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木村太

2月9日「独り善がりの信仰」(ホセア書8章)

  キリストは「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)」と語りました。これは、自分は信仰に篤いと訴える者よりも、神のことばを実行する者の方を正しい信仰と認める、という教えです。同じようにキリストの兄弟ヤコブも「あなた方は神は唯一だと信じている。けれども悪魔も同じように信じている。(ヤコブ2:19)」と言い、「神のみこころに沿った行いが無ければ悪魔との見分けがつかない。」と指摘しています。そこで今日は、北王国イスラエルの行いを通して、主が私たちに求めている信仰のあり方を見てゆきます。


Ⅰ.イスラエルは安心のために自分たちで王を立て、偶像を作った(8:1-7)

  6-7章と同じように、8章も北王国イスラエルの背きが暴かれています。ただしここでは、イスラエル自らの判断による行いに焦点が当てられています。

  1節「あなたの口に角笛を当てよ。」とあります。当時イスラエルでは敵が襲って来た時に角笛を鳴らして危険を知らせました。今、主の宮すなわち北王国イスラエルは鷲に狙われているごとく、たいへんなわざわいが迫っていると主は警告しています。なぜならイスラエルが主のおしえを破り続けたからです。それゆえ主はアッシリアの侵略というわざわいを下そうとしているので、角笛を鳴らせと警告するのです。

  イスラエルは2節「わが神よ、私たちイスラエルは、あなたを知っています」と自分たちの信仰の正しさや主への忠実さを声高にアピールしています。けれども主のおしえに従っていないので善を行うことができません(3節)。善は主が良しとすることであり(創世記1:4)、主のおしえに従わなければ成すことはできないからです。簡単に言えば、イスラエルは主の善ではなく自分勝手な善を行っていたから、敵というわざわいに向かっているのです。

  ここで主はイスラエルの自分勝手な善を3つ指摘します。一つ目は4-7節に記されています。モーセやヨシュア、サウル、ダビデの任命を見れば明らかなように、王や首長は主が選んだ者と律法で定められています(申命記17:14-15)。ですから指導者を勝手に選んではいけません。

  また、北王国イスラエルはベテルとダンに金の子牛を作り、これを神の像として礼拝しました。主はモーセの十戒において、神を何らかの形にすることを堅く禁じました。神を見える形に作るというのは、人知をはるかに越えた神を人の知識の中に押し込めることであり、人の下に神を置くことになるからです。それで主は5-6節のように、偶像を作ったイスラエル(サマリア)を怒ります。5節「わたしは彼らに向かって怒りを燃やす。いつになれば、彼らは罪のない者となれるのか。」とあるように、いつまでも自分勝手な彼らに我慢がならず、激しい怒りを燃やすのです。

  主はいつまでも愚かな北王国イスラエルをこう言います(7節)。風を蒔くとはむなしい行いのたとえで、自分勝手に王を立てたり偶像を作ったりしていることを指します。けれども、刈り取りはハリケーンのようなつむじ風ですから、たいへんなわざわいを受け取ることになります。麦は実らず、たとえ実ったとしても自分たちの手にできないというのも、働きに対して祝福ではなくわざわいが来ることを表しています。

  イスラエルは政治、経済、さばきといった社会の安心を得るために王を立てました。また心の安心を得るために神の像を作りました。彼らはこれらを良いことだと判断したから行ったのです。しかし、彼らがすべきだったのは、まず何よりも神のことばを信頼して従うことだったのです。だから主は「むなしい行いとそれがもたらすひどいわざわい」を警告するのです。


Ⅱ.イスラエルは国の平安のために他国に頼った(8:8-10)

  主はイスラエルが善と信じて行ったことの2つ目を語ります(8節)。ダビデやソロモンの時代、イスラエル王国は人には理解し得ない神の力が働いている国として、周辺の国や民族から畏れられ尊敬されていました。しかし今や北王国イスラエルは他の国からすれば無くなっても気にならないような国になってしまいました。主に背き続けた結果、国が繁栄せず衰退していったからです。「イスラエルは吞み込まれた。」とあるように、彼らは周辺国からの侵略を防がなければなりませんでした。それでこのような策を取りました(9-10節)。「ひとりぼっちの野ろば」とは頑固で欲情のままに相手を求める様を意味します。イスラエルはひたすら強い国と手を組んで自分たちの国を守ってもらう道に進みました。主ではなく外国に頼ったのです。

  ただし、助けてもらうためには貢ぎ物を相手にささげなければなりません。10節「彼らは、王や首長への貢ぎによって間もなく汚されることになる。」とあります。彼らは強い国の庇護を受けて安心するためにたくさんささげます。しかし、主の目から見ればそのふるまいは神の民であることを汚すことになっているのです。神の民という色がどんどん薄くなってゆくイメージです。それゆえ主は「彼らが諸国の民に物を贈っても、今、わたしはそれらを集める。」のように、彼らのふるまいを役に立てなくします。イスラエルにとってはいくら貢いでも見返りがないのですから、苦難に陥ります。でもそれは主の懲らしめであって、主に立ち返る機会なのです。けれども北王国イスラエルは懲らしめに気づかなかったために、ときにはアッシリアときにはエジプトと手を組んだので、最終的にはアッシリアに滅ぼされました。まさに風を蒔いてつむじ風を刈り取ったのです。

  北王国イスラエルのように、私たちも主以外の神や人や物あるいは方策に頼る弱さがあります。しかもやっかいなことに一度うまくいったらなかなかそれを手放すことができません。これが人の罪です。自分では「これは名案だ。」と信じて行ったとしても、神のことばに基づいていなければ風を蒔いていることになるのです。策による安心ではなくて、主に頼ることからの安心を求めましょう。


Ⅲ.イスラエルは主からの祝福のために祭壇や神殿を増やした(8:11-14)

  イスラエルが善と信じて行ったことの3つ目は礼拝です。11,14節に出てくる祭壇や神殿は礼拝のための場所です。人々は収穫を感謝するため、あるいは罪を赦してもらうためにささげものを持参して神を崇めます。ただし祭壇や神殿も主の指示によって作らなければなりませんから、勝手に作るのは許されません。あのダビデでさえ「神殿建設は次の王のものだから今はするな」と神にとがめられました。ですからエフライムすなわちイスラエルが祭壇を増やしたり、神殿をいくつも建てるのはまさに独り善がりの考えなのです。

  しかも主は祭壇を増やして礼拝すればするほど罪を増し加えていると見ています。その理由が12節です。主はイスラエルが正しい歩みをして繁栄し、主の栄光を放つために律法や預言を用いて多くのおしえを与えました。「多くの」ということばは「無数」とも訳せますから、どれほど主がイスラエルを大切にしているのかがわかります。けれども彼らはそのおしえが他国人のもの、いわば自分たちにとって何の役にも立たないと判断したのです。「礼拝はきちんと守っているけれども、神のことばには知らんぷり」これがイスラエルの実態でした。つまり、イスラエルは礼拝の場所を増やして一生懸命神を崇めているようですが、これは「神の前にへりくだって罪を告白し、神に聞き従う」という目的ではありません。「自分たちはこれほどまでに主を崇めています。」というアピールにすぎないのです。たましいの無い礼拝とでも言いましょうか。だから主は「罪を犯すための祭壇となった。」と断言するのです。そして13節のように、礼拝を喜ばないばかりか、かえって怒りを大きくするのです。主にとって彼らのやっていることは表面的なものばかりで怒りにしかなりません。それでついには「彼らはエジプトに帰る。」とあるように、エジプトでの奴隷のごとく他国で囚われの身というわざわいを下します。同じように、南王国ユダも主に頼らず城壁のある町という軍事力に頼ったため、怒りによってそれらの町々は焼き尽くされます。実際に南王国ユダはバビロニアに、北王国イスラエルはアッシリアによって滅亡しました。

  イスラエルもユダも「自分たちにとってこれが良いことだ」と確信してとった方策が、すべて主の怒りを買いました。風を蒔いてつむじ風を刈り取ったのです。主が求めているのは、たくさんのいけにえで、たくさんの礼拝をささげることではありません。ただ一つ、主のことばに忠実に聞き従うことなのです。

  


  主はイスラエルが本来の神の民に戻って欲しいから、たくさんの教えや戒めを与えました。この主のあわれみは現代の私たちにもかけられていて、イスラエルと同じように聖書という神のことばが与えられています。聖書は「イエスが神の子であると信じること。そして信じた者が永遠の命を得ること。」このために書かれました。さらに、イエスを救い主と信じた者が神の喜ぶ生き方になるためでもあります。つまり私たちが初めに造られたときのように平安に満たされ、決して滅びることなく永遠に生きるために聖書はあるのです。そのことを詩人はこう歌いました。「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。(詩篇119:105)」主は私たちが何をしたのかに注目しません。私たちが主のことばに注意を向けて聞いて従っているかに関心があります。時として主のことばは私たちの意にそぐわないでしょう。「それはちょっと...」と尻込みすることもあるでしょう。けれども主に聞き従う道だけが平安と喜びに満ちる道なのです。

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