■はじめに
「毎週礼拝に出席している。奉仕も一生懸命やっている。献金もきちんとささげている。毎日祈り、聖書を読んでいる。だけど神様どうして私の抱えている問題は解決しないのですか。私の信仰が足りないからですか。」こういった神への失望、疑いあるいは自責の念は誰にでも起こりえます。マラキ書はそんな私たちに「神は永遠に変わらず私たちを愛している」という約束を教えてくれる書です。今日は「神は事実を通してご自身の愛を証明している」ということをみことばに聞きます。
本論に入る前に、マラキ書について簡単に説明します。紀元前500年代半ば、イスラエルの民はバビロニアでの囚われの身から解放され、エルサレムに戻って来ました。その直後から、民は預言者ハガイやゼカリヤの励ましを受けて神殿を再建し、待ちに待った神殿での礼拝を再開しました。その後、ネヘミヤの指導の下、城壁も再建できました。ところが、神殿礼拝を再開して80年以上経っても、彼らが期待していた祝福はやって来ず、人々の生活は貧しさを極めました。そして、神に幻滅し、神への疑いと不信が生まれ、やがて人々は礼拝よりも自分の生活の安定を優先しました。その結果、礼拝は表面的・形式的になり、神へのささげものや律法も軽んじられるようになりました。このような中で、神は預言者マラキを通して、「私はあなた方を愛している。でもあなた方は本当に私を愛しているのか。」という問いかけをするのです。
■本論
Ⅰ.神の愛は無条件であり、一方的である(1:1-2)
主なる神は、預言者マラキを通してエルサレムにいるイスラエル民族にご自身のことばを語ります(1節)。神は最初に「わたしはあなたがたを愛している(2節)」と宣言とします。イスラエルの歴史において神は何度も「愛する」を語っていて、そこにはいくつかの特徴があります。
①愛する:大きな価値があると認める。尊い存在であると認める。
②神中心すなわち一方的であり、理由を持たない。人は「あなたが優しいから/家族だから」のように愛する理由をつけたがるけれども、神はそうではない。
③永遠に変わらない約束。人の愛は自分や相手の状況で無くなることがある。
愛の宣言に対して、イスラエルの民はこう答えます。「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか(2節)」彼らは「その通りです。あなたは私たちを愛してくださっています。」と答えることができません。先ほど申しましたように、エルサレムに戻っては来たけれども、依然としてペルシア帝国の支配にあり、税の負担にあえぎ、そして約束していたメシアの来る気配もありません。つまり彼らは、目の前の状況に神の愛を見いだせないのです。「愛しているならなぜこんなふうになるのか」と神の愛を疑っているのです。
これに対して神はこう答えました。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──【主】のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。(2節)」神は愛している事実をエサウとヤコブへの対応から説明します。イスラエルの家族制度そして律法においては長男が父の財産や地位を相続しましたから、相続する権利は兄のエサウにあります。その上、父イサクはヤコブよりも兄エサウの方をを愛していましたからなおさらです。
しかし、神は二人の生まれる前から弟ヤコブを愛し、アブラハムから続く祝福の契約を父イサクからヤコブに受け継がせました。これこそ、人には理解できない神中心の一方的な愛なのです。さらにその後、ヤコブを父祖とするイスラエル民族がどんなに背いたとしても、民が悔い改めて神に助けを求めたら、神はその求めに応じてきました。たとえアッシリアやバビロニアによって国が滅んだとしても、イスラエル民族を囚われの身という形で残しました。
なぜ神がヤコブを愛して契約の民に選び、エサウを退けたのか、私たち人にはわかりません。けれども、この事実が神の愛はあくまでも神中心であり、理由を必要としない愛であることを証明しているのです。神の愛は「あなたが~をしたから」といった見返りの愛ではありません。「わたしはあなたを愛したいから愛する」これが永遠に変わらない神の愛です。
Ⅱ.イスラエル民族(ヤコブ)とエドム民族(エサウ)の歴史が、ヤコブに対する神の愛を明らかにしている(1:3-5)
さらに神はエサウの歴史からヤコブすなわちイスラエルの民への愛を証明します(3節)。「憎む」は何らかの行為への憎しみや敵意ではなく、エサウを神の民から退けたことを意味しています。エサウから生まれたエドム族は死海から南の地方に定住しました。この地方は荒野を住みかとするジャッカルがいるような不毛地帯でかつ山地でした。ヤコブはこれと全く反対です。神はヤコブを父祖とするイスラエルの民を乳と密の流れるカナンの地に導き入れました。一方、エサウには彼らが荒れ地を選んでもそのままにしておき、しかも荒れ果てたままにしました。この土地がカナンのように肥沃になることは決してなかったのです。
それだけではありません。エドム族は廃墟を建て直そうと決意し、行動に移しても神はそれを阻止しました(4節)。事実、BC4世紀、エドムの地域はナバテア人によって侵略されても、エドム族は取り戻せませんでした。エドム族がいくら町を再建しようとしても、その通りにはなりませんでした。だから「【主】がとこしえに憤りを向ける民と呼ばれる。」とあるように、周辺の人々は神がエドム族を怒って、壊しているように捉えたのです。
一方、イスラエル民族に対して神はどのような働きをなしたでしょうか。イスラエルの民はいつも気弱で神に文句を言っていました。エジプトを出たあと海とエジプト軍に挟まれたとき、荒野で水や食べ物が無くなったとき、カナンの地を偵察したとき、彼らは「神がいるから大丈夫だ」とはなりませんでした。もし民が何事にも動じなく、堂々としていたら、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」と命じる必要はありません。
けれども神は彼らを放っておかず、不思議な方法で彼らを助けました。海を分け、ヨルダン川をせき止め、空からマナを降らせ、岩から水を出しました。勝つ見込みのない戦いに勝利させました。イスラエルの歴史を振り返ればヤコブを愛しエサウを憎んだのは明白なのです。「ヤコブを愛する」という神のことばは口先だけではなく、事実として現されているのです。
さらに神は、イスラエルに敵対し攻撃した民族や国にもさばきを宣告して、その通りにしました。アッシリアやバビロニアの滅亡はその典型と言えます。だから「『【主】は、イスラエルの地境を越えて、なお大いなる方だ』と。(5節)」とあるように「神は私たちを愛するが故に、イスラエルの国を超えて、周辺国や民族に大いなるわざをなされる」とほめたたえるのです。
イスラエル民族は目の前の現実だけを見て「神はどのように私たちを愛しているのか」と疑っています。しかし、時間的にも空間的にも広い視野で事実を見たとき、神は確かにヤコブを父祖とするイスラエルの民を愛していると分かるのです。同じように、私たちも今起きている出来事や、置かれている状況だけを見てしまうと「神は私を愛しているのか/神は私を見放したのではないか」と疑ってしまいます。けれども過去を振り返り、同時に周りで起きたことに目を留めれば、「あのときも神は不思議な方法で私を助けてくださった」と神の変わらない愛に気づくのです。そしてこの気づきから「私には愛してくださる神がいる」という安心と希望が生まれるのです。
■おわりに
現代に生きる私たちにとって、「神はあなたがたを愛している」という証拠は何でしょうか。イスラエルの民と同じように、現代の私たちにも神は愛していることを事実として明らかにしています。それがイエス・キリストの十字架です。
ヨハネは手紙でこう語っています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:9-10)」神は罪のために滅びに向かう私たちを放ってはおきません。私たちを愛するがゆえにキリストをこの地上に誕生させ、十字架の死という方法でご自身の怒りを宥めました。そして死からキリストをよみがえらせ、ご自身のおられる天に引き上げて、義と認められた者の行く先を明らかにしました。
この事実こそが神の愛なのです。神の愛は目には見えません。けれども、実際の出来事として私たちに現されているのです。だから私たちは「わたしはあなたがたを愛している。」という主のことばに対して「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と問うことはありません。「イエス・キリストが私たちを愛している証拠です。」と答えるのです。
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