・はじめに
最近のドラマやアニメでは、ほとんどが3ヶ月が一つの期間となっています。そのため1月から始まった番組の最終回が三月末にあり、今はクライマックスに向かっている時期です。連続ドラマであれば「ああ、あの話ががここにつながるのか」という具合に、各回で流された伏線が、だんだんわかってくる時期とも言えるでしょう。ただし、毎回見ている方は何の伏線なのかわかないのですが、制作側は全部知っています。実は制作側と視聴者の関係が、神と私たち人の関係に似ているのです。今日は、マンダーズ先生ご家族を送るに当たって、「日々の出来事をどのように見るのか」ということを聖書に聞きます。
Ⅰ.世の中のあらゆる出来事には始まりと終わりが必ずあるから、そこだけを見ると空しさしに終わる(3:1-9)
著者の伝道者はこの書の冒頭で「天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。/私は、日の下で行われるすべてのわざを見た。(伝道者1:13-14)」と語っています。そして、この世のあらゆる出来事を観察した末に伝道者が出した結論が1節です。
ここで、「すべての営みに時がある」の「時」は「ちょうどよい時」を意味しています。ですから「地上でのありとあらゆることが、まさにこの時しかないタイミングで起こっている」と伝道者は見極めました。それで伝道者は人が関わるすべての出来事をこうまとめています(2-8節)。
①2節:人や植物の生と死。自分でその時を決めることはできない代表例。「生まれた/植えられた」ものは始まりと終わりに関われない。
②3節:破壊と回復。人が始まりと終わりを定めることができる。
③4節:喜怒哀楽を引き起こす出来事。人が始まりと終わりを定めることが困難。
④5節:「石を捨てる:不毛の地にする/石を集める:畑作り」という解釈から気に入る、嫌うを指す。
人が始まりと終わりを定めることができる
⑤6節:物の執着。人が始まりと終わりを定めることができる。
⑥7節:「引き裂く:悲しみ始まり/縫う:悲しみの終わり」「黙る:悲しむ/話す:喜ぶ」。悲しみや喜びといった人の感情。人が始まりと終わりを定めることが困難。
⑦8節:愛憎とそれがもたらすもの。人が始まりと終わりを定めることができる。
一つ一つに「...のに」ということばが入っている通り、伝道者はあらゆる出来事に「始まりも終わりもまさにこの時としかいいようがない」と言うのです。しかも興味深いことに、喜怒哀楽といった感情にも時があると語っています。「物を作る/壊す」「手に入れる/手放す」のように物質や出来事は、その始まりと終わりを人が定めることができます。けれども「さあ笑おう/あと1分で悲しみを終わりにする」といった感情の「時」を私たちは基本的に制御できません。しかし間違いなく感情にも始まりと終わりがあるのです。
そして始まりと終わりを持つすべての出来事について伝道者はこう言います(9節)。2-8節を見て明らかなように、この世の出来事はすべて「始まりと終わりの繰り返し」です。あるところに永遠に留まっていることは不可能です。地形や気候のように一つも変わっていないように見えるものも、数千年や数万年単位で移り変わります。
つまり、すべては無限に続かないのです。それゆえ「何の益を得るだろうか?(いや、ない)」とあるように、あらゆる出来事が終わりを迎えるから、この世に空しさを見出すのです。一つ一つの出来事だけを切り取って見てしまうと、最終的には無意味とか空しさに至ります。だから人は失望に包まれたり、今の状態を保つために必死になるのです。これが人の視点から出来事を捉えた結果です。
Ⅱ.世の中のあらゆる出来事は神の計画に基づいているから、すべてに意味がある(3:10-11)
では人はあらゆる出来事をどう捉えれば良いのでしょうか。そのことも伝道者は明らかにしています(10節)。10節「仕事」とは人がせわしなく動く姿を意味します。伝道者は「人がせわしなく動く」ような出来事を神が与えていると言うのです。突き詰めていうならば、天の下すなわち地上のあらゆる出来事は神の支配にあるということです。
それで伝道者はこう言います(11節)。「美しい」は「すばらしい」とも訳されます。ここで大事なのは誰から見て「美しい/すばらしい」のかです。伝道者が言うように、この世のすべての出来事は神のご計画に沿って私たちに与えられています。ですから、私たちの目からすれば一つ一つの出来事にどんな意味があるのか分かりません。だから「すばらしい/ちょうど良い時」と思えないこともあるのです。
でも神からすれば、ご自身の計画通りであり、すべてに意味があり、それぞれがつながっているから「すばらしい/ちょうど良い時」と言えるのです。冒頭に申しましたように、連続ドラマでは視聴者は最終回を見終えなければ、様々なシーンが何の意味を持っているのかわかりません。一方制作者は、全体のストーリーの中で必要なシーンを配置しています。それと同じように、神がすべてのできごとを神のご計画通りに配置しているのです。
さらに伝道者はこう言います。「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」11節後半にあるように、人はこの地上では永遠に生きられません。だから一つ一つの出来事に何の意味があり、どうつながって行くのか見極められません。ときには終わりを見ることなく命を終えます。けれども、永遠のことを思う心、すなわち永遠に存在し、治めておられる神に思いを向けることはできます。これこそが、見えるところだけでとらえるのではなく、神の視点からとらえるという、視点の転換なのです。
そして、永遠なる神の視点からとらえることは私たちにとって恵みと言えます。なぜなら聖書から明らかなように、神は人が祝福の人生を歩み、人を通して神の栄光を現すことを望んでいるからです。つまり神は私たちが平安や喜びといった祝福を受け取るために、計画し実行しているのです。そこを知っていることは私たちにとって本当に救いです。
永遠に生きるキリストと結びついている私たちは永遠のことを知っています。だから「今起きていること/これまで起きたこと」は空虚で無限の繰り返しではなく、一つ一つに意味があり、つながりがあり、私たちを祝福しようとする神の計画に沿っているとわかるのです。それゆえ私たちは空しさや失望、あるいは喜びの終わる恐怖・不安から解放されているのです。
ただし、神のご計画ですから、私たちが出来事の意味をわからないこともたくさんあります。時間が経ってから「あれはこのためにあったんだ」と分かるものもあります。反対に「なぜ、このタイミングで神はこれをなさるのか」と神への疑問が生まれたり、ときには落胆や怒りが出るものもあります。でもそれでもいいのです。大事なのは「私を大事に思う神のご計画の中で生きている」ここに目を向けることです。
・おわりに
私たちは毎日様々なことに直面します。うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと、つらいこと、笑えること、怒ること、何としてでもやってみたいこと、何としてでも避けたいこと、自分に原因があること、自分とまったく関係のないこと。あらゆる出来事が神の計画にあるのですから、私たちはそれに抗うことはできません。
マンダーズ・スティーブ先生、佐重子先生、エミリーさんご家族は2015年4月から美唄に住まいを置いてJECA空知地区4教会の宣教に携わってきました。特に、私たちの教会は2008年4月から牧師不在が7年間続いていましたので、言葉で表せないほどの安心や喜びとなりました。しかし「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」のとおり、今年度をもってそのお働きを終えられます。同時にご家族のそれぞれが新しい人生をスタートし、教会もまた新しい活動がスタートします。伝道者が言うように私たちの人生は「始まりと終わり」の繰り返しです。人の集まりである教会も同じです。
けれども私たちは永遠に目を向けます。一つ一つの出来事は単なる繰り返しではなく、神のご計画に沿ってつながっているのです。一つ一つがパズルのピースのように決められた所に置かれているのです。この視点を持つ時、私たちは喜怒哀楽で浮き足立つことなく、神の手の中にいるという安心と期待を持つことができるのです。
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