皆さんはどんなときに安心しますか。例えば「たくさん抱えていた仕事が終わったとき」「病の峠を越したとき」「大きな問題を乗り越える道が開けたとき」など、いろんな場合があると思います。ただ考えてみると、この世の中での安心は目に見える結果によって生まれてきます。八方塞がりとかお手上げのときに安心はありません。そこで今日は、私たちはいつでもどんなときでも安心があるということを聖書に聞きましょう。
Ⅰ.全ての人は重荷を負い疲れている
キリストは病の癒しや悪霊の追い出しといった不思議なわざを成しながら、滅びを免れ天の御国に入る方法を人々に知らせています。同時にご自身が何者であるのかを少しずつ明らかにしています。加えて、律法学者やパリサイ人のように昔からのしきたりや習慣にこだわるのではなく、幼子のように素直にキリストのことばを受け入れる者が神の国にふさわしいとも語っています。そしてキリストは「ご自身を受け入れる者が神の国以外にも受け取れるものがある」と約束しています。それが今日の箇所です。
キリストは「疲れた人や重荷を負っている人は全員、私のところに来なさい」と招いています(28節)。疲れた人とは懸命に働いて心身共に疲れ果てている人を意味します。また、重荷を負っている人とは、文字通りでは重たい荷物を背負っている人を意味していて、ここでは重すぎる負担を強いられている人、あるいは重圧にあえいでいる人を指しています。キリストの目から見れば、ユダヤ人は全員重すぎる負担であえぎ疲れ果てているのです。
ユダヤ人にとって疲れ果てるような重荷とは何でしょうか。キリストは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い(30節)」と言っています。これはユダヤ人の負っている重荷に対して私のは軽いと説明しているのです。つまり、キリストではなくて、この社会から負わせられているくびきや荷が非常に負担になっているのです。ここでキリストが口にした「くびき」と「荷」について触れます。
・くびき:農耕や運搬のために家畜に取り付ける横木です。くびきを付けられる家畜からすれば自由はありません。それで、くびきは服従や苦難をたとえていて、この時代のユダヤ人で言えば戒律(昔の人たちの言い伝え)を指します。例えば、食べる前に手を洗うとか、安息日にしてはいけないことなど、律法学者たちが定めた細かなしきたりがくびきになっているのです。
・荷:文字通りでは荷物ですけれども、これもマタイ23:4にあるように、パリサイ人や律法学者から課せられた重荷、すなわち戒律を指しています。
ですからユダヤ人は宗教指導者から「罪人/汚れた人」と定められないように、生活のあらゆる領域において戒律を守らなければならなかったのです。しかも親や子供のような家族にまで批判が及びますから、一瞬たりとも気を抜くことはできなかったのです。また、ツァラアトや重い病気の人たちは、病気なのに「汚れた人」と定められるために、「いつまで病が続くのか」といった将来に対する不安がありました。律法から広げられた戒律は、人から批判されないためのものになっていたから、ユダヤ人は戒律という重い荷物にあえぎ、それを守ることに疲れ果てていたのです。律法学者たちの教えは「守れば神の国に入れる」という希望には一つもならず、かえって希望を失わせ心を重くさせていました。民衆は「あなたは罪人だ/汚れている」と言われないために、神ではなく人を恐れていました。常に緊張し不安と恐れがつきまとっていたことでしょう。
現代の私たちもユダヤ人と同じ状態と言えます。いつも周囲を気にして緊張感があり、将来に対する不安や恐れがあります。この社会では、一生懸命生きていても深い安心や希望を持つことは容易ではありません。私たちもまた「疲れた人、重荷を負っている人」なのです。
Ⅱ.キリストは「キリストを信じ、キリストに従い、キリストから学ぶ者」を不安や恐れから解放する
それでキリストは、疲れた人・重荷を負っている人に3つの呼びかけをしています。
①私の所に来なさい(28節)
そのまま受け取れば「キリストのいる場所に来る」となりますが、現実的に不可能なのは明白です。福音書を見ると、キリストのところにいやしを求めて大勢の人びとが来ています。彼らは「このお方は必ず何とかしてくださる」と信じてやって来ました。それからすると、キリストのところに来るとは、キリストの存在と力を信じ、キリストに頼ることと言えます。
②私のくびきを負いなさい(29節)
くびきを負った家畜はくびきを付けた人に従うから、これはキリストのことばに従うとなります。
③私から学びなさい(29節)
パリサイ人や律法学者たちが教えていることを受け取るのではなく、キリストが語ることを真理として受け取るのです。
「キリストを信じ、キリストに従い、キリストから学ぶ」これらのことはたくさんの戒律を守ることよりも容易にかつ誰にでもでき、しかも人の目を気にする必要はありません。だから負いやすく軽いくびきなのです。そういう人をキリストは休ませます。29節では「たましいに安らぎが来る」と語っていますから、心に安心が満ちてきます。なぜならキリストがその重荷となっているものを引き受けてくださるからです。そのことを明らかにしている出来事が12章に記されています。
安息日にキリストの弟子たちが空腹だったとき、キリストは彼らが麦の穂を摘んで食べるのをとがめませんでした。しかし、パリサイ人たちは安息日に彼らが「麦の穂を摘む」というのを労働と見なして、「してはならないことだ」と指摘しました。そこでキリストは、人の子すなわち神の子であるご自身が認めているから違反ではない、と反論しました。それでパリサイ人は許可したキリストを非難するのです。もし、キリストがいなければ弟子たちが非難されたでしょう。けれども、キリストを信頼した結果、キリストがパリサイ人の非難を引き受け、弟子たちは免れました。だから、キリストのもとに来た者は、キリストがその人の重荷を引き受けてくださるから心が休めるのです。
私たちは人生の中でつらく厳しいことに直面します。安心を得るために「あれをしなくてはいけない/これをしなくてはいけない/これではだめだ」といろいろな縛りをかけます。けれどもキリストは「わたしを信じ、わたしに従い、わたしにから学びなさい」と語ります。キリストが私たちの重荷を引き受けてくださるから、私たちは安心して心を休めることができます。その頂点が十字架での死です。私たちが受けるべき神の怒りを、キリストが引き受けてくださったから、私たちは永遠の滅びを恐れたり不安になることはありません。天の御国がキリストによって約束されてるから、人生が終わった後のことを安心できるのです。まさに、ひな鳥が親のつばさの下で安心するように、私たちもキリストという翼の下で安心できるのです。
Ⅲ.キリストは心優しくへりくだっているからご自身のもとに来る人を休ませる
キリストはどうして休ませてくださるのしょうか。その答えをキリストはこう語っています(29節)。)「キリストを信じ、キリストに従い、キリストから学ぶ者」に対して、キリストは柔和で寛大な態度を取ります。失敗したり、困っているときに放っておかず、その人のことを十分に理解し、最もふさわしいことを考えてくださいます。そして、へりくだって僕(しもべ)としてその人に最善を尽くします。律法学者たちは高圧的でできないことをただ指摘し、その人を責めたり追い立てたりします。彼らは上から目線で、苦しんでいる人の身になって考えず、自分の権威を保つことを最優先にしています。先ほど申しましたように、安息日に麦の穂を摘むというのも、キリストはどうしたら空腹を解決できるかを優先し、それを許可した自分が責められることを後回しにしています。しかし、パリサイ人たちは戒律を守らせるという自分たちのプライドを優先しています。キリストは生まれつき目の見えない人や手足の不自由な人、さらにはツアラァトの人といった、いわば汚れた人であっても側に行って、その人のことばを聞いていやしました。罪人や取税人と一緒に食事をしたり、苦しんでいる人を安息日に治し、律法学者たちから文句を言われても動じませんでした。律法学者たちは関わることで自分たちが汚れた人と見なされることを恐れて何もしなかったのにです。
キリストは誰かから何を言われようとも、誰かから何をされようとも、ご自身のもとに来る者を大切にします。私たちの身代わりとなって十字架で死ぬほどに大切にしているのです。それゆえキリストは門前払いせず、その人に同情し最善をなしてくださいます。だから安心してキリストのところに行けるのです。
「わたしがあなたがたを休ませてあげます。/たましいに安らぎが来ます。」これはキリストから私たちへの約束です。そして「キリストを信じ、キリストに従い、キリストから学ぶ者」がその条件です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」この招きに応じるとき、安らぎの人生が始まります。目の前の困難はすぐに解決しないかもしれません。けれどもキリストがともに悩み、苦しみ、祈り、解決してくださるから、私たちは安心できるのです。
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