■はじめに
今日から受難週が始まります。受難週は、イエスがエルサレムに入った日「しゅろの日」から始まり、十字架で死んだ受難日を経て、よみがえった日「イースター」の前日までの期間です。イエスは群衆の熱狂的な喜びの声を浴びながら、しゅろの敷かれた道をロバに乗ってエルサレムに入城しました。しかし、わずか一週間で群衆の叫びは「十字架につけろ」に変わりました。ただし、罪の有無や量刑といった判決はポンテオ・ピラトの役割です。つまり、イエスの命はピラトの手の中にあるのです。今日は、ピラトによる裁判を通して、なぜイエスが十字架刑となったのかを見てゆきます。
■本論
Ⅰ.ピラトの尋問に対してイエスは「ユダヤ人の王」だけを答え、それ以外には沈黙を保った(15:1-5)
本論の前に、イエスのゲツセマネでの逮捕からここまでの出来事を簡単におさらいします。イエスはまず大祭司カヤパの邸宅に連行され、そこで最高法院(サンヘドリン)から尋問を受けました。ここでイエスが「私は神の子である」と認めたので、議会は神冒涜によりイエスを死刑の罪に定めました。ただし、死刑はローマ帝国の法律による判決が必要なため、ローマの裁判をしなくてはなりません。それで、最高法院のメンバーはピラトのところにイエスを連れてゆきました(1節)。
ローマ帝国は支配している地域に総督を置き、司法、立法、行政など、あらゆることにおいて最高の権威を与えました。ただし、庶民の生活の場では、その土地の王や宗教指導者たちに統治する権限を認めていました。この当時のパレスチナ地方総督はポンテオ・ピラトでした。ピラトは過越の祭りの期間中、警備のためにエルサレムの総督官邸に駐在していました。
最高法院の議員たちはピラトの所へ連れてゆく前に、イエスがローマの裁判で死刑となるための罪状を協議しました。なぜなら、ユダヤの律法では神の冒涜は死罪にあたりますが、ローマの法律では死刑はおろか何の罪にもあたらないからです。ですから、イエスのこれまでの言動から、ローマ法で罪になりそうなものを、議員たちは相談したのです。その罪状がルカの福音書にあります。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。(ルカ23:2)」つまり最高法院は、国内を混乱に陥れた騒乱罪、また皇帝カエサルに背く反逆罪でイエスをピラトに訴えたのです。
この訴えに対しピラトは2節「あなたは、ユダヤ人の王なのか。」とイエスに尋ねました。これにイエスは「あなたの言う通り」と答えます(2節)。ただし、「ユダヤ人の王」の解釈は両者で違っています。ピラトはこの世の国王と考えているのに対し、イエスはこの世とは違う、神の国の王と言っているのです。もちろんピラトはこの違いをわかっていません。ただどちらにせよ、ピラトにしてみれば一人の男が「自分は王だ」と主張しているに過ぎず、単なるたわごとで全く罪にはあたりません。
一方、祭司長たちは何とかしてピラトに有罪判決を出させようと、犯罪になりそうなことを並べ立てます(3-4節)。しかし、イエスは最高法院で沈黙を通したように、ここでもでっち上げの訴えには口を閉ざし続けます。余計な弁明は相手を興奮させるだけだからです。真実かどうかを問われたら「はい」か「いいえ」で答えればよいのです。イエスは完全に沈黙を保っているので、ピラトは5節のように「不利な証言をされているのに、この者はいつもの犯罪者とは違う」と驚くのです。この時点では、ピラトはイエスに十字架刑どころか一つの罪をも見出してはいません。ピラトは正しい判断をしています。神の息吹によって造られた人間には、正しい判断ができる性質があるのです。
Ⅱ.ピラトは自分の地位や名誉を守るために正しさを捨て、無罪のイエスを十字架刑に定めた(15:6-15)
ところがイエスを巡る状況はここから一転します。日本でも恩赦のように、国家的な祝い事があったときには犯罪者の刑を無くしたり軽くすることがあります。しかし、恩赦とピラトの赦免とは違います。「祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放した(6節)」とあるように、ピラトはユダヤ人の機嫌をとるために赦免するのであり、自分の人気や権威を保つのが目的です。
過ぎ越しの祭りにおいて、群衆はいつものように赦免を求めてピラトのところにやってきました(8節)。赦免の要求にピラトはこう答えました(9節)。ピラトはイエスとのやりとりと祭司長たちの訴えから、ことの本質を見抜いていました。「ユダヤ人指導者はイエスのわざや知恵をうらやましく思い、ねたんで、それを晴らすために罪をでっち上げた。」そうピラトはわかっていたのです(10節)。だからピラトは、罪が見あたらないイエスを釈放するのが当然と判断していました。赦免のならわしを使ってイエスを釈放しようと考えていたのです。この時点でも、ピラトは正しい判断と正義を行っていました。
この提案に祭司長たちは、バラバという名の知れ渡っている重罪人の釈放を求めました(7,11節)。ただし、「祭司長たちは...群衆を扇動して(11節)」とあるように、祭司長たちは群衆を利用しました。おそらく、バラバがローマ支配からユダヤ人を解放するために暴動を起こしたからでしょう。つまり、民衆にとってバラバはローマ解放を武力で実行した者、一方のイエスはローマ解放を期待させて実行しなかった者なのです。このことから祭司長たちは簡単に群衆を煽れると考えて実行しました。
群衆の要求にピラトは「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。(12節)」と答えました。ピラトはイスラエルの中で最高の権威を持っているのですから「イエスは無罪だから釈放する」と正義を貫くことができたはずです。しかし、彼は群衆に判断を求めています。ピラトの正義は揺らぎ始めています。
群衆はさらに「十字架につけろ(13節)」と叫びました。これにピラトは「あの人がどんな悪い事をしたのか(14節)」と答えます。いまだピラトはイエスを釈放しようと努力していますが、群衆の叫びを無視できなくなっています。「十字架刑どころかイエスは無罪だから釈放すべきだ」という正義と「バラバを釈放し、群衆の機嫌をとって騒ぎを収めたい。」という不正の狭間に彼はいるのです。
群衆はピラトのことばに応じず、「十字架につけろ」とますます激しく叫び続けます(14節)。そしてついにピラトが判決を出します(15節)。群衆の激しい叫びに、ピラトは「無罪のイエスを釈放する」という正義を貫けませんでした。見方を変えれば「人々の願う囚人をひとりだけ赦免する」のを慣例としていたせいで、ピラトは正義を捨てて、罪のないイエスを十字架刑に定める結果となったのです。
ではなぜ、ピラトは群衆の要求に屈したのでしょうか。15節「ピラトは群衆を満足させようと思い」とあるように、もしイエスを釈放したとすれば、群衆は騒ぎ続けて、騒ぎを抑えられなかったことをローマから問われます。また、群衆が今後彼に従わなくなるでしょうから、こちらも彼の統治能力が疑われます。さらに、「ユダヤの王」を主張するイエスを放っておくことは、ローマが定めた王以外の者を王として認めることになり、「総督はローマに背いている」と訴えられます。つまり、イエスを釈放すれば総督という地位や権威が危うくなるから、イエスを十字架刑に定めたのです。「人を恐れると罠にかかる。(箴言29:25)」とあるように、ピラトは正しい判断をしたにもかかわらず、自分の利益のために自らの正義を捨ててしまったのです。ピラトはイエスを死に定めた者であると同時に、自己中心という罪に従ってしまった代表者なのです。
■おわりに
今やイエスをかばい守る人は誰一人いません。イエスを死に定める人はいても、「イエスは正しい」「イエスはまさしく神の子」だと声を上げる人は誰もいません。祭司長、長老、律法学者たちは指導者としての権威や名誉を守るために、イエスを神冒涜の罪で死に定めました。ペテロをはじめ弟子たちは身を守るためにイエスを見捨てました。祭司長に煽られた人々は、イエスに対する感情に身を任せイエスの十字架刑を叫び続けました。ピラトはイエスの無罪を認めていたものの、騒ぎを恐れ総督の地位を守るためにイエスを十字架刑に定めました。
もし、私たちがその場にいたら、「イエスは正しい。十字架につけるべきはバラバだ。イエスはまさしく神の子だ。」と叫べるでしょうか。国や地域の権威者に反論できるでしょうか。あるいは、自分以外の全員が自分とは反対を叫んでいる中で声を上げられるでしょうか。私たちはゴルゴタで「イエスを十字架につけろ」と直接叫んではいません。しかし、2000年後の現代において、自分の気持ちを優先するがゆえに、イエスや神を否定したり、背を向けたことが「イエスを十字架につけろ」と叫んだ群衆の一人になっているのです。
ところが、イエスはこのような人のために、今まさに十字架で死のうとしています。罪ある人を永遠の苦しみではなく、神の国に入らせるために、イエスは今神の怒りを受けようとしています。私たちは自分のためにイエスを死に追いやりました。一方、イエスは人のために自分のいのちを捨てました。イエスに対するピラトの尋問の出来事は自己中心という人の罪と、そんな人を滅びから救うために死なれようとするイエスの従順、神のあわれみを私たちに知らせているのです。
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