・はじめに
私たちは毎日人と関わって生きています。家族、職場の人、クラスメート、近所の方々など、様々な人々と様々なかたちで関わりを持っています。その際皆さんは、キリストが間を取り持ってくださることを意識しているでしょうか。あるいは取り持ってくださるように願っているでしょうか。今日は、生まれつき目の見えない人に起きた出来事を通して、神のわざがどのように人になされるのかを聖書に聴きましょう。
Ⅰ.イエスは目が見えないことと罪の関係を否定し、神のわざがなされるためであると告げた(9:1-5)
イエスは神殿でユダヤ人たちと罪の奴隷について問答しました。最終的には、ユダヤ人たちはイエスがアブラハムや神を冒涜していると見なして石打にしようとします。しかし、イエスはまだ十字架の時に至っていないので難を逃れました。その後もイエスは弟子たちとエルサレムに留まっていました。
イエスと彼の弟子たちは生まれつきの盲人を目にします(1節)。おそらく彼は道端で物乞いをしていたのでしょう。当時のユダヤ人社会では、障害を持った人があわれみを訴えてお金などの施しを受ける行為が認められていました。ですから驚くような光景ではありません。
弟子たちはイエスに、生まれつき目が見えないことと罪の関係を尋ねます(2節)。なぜなら、ユダヤ人は病気を初めとする不幸と本人や親の犯した罪との間に因果関係があると信じていたからです。日本でもこのような思想がありますね。この質問から弟子たちについて2つのことが分かります。
①罪の無理解:イエスは宮で罪の奴隷について語っていました。けれども彼らは不幸になっているかどうかで罪の有り無しを見ています。自分たちにも罪があることを分かっていないのです。
②盲人への無関心:弟子たちは目が見えない原因に関心があり、彼の心に寄り添おうとしていません。
それでイエスが答えます(3節)。イエスは目が見えないことと罪との関係を否定します。ルカの福音書にもあるように、罪は永遠の滅びをもたらすものであり、この世の不幸や災難とは無関係なのです(ルカ13:1-5)。そうではなくてイエスは「この人に神のわざが現れるため」と言います。この人を通して神の存在と神の不思議さすばらしさが世の中に明らかになるためと言うのです。生まれつきの障害や災難をさげすんだり見下したりするのではなく、神のわざがなされるという視点から見るのです。
さらになぜ神のわざがなされるのか、その理由をこう言います(4-5節)。「昼のうち」と「わたしが世の光」とあるように、イエスが地上にいる間はイエスご自身によって神のわざが明らかにされます。あるいはイエスから権威を授けられた弟子たちが神のわざを明らかにします。つまり、イエスや弟子たちが不思議なわざを通して、イエスが神から遣わされた神の子であることを証明するのです。
いずれイエスは十字架によって死んでイエスによる直接的なわざが地上でなされなくなる時、いわゆる夜が来ます。だからイエスが地上におられる間に神の不思議なわざをなさなければなりません。生まれつき目が見えないのはその人を責める材料ではなく、その人に神の栄光が輝くためであるという、神との関わりからイエスは見ているのです。
私たちも弟子と同じように、神抜きで人や物事を見てしまいます。一方イエスは「それを通して神が何をなされるのか/神の栄光がどのように示されるのか」という神の介入を最優先にします。私たちは大変な困難にあるときは神の介入を必死になってイエスに求めます。けれども何気ない会話や応対においても「神の栄光があるように」という意識が必要です。
Ⅱ.盲人が見えるようになった事実が、イエスによって神のわざがなされたことを明らかにしている(9:6-12)
イエスは弟子たちに語った後、自ら行動に出ます(6-7節)。この当時、唾は治癒力があると信じられていました。ここで大事なのは「イエスが盲目を治す行為をした」ということです。これまでイエスはいくつかの不思議なわざ、いわゆる奇蹟をなしてきました。その際イエスはことばだけであり、奇蹟を起こすための象徴的なふるまいをしていません。例えば、カナの婚礼では「水瓶の水を汲んで持って行きなさい(4章)」でしたし、王室の役人では「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と告げただけです。ベテスダの池では38年間足の不自由な人に「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じただけです。でもこれではイエスが奇蹟をなしたとも取れるし、イエスがそうなっているのを見抜いたとも取れます。
しかし、今回はご自分の唾で泥をこねて両目に塗りつけました。それゆえ目が見えたあかつきには、イエスの行為で目が見えるようになったと言えます。よく手品で、ふうっと息を吹きかけたり、変なおまじないをかけますが、これはマジシャンが不思議な力を持っていると思わせるためです。ですから泥を塗ることで、イエスが神の不思議なわざをなしたとはっきりと証言できるのです。
イエスが「行って洗い流しなさい」と命じたシロアムの池はエルサレムの南にあります。この池は岩をくりぬいて他の泉から水の供給を受けているので「遣わされた者」という名前が付いています。目が見えない原因を洗い落とすごとく、泉からの清らかな水で両目の泥を洗い流すようにイエスは命じました。「神から遣わされたイエスによって盲目を洗い流す」というのをイエスが意図していたかもしれません。
ところで「人の唾で泥を作って目に塗り、池でその泥を洗い流す」というのは当時も今も医学的な治療ではありません。ある種のおまじないみたいなものです。人によってはバカにされていると取られてもおかしくありません。アラムの将軍ナアマンも「ヨルダン川に入って身を7回洗えばツァラアトが治る」とエリシャに言われて「そんなんで治るか!」と激怒しました。ですから「行って、シロアムの池で洗いなさい。」というのは、イエスに従うかどうかを試すことばでもあるのです。
生まれつき目の見えない人はイエスのことばどおりにしました。そして目が見えるようになり家に帰りました。彼がイエスを信じたか半信半疑だったのか、一か八かだったのかここからは分かりません。ただ事実は、イエスの行為とイエスのことばに従った結果、人知の及ばないことが起きたのです。
それで彼の知人たちは目が見えるのを知ってたいへん驚きました(8-9節)。「ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。」とあるように、にわかには信じられないほど驚いたのです。イエスによってなされた神のわざが盲人を一新したのです。それで知人たちは「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。(10節)」と尋ね、どうやって見えるようになったのかを何としてでも知ろうとしました。
そこで目が開いた人が答えます(11-12節)。イエスの行為は目が見える前でしたので、当然ながらどの人がイエスか分かりません。けれども11節のことばが「イエスによってあり得ないことが起きた」これを証言しているのです。そして目が見えるようになったことが神のわざがなされた証拠になるのです。まさに、盲目だったのはイエスを通してこの人に神のわざが現されるためでした。「イエスによって」という事実と「このように変えられた」という事実、この2つが「イエスによって神のわざがなされた」ことを世の中に明らかにするのです。
・おわりに
生まれつき目の見えない人に起きたできごとから、神のわざについて3つのことが分かります。
①イエスを通して神のわざがなされる
②イエスのことばに従順な者に神のわざがなされる。その頂点が永遠のいのち。
③神のわざを受けた者は目に見えるかたちで変化が現れる
聖書の中で最も劇的に変えられたのがパウロです。彼はダマスコに向かう途中でよみがえりのイエスと出会い、イエスによって熱望していた義を神から認められました。そして、イエスを信じる人々を迫害する者から「イエスこそが救い主」を証しする者に変えられました。以前のパウロを知るクリスチャンもこう驚きました。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。(使徒9:21)」だれもが「本当にあのパウロか」と疑うほど、パウロの内面は変えられたのです。
私たちはイエス・キリストを救い主と信じ、イエスと結びついています。それゆえ、祈りの中で、礼拝の中で、聖書を読む中でイエスからことばをいただいています。そのことばに従う時、人知を越えた神のわざが私たちに働き、周囲の人が気づくほど私たちは変えられます。そして変化に気づいた方に事実を伝えます。これがイエスを証しする生き方です。
イエスのことをわかりやすく説明できなくても、聖書をうまく語れなくても、私たちの存在そのもので「イエスを、神のわざを」知らせることができます。同時に変化に気づいた方にイエスと関わる機会を作っています。人と接する場に私たちがキリストを持ち運んでいるのです。
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