私たちは大切にしてきた物や手塩をかけて作った物を手放す時、あるいは捨てる時に寂しさや悲しさを覚えます。思い入れが大きければ大きいほど、その気持ちは強くなるでしょう。これまで見てきましたように、主は「従えば祝福を背けば呪いを」という約束に則って北王国イスラエルをさばきます。その時主は仕分け作業でもするかのように機械的に罰するのでしょうか。今日は、滅びに至ったイスラエルへの主の思いを通して、主のあわれみにについて聖書に聞きます。
Ⅰ.主は北王国イスラエルを愛し養ったが、彼らが主の愛をわからず背き続けたので、忍耐の末に罰する(11:1-7)
9-10章において、主はご自身が所有している民イスラエルが喜びであり、主の栄光を表すための期待であることを語りました。続く11章でもイスラエルへの思いを語ります。
最初に主はご自身を父、北王国イスラエルを息子にたとえて、これまでイスラエルとどう接してきたのかを語ります(1-2節)。「イスラエルが幼いころ」とは、まだイスラエルの民がエジプトの奴隷で、一つの国民として成り立っていなかった時代を言います。父である主は我が子イスラエルを愛するが故に、人知を越えた10のわざを用いて彼らをエジプトの奴隷から助け出しました。さらに40年に亘る荒野の旅でも水や食べ物を与え、行き先を導きました。そして、乳と蜜の流れる約束の地カナンに導き入れ、そこでイスラエル王国を建国しました。その後も2節「呼べば呼ぶほど」とあるように、彼らが歩むべき道から逸れていっても、預言者にことばを与えたり、驚くべき出来事を通して引き戻したり、あるいは懲らしめによって彼らを祝福の道に呼び戻そうとしました。しかし、イスラエルの民は豊穣の神バアルを初めとする偶像の虜となり、感謝や願いを主ではなく偶像にささげ崇め続けました。
ここで主は背き続けたイスラエルを前に、ご自身がどれほど大切にしてきたのかを語ります(3-4節)。
・歩くことを教える:主は子供の手を引くように、指導者や預言者を通して正しい道を歩めるように繰り返し教えました。
・腕に抱く:羊飼いが羊を腕に抱えて守るように、主はイスラエルを敵から守りました。
・癒やす:主は混乱や恐怖からイスラエルを平和と繁栄に至らせ続けました。
・人間の綱、愛の絆で引く:杖や鞭のように痛みや恐怖ではなく、綱や紐で引くように喜びや平安によってイスラエルを正しい方向に導き続けました。
・あごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせる:口籠を外すと家畜は餌を食べられるようになります。しかも「手を伸ばして」とあるように主人が家畜の口に餌を持って行きます。つまり、主はイスラエルに生きる糧を与え続けたのです。
これらのことばから、いかに主がイスラエルの民を大切にしてきたのかがわかります。けれども、イスラエルは主のあわれみに気づかず、エジプト脱出から士師の時代、サウル、ダビデ、ソロモン、そして北と南に王国が分裂した後もバアルといった偶像崇拝に浸ってゆきました。それでも主は、約束通りであれば直ちに滅ぼしてもよいはずなのに、イスラエルが戻るのを辛抱強く待ち、優しく接し続けたのです。
しかしついに主の怒りが極みに達しました(5-7節)。主が恵みによって導いてもなお、イスラエルは主に立ち返らず、偶像崇拝をやめませんでした。例えば、7節「いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。」とあります。預言者が上におられる主に戻るように警告しても、彼らは「神の民だから大丈夫」という高ぶりを捨てず、主を崇めようとはしなかったのです。それで北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ支配されます。同盟を結んだエジプトに逃れても助かりません。しかも6節「剣は荒れ狂い/打ち砕き/食い尽くす」のごとく、アッシリアの攻撃は圧倒的で徹底的で無惨なのです。主の怒りはそれほど大きいのです。「これほど大切にしてきたのに」という主の思いが、この恐ろしい罰に現れています。
聖書には「主はあわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かである」と何度も記されています。主は背きを決して放置したり、見逃しはしません。主は完全に聖であり義であり善であるから、汚れ、不正、悪を有罪として必ず罰します。破滅という怒りが遅いのは、「悔い改めて戻って来るのを」あわれみによって忍耐しているからなのです。キリストがよみがえって天に戻ってからすでに2000年が経過しています。この地上に再び来られて最後の審判が行われるまで、これほどの時間が経過しているのは、神が怒りを持ちながらも忍耐している証拠なのです。でも背きに対する恐ろしい罰は必ずなされます。そのことを北王国イスラエルの姿が現代の私たちに明らかにしています。
Ⅱ.主はイスラエルが滅ぶことに心を痛め、彼らの回復を宣言する(11:8-12)
背き続けた子どもを怒り、罰するのは主にとって当然です。しかし、主の胸の内は怒りだけではありませんでした(8節)。「アデマとツェボイム」はソドムとゴモラの近くにある町で、ソドムとゴモラと同じように汚れのために、神の激怒によって破滅しました(申命記29:23)。でも神は「アデマとツェボイム」のように、イスラエルを激怒によって破滅できない思いがあるのです。「どうして~できようか」は「いや、できない」を強調する言い方であり、しかも4回繰り返しています。主は滅び行くイスラエルに心を痛め、「背きを絶対に赦さない」という怒りと「何とかして生きて欲しい」というあわれみとの間で深く葛藤しているのです。
なぜイスラエルを助けたい思いが生まれるのか、その訳が「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」にあります。「心が沸き返り、胸が熱くなる」とは「苦しむ姿を見て、何とかしてあげたくて心が痛く締め付けられるさま」と言えます。確かに、イスラエルが背きに背きを重ねた結果、彼らに怒りの罰を与えているのは神ご自身です。それでも、神はわが子が破滅するのを黙って見ていられないのです。どんなにひどい子どもであっても、痛めつけられて苦しみ滅ぶのは忍びなくて心が痛くなり胸が苦しくなるのです。これが主のあわれみなのです。
そのあわれみゆえに主はこう言います(9節)。主は激しい怒りで滅ぼすことを二度としないと宣言します。なぜなら、主は人ではなく聖なる神だからです。「聖さ」とは相手を不法に苦しめたりいやなことをしない姿をいいます。ですから正しく白黒つけてそれに応じて罰を与えるのが聖いさばきなのです。一方、人は完全に聖ではないから、適切な罰に飽きたらず時として怒りに任せて悪意の有る仕返しをします。しかし、主は完全に聖なので怒りに任せず、適切な罰を与えた以上の苦しみを与えません。それゆえ、「わたしは町に入ることはしない。」とあるように、イスラエルの民の中に入ってさらなる破壊はしないのです。ここにもイスラエルを大切にする主の思いが現れています。
さて、主は国が滅んだ後、イスラエルがどう回復するのかを語ります(10-11節)。「主は獅子のようにほえる。」とは親獅子が吠えて子を呼ぶ様であり、国が破れて散り散りになったイスラエルの民を主が再び呼び集めるのです。それで、主のあわれみを知ったイスラエルの民は主の怒りを恐れながら、主のあわれみの深さにおおののきながら、西の地中海やエジプト、アッシリヤなど散らされていた土地から再び自分たちの家すなわちカナンの地に帰ってきます。10節「彼らは【主】の後について行く。」とあります。主は滅ぼす前までは、「もはや彼らを愛さない(9:15)/彼らを退ける(9:17)」と明言していましたが、今や彼らを集め再びカナンの地に住まわせ、「従えば祝福を」という道を備えているのです。まさに主のあわれみは尽きることがありません。
ところが現実は12節のように、北王国イスラエルの欺きは主をぐるっと囲むごとく、完全に背いていて彼ら自身による回復は見込めません。他方、南王国ユダはまだましなので、回復の余地はあると主は見ています。ユダもこの時点で主に立ち返っていれば、バビロニアによる滅びを免れたことでしょう。 「わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。」という思いと「わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで囲まれている。」という現実、ここにもあわれみと怒りが主の中に混在しているのがわかります。
主はあわれみのゆえに北王国の滅びに心を痛めます。ただし、このあわれみはすべての人に向けられています。なぜならキリストが十字架で死んだからです。主は罪を犯した人を怒り罰しなければなりません。一方で、人を何とかして滅びから救いたい、という思いがあります。滅び行く人に対して「心が沸き返り、胸が熱く」なっているのです。それで主は罪のないわが子キリストに怒りを向けて、人を滅びから救いました。キリストの十字架での死は、主がキリストに怒りを下した証拠であり、人に向けられた主のあわれみの証拠です(Ⅰヨハネ4:9-10)。主は怒りとあわれみとの間で葛藤しますが、あわれみが怒りを越えて包み込むのです。我が子を犠牲にするほどまでのあわれみの中で私たちは生きています。この事実をいつも忘れずにいましょう。
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