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木村太

3月6日「主の御名(第三戒)」(出エジプト記20章7節)

■はじめに

 私たちは毎日様々な呼び方で神の御名(お名前)を呼んでいます。最も口にしている機会はお祈りでしょう。「天の父なる神よ/主よ/アバ、父」のように呼びかけて祈りを始め、「御名を賛美します/御名を崇めます」と主をほめたたえ、「主の御名によって/イエス様のお名前を通して」とイエスに託して祈ります。詩篇でも詩人のほとんどが「主よ」と呼びかけています。一方、神は「主の名をみだりに口にしてはいけない」と命じています。とすると、私たちはしょっちゅう戒めを破っているのでしょうか。今日は「神の名前を口にすること」についてみことばに聞きます。


■本論

Ⅰ.御名は神の本質であり、神御自身である。

 はじめに私たちが信じている神、すなわち天地万物の創造主である唯一まことの神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、イエスの父なる神の名前について聖書を見てみましょう。ちなみに「御名」というのは神に敬意を払っているのでそのように呼んでいます。


 モーセの時代、エジプトやパレスチナを含む中近東では「祈りを向ける相手の名前を正しく呼んだときにだけ祈りは聞かれる」という思想が根付いていました。ですから神には必ず名前が付いています。例えば、エジプトでは太陽神ラー、豊穣の神イシス、カナンの地では肥沃の神バアルやアシェラといった名前の神が崇められていました。明らかなように、名前は人が定めますから、もしイスラエルの神に何らかの名前を付けたなら人の方が上に立つことになります。それで神はご自身の呼び方にはまったく触れてきませんでした。


 そんな中、モーセは「イスラエルの民に神のことを説明する際、神の名前が必要だと」訴え、神はこう言いました。「神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、【主】が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。(出エジプト3:15)」ここで初めて神はご自身のお名前を「【主】」と明らかにしました。ただ、やっかいなことに日本語では「主人」や「あるじ」を表す「主」と、まことの神である「主」の区別が付かないので、新改訳聖書では太字で主と表しています。原語のヘブル語聖書では、あるじの「主」とまことの神の「主」とは違う単語で書かれています。


 さらに、今私たちが生きている新約の時代、すなわちイエスによる救いの時代においては、イエスが私たちのいのちを左右する主、救い主です。ですからヨハネの黙示録においてイエスを主の主(黙示録17:14,16:16)と呼んでいるように、「主」はイエスの御名でもあります。


 ここで大事なのは、唯一まことの神やイエスの名前は単なる名称ではない、ということです。結論から言えば、御名は神ご自身、イエスご自身そのものを意味しています。日本でも「名を揚げる」とか「名を汚す」のように、名前は本人の名誉や権威につながっています。


 聖書では御名に関わることばがたくさん使われています。いくつか例を挙げます。

・旧約:御名を恐れる/御名をあがめる/御名に身を避ける/御名の栄光

・新約:御名は聖く/御名を使うと悪霊どもでさえ服従します/御名を信じなかった者はすでにさばかれている/御名によってイエスの命を得る/御名によって罪がゆるされる


 つまり、聖書では御名を神ご自身あるいはイエスご自身として用いています。「主」という御名は他の神々と区別するための記号や名称ではないのです。主の御名は全知、全能、聖さ、力、権威、あわれみ、義など天地創造の神、唯一まことの神の持つすべての性質を表すのです。イエスについて言えば、「御名を信じる」とは「イエスは救い主」と信じることを表し、「御名を知らせる、明らかにする」とは「イエスが神の子救い主である」と人々に知らせることを表します。


 冒頭に申しましたように、私たちは毎日主の御名を口にしています。その時「御名が神御自身/イエスご自身」であることを意識しているでしょうか。「主の御名を賛美します」ということばには、唯一まことの神を敬い、感謝し、神に従うという信仰が告白されています。あるいは「イエス様のお名前によってお祈りします」ということばには、イエスによってのみ自分の罪が赦され、イエスが自分と神との間を今とりなしてくださっているという事実と信仰があるのです。「主」という神の御名は記号や文字ではなくて、神ご自身がそこに関わっていることなのです。


Ⅱ.私たちは御名を汚すのではなく、御名が崇められることを目指す。

 ではなぜ、神の御名をみだりに口にしてはならないのでしょうか。神は三番目の戒めをこう与えました。


「あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(出エジプト記20:7)」


 ここでの「口にする」は「語る/言う/呼ぶ」といった言葉を発する単語ではありません。この単語は「取る/取り上げる/運ぶ/着る/目・表情・たましい・声を上げる」を意味しており、イメージとしては神の名前すなわち神を身にまとうとか、神を手に取って掲げている姿です。これは、自分の語る言葉や行動に神の力や権威が帯びている、あるいは神が保証していることを示しています。


 ただし、人は神をまとったり手にすることはできません。それで、神そのものである御名を口にすることで、言葉や行動に「神の/神による」という所属を付けているのです。例えば、預言者は「主はこう仰せられる」と神の御名を用いて、人々に神からのことばを語りました。ですから、神の名によって語るとは人を通して神が直接語っていることと同じなのです。


 イエスで言えば、イエスは72人の弟子に敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。権威を授けられた弟子たちはイエスの御名を使い「イエスの御名によって出て行け」と悪霊に命じて、悪霊を追い出しました。つまり主の名を口にするとは、口にした者の言葉や行動に神の権威を帯びさせたり、間違いないという神の保証を付けることになるのです。


 それゆえ神は、みだりに口にしてはならない、と命じるのです。この「みだりに」は「不正のために/ばかなことのために」を表していて、英訳では「悪用のために/悪い目的のために」となっています。だから、悪を行うために主の御名を用いたり、真実ではないのに主の名を使ってあたかも真実であるかのように語ることなど、いわば主の品位や権威を貶めるような用い方をしてはならないのです。あるいは、果たすつもりもないのに「主の名によって誓う」と言って、主という保証を勝手に付けるのも神を悪用しているのです。


 ですから人は主の御名を口にするとき「主のみこころに沿っているのか」「主の喜ばれることなのか」「人々の間で主がほめたたえられることにつながるのか」を吟味しなければなりません。吟味することなくみだりに口にする者は神よりも自分の欲望を優先し、主の御名を自分のために利用しているのです。これはまさに、自分が主よりも上の立場になっているのであり、「わたし以外に、ほかの神があってはならない。」という第一番目の戒めに反するのです。だから神はそのような者を罰せずにおかないのです。


■おわりに

 私たちは主の御名をみだりに口にしないようによくよく気を付けなければなりません。イエスの父である神を信じ、神に従って生きる者であったとしても、神に対する礼儀をおろそかにしてはならないのです。しかし、主の御名を正しく用いるなら、主は私たちの願いを聞いてくださいます。ヨハネの福音書でイエスはこう言っています。


「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。(ヨハネ9:31)」

「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(ヨハネ14:13-14)」


 主は御名をみだりに口にする者を大目に見ることはせず、怒るお方です。しかし、主を敬い、みこころを行うなら、御名によって求めるものは何でも与えるという約束をしてくださっています。これこそが、神のあわれみであり、私たちの希望と安心です。私たちはイエスの十字架によって主の御名を口にできる特権をいただいているのですから、主の栄光のために「主」というお名前を用いさせていただきましょう。

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