3月2日「八つの幻⑥⑦~空飛ぶ巻物と出て行くエパ升~」(ゼカリヤ書5章1-11節)
- 木村太
- 3月2日
- 読了時間: 7分
■はじめに
「名を汚す」という言葉があります。これは、ある人のふるまいが、その人の所属する個人や団体の評判を悪くするとか名誉を傷つけることを言います。例えば、教会が組織ぐるみで不正をしたり、人々を苦しめたりすれば、間違いなく、キリスト教の名を汚し評判を落とします。それどころか、「キリスト教の神は愛ではなく悪ではないのか」と見なされ、神の名誉が傷つけられるでしょう。神の栄光を世の中に輝かせるどころではありません。今日は、私たち神の民であるクリスチャンが神の栄光を表すために、まず何をしなければならないのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.イスラエルの民が悔い改めるために、主は「のろい」という巨大な巻物をゼカリヤに見せた(5:1-4)
ゼカリヤは金の燭台と2本のオリーブの木という幻を見た後、新しい幻を見ます。ゼカリヤは空中を飛んでいる巻物という不思議な光景を目にしました(1節)。この巻物は長さが約8.8m。幅が約4.4mの大きさで、特に幅は通常の巻物とは比べ物にならないほど大きいものでした(2節)。また、この巻物は巻かれておらず広げられた状態で飛んでいました。
そこで伝令役の御使いがこの巻物について説明します。「これは全地の面に出て行くのろいだ。(3節)」と御使いが言うように、この巻物にはイスラエルの民全員に対する「のろい」すなわち「主に背いたことがらとそれへの罰」が記されています。具体的には「盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて/偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて(3節)」とあるように、この巻物の片面には人のものを盗んだ者全員の情報が記されています。そして、もう片面には「偽って誓う者」あるいは「わたしの名によって偽りの誓いを立てる者」とあるように、「守る気もないのに神の名を使って自分の約束の正しさを語る者」この者の情報が記されています。ですから、盗む者あるいは偽って誓う者という悪をやった者は、のろいの巻物に従って跡形なく取り除かれるのです。
ただし、盗みと偽証だけが扱われているからといって、それ以外の悪、例えば殺人や姦淫のような悪が見逃されるのではありません。モーセの十戒で言えば、殺人や姦淫に比べて盗みと偽証は軽い悪であり、罪意識が軽くだれでも犯す悪です。つまり、どんなに軽い悪であったとしても、主なる神に背くこと自体にはかわりないから滅ぼす、という神の基準の厳しさをこの巻物は教えているのです。
しかも、「その家の真ん中にとどまって、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。(4節)」と、どのように取り除くのかも主は告げています。「家の真ん中にとどまって」は「見つけるまで絶対に出て行かない」様であり、いわば見逃しや見落としは絶対にない完全さを強調しています。また「その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす」は「粉々に破壊する」様であり、いわば徹底的に滅ぼすことを強調しています。それゆえ、「主はご自身に背く者を絶対に見逃さず、徹底的に滅ぼす」という主の求める聖さとさばきの恐ろしさをこの巻物は明らかにしているのです。
主が注目するのは悪行の規模とか重さではありません。主は「ご自身に背いているかどうか」をご覧になり、人から見て小さな悪だとしても徹底的に滅ぼします。巨大な巻物が広がって飛んでいるのは、すべての人にそのことを知らせるためなのです。つまり、主はこの巻物の幻を通して「イスラエルの民が悪を止めて悔い改めること」を求めているのです。エルサレムを都とするイスラエルが再び主の栄光を輝かすためには、まず神の民一人一人が聖くならなければなりません。冒頭の言葉で言うなら、神の名を汚す者であってはいけないのです。それは現代の私たちも同じです。だから、私たちは今や全世界に広げられている神のことばである聖書に自分を照らし合わせ、自分の悪を取り除くのです。
Ⅱ.主は悪の源である邪悪な心をエパ升に閉じ込めて持ち去り、イスラエルの民を聖める(5:5-11)
さて、御使いは新しい幻をゼカリヤに見せます。御使いは、エパ升が「全地にある彼らの目」を象徴していること、そしてこれを「出て行くエパ升」とゼカリヤに言いました(5-6節)。エパ升は麦などの穀物を量るための23リットルの升ですが、次に出てくるように、これは人が入るほどの大きさです。ただ、このままではこれが何を意味しているのか全くわからないので、御使いは説明を続けます。
鉛の重たいふたが開けられると、升の中には「邪悪」を象徴する女が座っていました(7節)。邪悪とは「罪/神冒涜/不正/不法」のように神の聖さや正しさ、善に反するすべてのことがらを言います。ここで、一人の女が邪悪を象徴しているというのは、「邪悪」という単語が女性名詞だからと思われます。
先ほど御使いはこのエパ升を「全地にある彼らの目」と言いました。目は心の思いを外側に現わします。ですので、このエパ升は全地で悪をなしている者すべての邪悪な心なのです。「神の民に悪を犯させる心の一つ一つをこの升に詰め込んだ」そんなイメージです。それゆえ「その女をエパ升の中に閉じ込め、エパ升の口の上に鉛の重しを置いた(8節)」とあるように、御使いはエパ升から邪悪な心が出て来ないように、蓋の上に重しを載せました。つまり、イスラエル中にある邪悪な心を一つに納めて封印するごとくイスラエルを聖めることを、このエパ升はゼカリヤに教えているのです。ことばを加えるならば、イスラエルが神の栄光を輝かすためには悪行を止めるだけでなく、それを引き起こす源である心を聖めなければならないのです。
そこに新たな者が登場します(9節)。この二人の女が何者なのか定かではありません(9節)。ただ、翼の中にある風ということばが神の霊を意味すること、さらに邪悪の源であるエパ升をイスラエルから運び出すことから、この二人は神の使いと思われます。先ほど「出て行くエパ升」と御使いが呼んだように、このエパ升はイスラエルの地にあってはならないものなのです。
それでゼカリヤはこれがどこに運ばれるのかを尋ねました(10-11節)。「シンアルの地」はヘブル語でバビロニア地方を意味します。イスラエルにとってバビロニアは偶像崇拝の地です。しかも、「あの女のために神殿を建てるため」とあるように、バビロニアを邪悪の聖地とするために二人の女はエパ升を運ぶのです。映画的に描写するならば、イスラエルの民すべてから邪悪な心を取り出してエパ升に入れて封印し、それをバビロニアの神殿に安置して絶対にイスラエルに戻って来れないようにしたのです。つまり、エパ升を運び出す幻は、イスラエルの完全で永遠な聖めを告げているのです。
主はイスラエルの罰を終了して、再び金の燭台として主の栄光が輝くように定めました。他の民族や国々がイスラエルを見て主なる神の存在を認め、主のみわざによって主を畏れて主の民となり、滅びを免れて平安を生きるのです。ただし、イスラエルが金の燭台となるためには、「主の名を汚す」ごとく主の輝きを妨げてはなりません。だから聖くなることを主は求めているのです。イスラエルが完全な神の国となるためには、悪を止めるといった外面だけでなく、悪を引き起こす邪悪な心を取り除くといった内面の聖めが必要です。その上で、エパ升がバビロニアに運ばれて安置されたように、邪悪な心と完全に断絶するのです。空飛ぶ巻物と出て行くエパ升はこのことをゼカリヤに告げているのです。
■おわりに
私たちは神のみこころである聖書に自分を照らし合わせたとき、神よりも自分を優先し、神に従えない事実を突きつけられます。そして、神に従えないゆえに永遠の滅びに行かなくてはならない事実に絶望します。
けれども神はキリストという滅びを免れる道を用意し、そのことを聖書を通して私たちに伝えました。それゆえ、私たちは聖書を通してキリストを知り、神の力によってキリストを救い主と信じ、滅びを免れて天の御国に入ります。「私の罪を我が子キリストに負わせた」この神の愛を受け入れた時、私たちは神に感謝し神の喜びのために生きようという思いが湧きあがります。そして、「神のために」という思いが邪悪の誘惑を断たせます。
ただし、エパ升に重しを載せたように、油断していると邪悪な思いが飛び出してきて自分を支配しようとします。この世に生きている間は、いまだエパ升をどこかに隔離できてはいません。だから私たちは「キリストによって救われた」という重しを必要とするのです。「神は我が子キリストを犠牲にするほど私を大切にしている」これの気づきが私たちを聖さに向かわせます。
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