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3月16日「へりくだって神とともに歩む」(ミカ書6章1-8節)

  • 木村太
  • 3月2日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 キリストを救い主と信じて永遠の滅びから永遠の命に救われた者は全員、神のために生きています。神のためとは「神の存在と神の恵みを世の中に知らせる」あるいは「神の喜びとなるように」といったことです。ところが一生懸命のあまり、私たちは神のためと言いながら、自分のためになってしまうときがあります。例えば、「これをしなければ神の喜びとならない」「ここまでしなければ神へのささげものとはならない」のように、自分で設定した基準をクリアしないと、神のためになっていないという状態です。さらにはこの基準を他の人にも当てはめてしまい、混乱を生むときもあります。だから私たちは、「神は何を求めているのか」に、いつも注意を払う必要があるのです。

 今日はミカ書6章3-8節を中心に、神は私たちに何を求めているのかを見てゆきましょう。

 

■本論

Ⅰ.神はご自身の善きわざをイスラエルの民に訴えた(6:3-5)

 本論に入る前にミカ書について短く説明します。紀元前700年代、北王国イスラエルと南王国ユダは経済的に繁栄を極めていました。ところが、神の民イスラエルの信仰は堕落していました。彼らの信仰は表面的なもので、実際には預言者は偽りを語り、祭司は神を恐れず、指導者は不正を行い、民衆は偶像を崇拝し、すべてが神のみこころに反していました。そこで、預言者ミカはこれらの腐敗を警告し、生き方を変えて神の赦しを願い求めるように語ったのです。それがミカ書の内容です。そのうち6章では、「【主】がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される。(2節)」とあるように、神とイスラエルによる法廷での討論という描き方で、神の勧告とさばきが語られています。

 

 本論に入ります。まず神がイスラエルの民を訴えます。3節を読みます。

 

6:3 「わたしの民よ、わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。わたしに答えよ。

 

 神はイスラエルの背きに対して、「私は今まであなた方に何をしたのか/私があなた方に重荷を背負わせたか、疲れさせたか答えてみなさい」と問いかけます。「イスラエルの背きの原因はこの私にあるのか」という訴えです。続けて神は、5節「わたしの民よ、思い起こせ。」とあるように、エジプト脱出からカナン定住まで何をしたのかを振り返らせます。つまり神は、「私は人知をはるかに越えたわざによってあなた方に良くしてきた。その間、あなた方を煩わせたことはあったのか」と問いただしているです。当然この答えは「何も煩わせてはいない」です。ですから、イスラエルの背きは、神によるものではなく、あくまでも民にある、と神は告訴しているのです。

 

 3節のことばは私たちへの訴えでもあります。神はこう語っています。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。(エレミヤ31:3)」神はご自身のひとり子イエス・キリストを死なせるほどに、私たちを愛し、誠実を尽くしています。神は救いのために、私たちに苦行や努力、善行のような行いの合格基準を設けていません。そればかりか、行いによる救いを否定しています。救いのために私たちに重荷を負わせて疲れさせてはいないのです。私たちが救われたのは「キリストを救い主と信じる信仰」だけであり、その信仰さえも神から与えられました。どのようにして救われたのか思い起こすとき、私たちは神への背きに対して反論の余地が全くないことがわかるのです。

 

Ⅱ.イスラエルの民は自分たちの熱心を神に反論した(6:6-7)

 神の訴え対してイスラエルの民が反論します。6-7節を読みます。

 

6:6 何をもって、私は【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7 【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。

 

 「何をもって、私は【主】の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。」とあるように、イスラエルの民は「献げもの」の内容が罪の赦しを左右すると信じています。それで、「一歳の子牛/幾千の雄牛、幾万の油/私の長子/胎の実」とあるように、量や質を次第に高くすることで、払っている犠牲がいかに大きいのかを訴えているのです。つまり、自分の誠実や従順を神に認めさせようとしているのです。違う見方をするなら、彼らは自分の中で「これは神にとって喜ばしいこと/ここまですれば神は良しとしてくださる」といった基準を定めているのです。6-7節の反論を見ると、表向きは従順や熱心に見えますが、根本には自分で善し悪しを判断する自己中心があるのです。

 

 私たちもこのような間違いをしてしまいます。「これだけ献金したから神は良いことをしてくださる/何時間も祈ったから神は願いを叶えてくださる/」こういったことがあります。神のために、キリストの喜びのために何かをしたい、という動機は健全であり尊いものです。しかし、熱心のあまりそれを神がどう受け取っているのかまでを決めてしまうのは、人の立場を越えるものであり、主従逆転となっているのです。

 

Ⅲ.ミカは「神とともに歩む」ことが神にとって良いことだと、民に訴えた。(6:8)

 民の反論に対してミカは訴えます。8節を読みます。

 

6:8 主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。

 

 「人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。」とあるように、ミカは「神の求めることこそが神にとって良いことだ」と言います。人との関係でも、「あなたのためにこれこれをしました」と言われても、相手にとってそれが良いかどうかは相手の判断によります。一方、先ほどの反論はこれと正反対です。イスラエルの民は「こんなに献げたのだから神は罪を赦してくださる」というように、自分の思いを神に押しつけています。神にとって何よりも大事なのは、「神のみこころを求める」ことなのです。

 

 それで神はご自身が人々に何を求めているのかをミカに語らせます。8節後半に4つのことがらが示されています。

 

①公正を行う:善と悪を正しく判断し、善には喜びを悪には罰を与えることです。

②誠実を愛する:口語訳では「いつくしみを愛する」とありますので、人への優しさを実行することです。

③へりくだる:このことばは「低くなる/慎み深い」を意味します。つまり、神と人に対して自分を偉いと思わないことです。

④神とともに歩む:神に従って生きることです。ある本には、思慮深く生きることとありました。人生のすべてにおいて、神の指示を仰ぎ、従う生き方です。実際には、神のことばである聖書に従い、祈りを通して自分を省み、神のお考えに従う決心をするとなります。また、他の方からの指摘に耳を傾ける必要もあります。

 

 また、この4つの内容は別々ではなく、関連があります。神に従って生きるから、神にへりくだった歩みになります。そして、へりくだっているから神と人をいつくしむことができます。へりくだりの逆である高慢はいつくしみを生みません。さらに、いつくしむから善と悪を正しく判断し、それに応じた振る舞いができます。つまり、「神とともに歩む」がすべての土台になっているのです。

 

 加えて、「それは、ただ公正を行い」とあるように、神はこの4つの実践を求めているだけで、結果を求めてはいません。私たちはどうしても働きの内容とか結果に目を奪われがちですけれども、神は私たちのあり方を問うているのです。キリストも「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とパリサイ人たちを非難しています。神と人のために「どれだけやったか/どんな結果となったのか」が重要ではありません。キリストのように置かれているところで自分のすべきことを果たす、ただそれだけを神は求めています。それを神は良しとするのです。

 

■おわりに

 では、私たちが「神とともに歩む」ための源は何でしょうか。5節「わたしの民よ。思い起こせ。」にその答えがあります。神はイスラエルの民を奴隷の苦しみから解放し、麗しいカナンの地に導きました。それを思い起こせと言います。同じように私たちもキリストによって罪の奴隷から解放され、永遠の滅びから解放され、不安と恐れの人生から解放されました。

 

 私たちはかつての自分の姿、神が払った犠牲、キリストの痛みと苦しみ、そしてキリストによって救われた今の自分の姿を省みるとき、神とともに歩んで行こうという力が湧くのです。神がどれほど私たちを愛し、誠実を尽くしてくださっているのか、いつもここに目を止めていましょう。

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