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木村太

3月26日 「新しい契約とキリストの血」(ヘブル人への手紙9章11-22節)

■はじめに

 自動車や家屋などの損害保険では、保険適用の期間が必ず決まっています。例えば私の自動車の場合、保険更新の締結日は1月31日ですけれども、保険期間は4月12日午後4時から来年の4月12日午後4時までとなっています。ですので、すでに新しい契約を結んでいるものの、今日3/26時点でははまだ古い契約が適用されています。キリストによって人を滅びから救うという、いわゆる新約もこれに似ています。神は「キリストを信じた人の罪を完全に赦し、滅びから救う契約」をイスラエル民族を通して明らかにしましたが、イエス・キリストがこの世に来られるまでは、この契約によって滅びから救われた人はいません。保険で言えば適用期間外と言えます。そこで今朝は、キリストと新しい契約との関係を聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.傷のないキリストの血が人の罪を完全に赦す(9:11-14)

 この手紙の著者は、キリストによる新しい契約の方が律法による古い契約よりもはるかにすぐれていると読者に伝えます。というのも、キリストゆえの迫害で苦しんでいるユダヤ人のクリスチャン読者がキリストから離れようとしているからです。それで著者は、律法に基づいた幕屋や礼拝の規定では罪を完全に聖められないことを語りました。いわば明るさを強調するために、まず暗さを示すようなものです。そしていよいよキリストによる新しい契約を語ります。


 著者は、年に一度イスラエル民族すべての罪を贖う「なだめの日(大贖罪日)」を取り上げ、律法による規定との違いを明らかにしています。11節「すでに実現したすばらしい事柄」とは「人を内面から変えて罪を思い起こさない(ヘブル8:10-13)」という新しい契約を指し、この契約を実現するためにキリストは大祭司としてこの世に来ました。それでレビ族の大祭司が地上の幕屋である至聖所に入ったように、キリストも人ではなく神が造った幕屋に入りました。この幕屋は「もっと偉大、もっと完全」とあるように、天の幕屋においては人の罪が完全に赦され、その赦しは一年間だけでなく永遠におよびます。さらに、幕屋はイスラエル民族の住む土地にありますから赦しはイスラエルの民限定です。けれども、天の幕屋はこの世のすべてをカバーしているので、赦しはこの世のすべての人が受けられます。


 また律法で定められているように、大祭司はいけにえの血を携えて至聖所に入り民を贖います。贖いは金品を払って罪を免れることですから、初めの契約すなわち律法では、最上の家畜のいのちをささげて民の罪が免れます。ただし年に一度行われることから免れる期間には限りがあります。一方、大祭司キリストはご自身の血を携えて罪ある人を贖います(12節)。この後解説しますが、キリストの血は神の子キリストの死を意味しますから、神ご自身がこれ以上ないいけにえをささげたのです。それゆえ、ただ一度のいけにえで人は永遠に罪を免れるのです。


 さらに著者は大祭司が携える血に焦点を絞ってキリストによる契約を語ります。律法では人を贖うために、いけにえの血などを贖われる人や用具に振りかけました(13節)。血によって贖うというのはレビ記で定められています。「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。(レビ17:11)」罪を免れるというのは罪ゆえの怒りが宥められることです。それでいけにえのいのちそのものである血が宥め、贖いに必要なのです。


 この律法すなわち神のみこころに従って、死からよみがえったキリストがご自身の血、言い換えればいのちを神の前にささげました。神にとって傷のないキリストは最も尊いいのちですから、それがささげられたので、神は人のすべての罪に対する怒りを収めたのです(14節)。ここで大事なのは「とこしえの御霊によって神にお献げになった」とあるように、キリストがご自身をささげたのは御霊つまり神の手によるのです。キリストが自分勝手にささげたのではなく、キリストのいのちがささげられたのは神のみこころであり、それにキリストが従ったのです。ここに人に対する計り知れない神のあわれみが示されています。


 だから贖われた人は神に仕えて神のために生きる者に変えられるのです(14節)。これまでは神から良い人間と見られるために、いわば自分の正しさを主張するためのふるまいでした。しかし、いくら良いふるまいをしても内面は完全に聖くなれないから、そういったふるまいは罪の赦しからみれば意味のない死んだ行いなのです。けれども神ご自身がまったく罪のないご自身の子イエス・キリストをいけにえにしたために、人の罪は赦されました。神ご自身が犠牲を払って贖ってくださったのです。それゆえ贖われた人は神に感謝し神に信頼し神に従ってゆけるのです。


Ⅱ.キリストの死(血)によって新しい契約が有効となる(9:15-22)

 ここで著者は「なだめの日(大贖罪日)」から新しい契約に話を戻します。これまで見てきたように、キリストの働きはレビ族の大祭司と同じ働きと言えます(15節)。ただし「初めの契約のときの違反から贖い出すため」とあるように、初めの契約すなわち律法による大祭司と年一度の礼拝では違反を完全に取り消せません。前回申しましたように、家畜のいけにえでは目に見える律法違反しか赦すことができず、人の内面に潜む罪までを赦すに至らないからです。それで違反から完全に贖い出すため、言い換えれば内面にある罪を赦し、その人の罪を思い起こさないためにキリストが大祭司として神と人との間をとりなすのです(15節)。


 なぜ神はそんなことをするのか、その理由が「召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐため(15節)」になります。神は召された者、言葉を加えるならば神によって選ばれた者たちが、神の約束した永遠の資産を相続するためなのです。永遠の資産すなわち天の御国における永遠のいのちはキリストと同じように罪がない者でなければ相続できません。だから、律法では罪を完全に赦すことができないので、神はキリストを大祭司として立てて、キリストの血によって罪を完全に赦すのです。それほど神は人を大切にしているのです。


 ただし、「違反から贖い出すための死が実現して」とあるように、人が天の御国という相続財産を受け取るためにはキリストの死が必要です。今日の前半で言えば、キリストの血をささげることです。このことを著者はこう説明します(16-17節)。著者は「契約」ということばが「遺言」も意味し、加えて「資産を受け継ぐ」が財産相続を意味していることからこのように解説しています。人は生きている時に死んだ後について遺言を残します。そして、当然のことながら当人の死亡証明によってその遺言が効力を発揮します。それと同じように「キリストの血によってキリストを信じる者の罪を赦し天の御国に入らせる」という新しい契約もキリストの死によって初めて有効となります。「遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。」とあるように、キリストの死が罪の赦しに必要不可欠であると著者は強調するのです。


 ところで「キリストの血(死)」によって契約が効力を発揮するというのは、ユダヤ人クリスチャンにとって新しい教えではありません。なぜなら「ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。(18節)」とあるように、彼らが良く知っている律法で定められているからです。ここでは解説しませんが、著者はいけにえの血と契約との関係を19-22節で示しています。短く纏めるとこうなります。律法によれば、生きているいけにえをほふって、注ぎ出た血を民と様々な用具に振りかけます。血を振りかけたことが「神に従えば祝福、背けばのろい」という契約が有効である証拠なのです。これが「キリストの血によって罪を赦すという契約」のひな形になっているのです。


 神はキリストが来られる千数百年前に「キリストによる罪の赦し」のひな形をモーセを通してイスラエルの民に明らかにしました。それは、ご自身が選んだイスラエルの民と契約を結び、「いけにえの血を振りかける」ことでその契約が有効であるとという内容です。この形式に則って、「キリストを救い主と信じれば罪が赦され天の御国に入る」という新しい契約がキリストの血すなわち十字架の死によって有効となりました。ですから、ユダヤ人の読者も現代の私たちも、初めの契約・古い契約では得られなかった罪の赦しと天の御国を大祭司キリストとその血によってすでに得ているのです。


■おわりに

 旧約聖書のイザヤ書53章には「苦難のしもべ」が描かれています。これは「私たちの罪を代わりに負って罰せられて死ぬ」このような者が現れるという約束です。この苦難のしもべが神の子イエス・キリストであり、このことをヨハネが福音書で書いています。ただし、キリストが人として生まれて、驚くべきわざをやっただけでは、この約束は実現していません。キリストが十字架で死んで初めて、この約束が効力を持つのです。4つの福音書と使徒の働きではキリストが十字架刑で確かに死んだことを記しています。まさに死亡証明を世界中に、そして後の時代に提出しているのです。


 キリストは確かに死んだから、私たちは約束どおり罪が赦され、永遠の滅びを免れて天の御国で永遠に生きます。さらにキリストが大祭司としていつも私たちと神との間をとりなしておられます。それゆえ、私たちはいつでもどこでも神の前に出て祈り願い、あるいは叫び嘆くことができるのです。すべてはご自身の御子イエス・キリストのいのちをささげた神のあわれみによります。そのことを忘れてはなりません。

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