■はじめに
聖書には、目に見える出来事の裏に真実が隠されている場合があります。例えば、北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダはバビロニアに滅ぼされました。これは目に見える事柄によれば、アッシリアとバビロニアが支配勢力を伸ばした結果です。しかし、真実はイスラエル民族の背信が極みに達したから、神が外国を用いてイスラエルを滅ぼしたのです。キリストの十字架も同じです。出来事としてはピラトの判断ですけれども、真実は人の罪を赦すために罪のない神の子がいけにえになったのです。今日は、律法による祭儀が本当は何を意味していたのかを見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.初めの契約では、神の前に出るためには様々な物品が必要だった(9:1-5)
手紙の著者は、初めの契約(古い契約、第一の契約)が終わって今は新しい契約の時代となっていること、さらに新しい契約の方がすぐれていると語りました。そしていよいよキリストによる新しい契約がどれほどすぐれているのかを具体的に示そうとします。ただし、著者はすぐれていることを際だたせるために、ユダヤ人が守り通してきた初めの契約の不完全さから語り始めます。
初めの契約いわゆる旧約では、祝福は律法を守っているかどうかにかかっていました。その中で著者は罪の赦しについての祭儀、ここで言うところの「礼拝の規定と地上の聖所」を取り上げています(1節)。この後で語ろうとするキリストと密接に関わっているからです。彼はまず聖所について説明します。
幕屋において外庭からの入り口が第一の垂れ幕であり、そこから入った場所が聖所と呼ばれる第一の幕屋です(2節)。聖所には燭台、神へ供えるための臨在のパン、パンを置くための机がありました。さらに、聖所の奥には第二の垂れ幕があり、その先が至聖所と呼ばれていました。「至聖所」は直訳では「聖いものの中で聖いもの」ですから、この場所で完全に聖い神に謁見します(3節)。
著者は至聖所も説明します。至聖所には金の香壇と金で覆われた契約の箱がありました(4節)。ただし、ここの説明からすると香壇は至聖所側ですが実際には聖所にあったと考えられています。契約の箱の中には3つの物が納められていました。
①マナの入った金の壺:神がイスラエルを養った記念。神は見放さず見捨てないことを覚えるため
②芽を出したアロンの杖:祭司職は神が定めた者であることを記念。神の権威が最高であることを覚えるため
③契約の板:神との契約を記念し覚えるため。契約の板には神のことばが記されているから、この板は神そのものであり、それを納める箱は神がここにおられる象徴
また箱には「宥めの蓋」が置かれ、蓋の上をケルビムが覆っています(5節)。今申しましたように契約の板は神のことばすなわち神そのものですから、人はそれを見たら神によって滅ぼされます(Ⅰサムエル6:19,Ⅱサムエル6:6-9)。ですので蓋が掛けられています。さらに、大祭司は年に一度この蓋にいけにえの血を振りかけて、人の罪に対する神の怒りをなだめます。それで、この蓋は「宥めの蓋」と呼ばれます。そしてケルビムも神がおられることの象徴ですから、箱の前に出るのは神の前に出ることと同じなのです。ただし著者はここまで説明しておいて「今は一つ一つ述べることはできません。」と言います。なぜなら、今読者にとって大事なのは律法における物品の細かな説明ではなく、新しい契約におけるこれらの意義だからです。
2-5節からわかるように、初めの契約すなわち旧約では神の前に出るのは容易ではありません。神が定めた場所に神が定めた方法で施設を建てて物品を備えなければならないからです。さらに困難なのは、様々な物品が金で作られていたり覆われていることから明らかなように、永遠に完全に聖い神の前に罪ある私たちは顔を向けられないことです。契約の板を直視して死ぬのですから、生身で神の前に立てる訳がありません。しかし、今私たちはキリストを仲介としていつでもどこでも神の前に出ることができます。いわばキリストが「宥めの蓋」となっておられるからです。私たちは「神の前に出て神に向かって直接祈れる」すばらしい特権があるのです。
Ⅱ.ささげ物といけにえでは、人の罪は完全に赦されない(9:6-10)
次に著者は礼拝の規定を語ります。6節にあるように、神への感謝や罪の赦しのための礼拝は聖所で日常的に行われ、祭司が当番制で働きを担います。一方、第二の幕屋いわゆる至聖所には、年に一度「なだめの日(レビ記16:29-34)」とか「大贖罪日」とも呼ばれる日に大祭司だけが入り礼拝します(7節)。
「なだめの日」は、イスラエルの民すべてが知らずに犯した罪を赦してもらうための礼拝です。日常的な礼拝では「故意に犯した違反/人に指摘されたり、後になって自分で気づいた違反」が扱われます。つまり、自分が認めた律法違反を赦してもらうためです。けれども人には無意識に行ってしまったもの、あるいは自分も含めて誰も罪と気づかないものもあります。そういった毎日の礼拝で扱わなかった律法違反のすべて、それもイスラエルの民全員分を大祭司が神の前に赦しを請うのです。ですから大祭司はイスラエルの民の代表であると同時に神と民との間をとりなしているのです。そして、すべての違反を赦してもらうため、また大祭司自らの違反を赦してもらうために、大祭司はいけにえの血を携えて至聖所に入り、規定に則って血を振りかけます。
「日常的な礼拝と年一度のなだめの日」これらによってユダヤ人はすべての違反が赦され、聖い者となったと信じます。けれども、「真実はそうではない」と著者は言います。「第一の幕屋が存続しているかぎり...」とあるように、律法による幕屋や礼拝の規定では、一般人が神の前にいつでも出ることはできません(8節)。言い換えれば、律法という初めの契約がある限り、民は完全に聖い者にはなれないのです。「聖霊は、次のことを示している」とあるのは、この真実は聖霊を通して神によって目が開かれた者しか気づかないことを示しています。ですから、「日常的な礼拝と年一度のなだめの日」を守れば聖くなれると信じているユダヤ人は、いまだ真実に目が開かれていないのです。
どうして「聖所への道」すなわち聖い者とされて神の前に出ることができないのかを著者はこう言います(9節)。
「この幕屋は今の時を示す比喩です。」とあるように、キリストの時代においては、幕屋に代表される律法は人を聖くできないことを示しています。なぜなら、今はキリストによって聖くなれるからです。律法で定められたささげ物やいけにえは目に見える違反を赦すものです。また、10節にある飲み物食べ物といった規定はからだに関することですから、行いにおいて正しい者に導きます。けれども、行いを引き起こす良心を神のみこころにかなった完全なものにすることはできません。言い変えれば、律法は人を内側から根元的に聖くすることはできないのです。パウロが言うように、キリストを信じキリストと一つにならなければ、神の目から見て聖い者にはなれないのです(ローマ6:5)。
「律法を守れば祝福、背けばのろい」という初めの契約において、礼拝や聖所の規定に従えば人の律法違反は赦されます。けれどもこのことは目に見える表面的なことがらです。一方、神によって目が開かれた者は、律法では人の内面を変えられないこと、神のみこころにかなった正しい者にはなれないことがわかります。それゆえ、人を聖い者にする方法、すなわち神の前に出る道には新しい契約、第二の契約があることがわかるのです。それがキリストの死とよみがえりによる新しい契約です。
■おわりに
人は目に見えることを信頼しやすく、安心を見出しやすい性質があります。聖所や至聖所で罪をゆるす礼拝をすれば、自分の罪がすっかり赦されたように思えます。日本でも禊ぎとか祓いの儀式をしてもらえば「清められた/悪いものが払われた」と信じます。
一方、キリストによる救いは目に見えないし、しかも天の御国は将来のことです。また、神へのとりなしも祭司のように目に見える形ではありません。だから、読者であるユダヤ人クリスチャンは目に見える形式のユダヤ教に戻ろうとしたり、木や石の像による天使礼拝に誘惑されるのです。私たちも「祈りの回数や時間を増やしたら願いは叶うかも」「十字架が掲げられている礼拝堂で祈る方が効果があるかも」と考えてしまうものです。
けれども、キリストの「十字架での死」と「3日目のよみがえり」と「天に上った」という目に見える事実があります。この事実によってキリストのことばの正しさが証明されました。だから私たちは神もキリストも聖霊も目には見えないけれども、天の御国に入ることを確信し、キリストがいつも神と自分とをとりなし、聖霊を通して不思議な助けがあることを確信できるのです。
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