルサレムの再建を意味しているのです。

 

 その時、「私と話していた御使い」いわば伝令役の御使いがどこかに出て行きました(3節)。それに続いて別の御使いが伝令役の御使いの後を追って行きました。この御使いは「あの若い者(3節)」すなわち測り綱を持った人への急ぎの伝言を伝令御使いに託しました。伝言はエルサレムについてでした。「『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。わたしが──【主】のことば──それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。(4-5節)」

 

 「その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。」とあるように、城壁の外にまで人や家畜があふれ、自由に出入りできるほどエルサレムは繁栄します。もはや城壁の役目が果たせない状況です。しかし城壁が役に立たないからといって敵を恐れる必要はありません。「わたしがそれを取り巻く火の城壁となる。(5節)」と主が告げるように、あたかも火がエルサレムを取り囲むように、主が完全にエルサレムを守るからです。人が火に近づけないように、主の存在が敵を近づけさせないのです。まさにエルサレムの真ん中に栄光すなわち主の偉大な存在が光を放つのです。

 

 当然ながら、エルサレムの神殿や城壁の再建、さらに都の繁栄は人の活動によるものです。けれども、それをなさせているのは主の働きなのです。目には見えなくとも、主がエルサレムの中心に住み、主が住民を守り、繁栄を通してその栄光を周囲の国々に輝かせるのです。「具体的な作業も大事。ただ何よりもまず主を信頼し主の働きに期待することが最も大事。」このことを測り綱を持った人の幻が、工事を中断した民そして現代の私たちに伝えているのです。

 

Ⅱ.主は神を畏れる者をエルサレムに集め、逆らう国々を滅ぼして、神の都を完成させる(2:6-13)

 若い者へのことばはさらに続きます。前もって要点をお伝えします。先ほど見ましたように、主はご自身の都エルサレムの再建を告げました。その上で、それをどのように実現するのか、ということをここから語ってゆきます。

 

 9節「このときあなたがたは、万軍の【主】が私を遣わされたことを知る。」そして11節「このときあなたは、万軍の【主】が私をあなたに遣わされたことを知る。」と語られていることから、ここには2つのことがらが告げられています。

 

(1)散らされた神の民をエルサレムに集めたのち、主はご自身に逆らう国々を滅ぼす(6-9節)

 主はご自身に逆らい続けたイスラエルの民を怒り、「天の四方の風」のようにアッシリア、エジプト、バビロニア、ペルシアといった国々に捕囚として散らしてゆきました(6節)。それで主はその代表としてバビロン捕囚を取り上げて、そこに住む人々にシオンすなわちエルサレムに直ちに逃げるように命じました(7節)。「北の国から逃げよ(6節)」とは、バビロニアからエルサレムに戻るためには、広大な砂漠を迂回して北側のルートを通る必要があったからです。

 

 ここで「さあ、すぐに(6節)」と急がせるのは、散っていた国々に対して主の怒りがまもなく下されるからです(8節)。主はアッシリアやバビロニアといった国々を用いて、神の民に罰を下しました。けれども、彼らは度を超えて、あたかも自分たちが神であるかのように神の民を略奪しました。「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。(9節)」とあるように、彼らの行為は主の瞳に指を突き刺すようなふるまいでした。瞳は人にとって最も守るべき大切な器官です。それゆえ、「あなたがたに触れる者」すなわち国が滅んだ後も神の民イスラエルの人々を痛めつけるのは、主を痛めつけていることと同じなのです。

 

 それで、主は主を畏れない国々に手を振り上げるごとく、彼らを滅ぼします(9節)。「彼らは自分に仕えた者たちに略奪される」とあるように、これまで世界を支配していた国が亡び、反対に虐げられていた神の民が世を治めるようになるのです。前回の幻で言えば、角として支配していた国が亡ぶとき、その国の人々は預言者を通して警告されていたことがその通りになったと悟るのです。

 

(2)主はエルサレムを再び聖なる都とし、主を畏れる者たちとともに住む(10-12節)

 主は散らされていた神の民をエルサレムに集め、そののち、主を畏れない国々を滅ぼします。ちょうど、ソドムとゴモラの町を滅ぼす前にロトを逃がしたようにです。そして、神の都エルサレムが始まります。「娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。」と主が呼びかけるように(10節)、エルサレムの住民は何の恐れも不安もなく、歓喜の叫びをあげられます。なぜなら、主が彼らの真ん中につねにおられ、火の城壁のごとく彼らを守るからです。

 

 ただし、エルサレムには散らされていた神の民だけが住むのではありません。「多くの国々が【主】に連なり、わたしの民となり」と主は言います(11節)。「主に連なる」とは「自ら主に留まる」を意味しますから、イスラエルの民を通して主を畏れる者が、自分たちの神ではなくイスラエルの神である主に従うのです。ヨシュア記に登場するラハブは出エジプトの様子を聞いて主を畏れ、そのことを告白したゆえに、聖絶を免れ主の民に加えられました。それと同じように、いまや異邦人であっても主を畏れて主に従えば、エルサレムの住民になれるのです。こうして、主は再びエルサレムをご自身の住む都とし、そこに主に所属する民だけが住まうのです(12節)。それゆえ、エルサレムの人々は喜び歌い楽しむ生活を送れるのです。

 

 さて、主はご自身の都エルサレムの再建を告げたのち、こう言います(13節)。「主の前に静まる」とは主に対して沈黙する様であり、主に畏敬の念を抱くふるまいを現しています。主は肉なる者、すなわちすべての人間に対して主を畏れるように命じます。なぜなら、「主が聖なる御住まいから立ち上がられる」からです。主はこの世に介入するために、天の住まいから立ち上がります。つまり、エルサレム再建に対して、すでに行動を起こしたのです。6-12節で見たように、主はご自身を畏れる者とそうでない者とを区別します。主は畏れる者を神の都エルサレムに入らせ、喜び歌い楽しみを与えます。一方、畏れない者には手を振り上げて滅ぼします。このことがすでに発動したから、「すべての肉なる者よ、【主】の前で静まれ。」と命じるのです。敵に妨害されて工事を中断した民にとって、このことばは大きな励ましになります。ご自身の瞳を守るごとく、神の民を大事する主のあわれみが伝わってきます。

 

■おわりに

 3番目の幻を今日の私たちに適用します。神はご自身に連なる者、言い換えれば、神を畏れる者を神の都エルサレムに住まわせます。その住民は神とともに住み、完全な平安と喜びに包まれます。今、私たちはキリストによる救いの時代に生きています。それゆえ、神に連なる者はゼカリヤの時代よりも明確に定められています。すなわち、イエスを救い主と信じる信仰を持つ者が神の民になります。そして、イエスが再びこの世に来られるとき、神の民は滅びを免れて聖なる都、天のエルサレムに入るのです。これが私たちの希望です。

 

 ただし、私たち神の民は今、全地に散っています。しかも、迫害や制裁、あざけりや冷やかしといった、信仰ゆえの苦難を生きています。しかし、「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。」と神が語るように、神は私たちがどのような苦しみに会っているのかすべてご存じです。それほど神は私たちを大事に思っているのです。これが私たちのなぐさめです。

 

 日曜日の礼拝には散った者たちが一堂に集まり、主の前に静まります。私たちはこの礼拝を通して、神から深いなぐさめを受け取ります。と同時に、天の都エルサレムへの希望をますます高めるのです。

最新記事

すべて表示
3月23日「八つの幻⑧~四台の戦車~」(ゼカリヤ書6章1-8節)

■はじめに  聖書は「神が悪を滅ぼすから、自分で復讐せず神に委ねること」を一貫して説いています(ローマ12:19,ヤコブ1:19-20,エペソ4:26-27など)。神は人が自分の判断に任せて手を下すことを良しとしていません。なぜなら、人は善悪や正・不正の判断を誤ったり、とき...

 
 
3月2日「八つの幻⑥⑦~空飛ぶ巻物と出て行くエパ升~」(ゼカリヤ書5章1-11節) 

■はじめに  「名を汚す」という言葉があります。これは、ある人のふるまいが、その人の所属する個人や団体の評判を悪くするとか名誉を傷つけることを言います。例えば、教会が組織ぐるみで不正をしたり、人々を苦しめたりすれば、間違いなく、キリスト教の名を汚し評判を落とします。それどこ...

 
 
2月23日「八つの幻⑤~金の燭台とオリーブの木~」(ゼカリヤ書4章1-14節) 

■はじめに  以前、あるイベントの準備中、プロジェクターから映像が出なくなりました。私はすぐにパソコンや配線などを調べようとしたのですが、その前に、ある牧師が「主が解決してくださるように」と祈りました。私たちは何か問題があるとすぐに、状況を確認して取れる手段を考えるものです...

 
 

Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page