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木村太

3月7日「アブラハムとイエス」(ヨハネの福音書8章48-59節) 

・はじめに

 ヨハネの福音書において人間の罪を最も多く扱っているのが8章です。姦淫の女を利用したユダヤ人の策略でイエスは、不倫という目に見える行いだけではなく、目に見えない内面も罪の対象としました。また、この世は罪が蔓延する闇の世界であること、さらに、たとえアブラハムの子孫で神の民ユダヤ人であっても罪の奴隷となっていることを指摘しています。その一方で、ご自身が罪を赦し、罪の中で死なないための存在であり、世の光であることを明らかにしています。これをふまえて今日は、イエスの存在と罪による死について聖書に聞きます。


Ⅰ.ユダヤ人たちはイエスに怒り軽蔑したが、イエスはご自身が滅びを免れる手段であることを示した(8:48-55)

 イエスとユダヤ人の間で罪の奴隷問答となりました。その中で、ユダヤ人が神から遣わされたイエスを殺そうとしているので、イエスは彼らがアブラハムや神を父としておらず、悪魔を父としていると指摘しました。それにユダヤ人が答えます。


48節「サマリア人」とは彼らが忌み嫌う汚れた民族の代名詞ですので、それをイエスにぶつけるほど激怒し、軽蔑しています。ユダヤ人にとって血筋は正統な神の民を保証するものなので、血筋を否定するのはたいへんな侮辱になるからです。


 これにイエスが答えます(49-50節)。イエスは神に敵対する悪霊に動かされていないと反論します。その逆で、父なる神を尊重しているから、他者からほめられることを求めず、父から託されたことをこの地上でなしています。いわばイエスは地上における神の代理人なのです。神が遣わしたイエスを殺そうとし、自分たちの正しさを主張するユダヤ人とは正反対と言えます。


 ここでイエスは栄光を求める方、さばきをなさる方、すなわち神のみこころを告げます(51

節)。イエスの言う「死」とは肉体の死ではなくて、罪の刑罰である永遠の苦しみにたましいが行くことを指します。イエスを受け入れ、イエスのことばを保ち失わず従う者は、決して死なず永遠に生きます。神が「罪なし」と認めた者だけが生きる世界ですから、この世のような悪は一切なく、平安で満ちています。ユダヤ人は、アブラハムの子孫という血筋が永遠のいのち、神の国をもたらすと信じていますが、イエスはご自身がその手段であることを教えているのです。


 このことばにユダヤ人が反応します(52-53節)。「アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。」を繰り返しているように、彼らは「決して死を味わうことがない」に引っかかりました。「わたしのことばを守る」とか「イエスが語る死」には全く関心がありません。ここにも神の民という自負が出ています。彼らは、人には寿命があり、神に選ばれたアブラハムや預言者でさえも例外ではないと言います。さらに「アブラハムや預言者も寿命を支配できなかったのに、わたしのことばはそれができる」というのは、そんなにあなたは偉大なのかと言います。驚きよりもバカにしているのです。


 イエスが答えます(54-55節)。イエスが決して死なないための手段になっているのは、ご自分がほめたたえられるためではありません。ただ神の栄光のためです。父なる神のみこころを完全に受け入れ、神のことばを完全に守り行っているのは神がほめたたえられるためです。もしほめられるとすれば人からではなく神からほめられるのを求めます。なぜなら神のことを完全にわかっているからです。神こそがすべての支配者であり、祝福の源だからです。そして聖さや正しさやあわれみは決して揺るがないからです。


 ユダヤ人はアブラハムの子孫、神と契約した民という自負を持っています。それゆえ「あなたはサマリア人だ」のことばに表れているように、「自分たちは聖い。神から選ばれた自分たちが偉い。栄誉を受けるに相応しいのは自分たちだ」という信念で生きています。だからイエスのことばを受け入れることができません。


 イエスのことばを守るためには、まず神がどういうお方であるかを知り認め、その上で神を尊重し、自分ではなく神の栄光を求めることが肝心です。他者からの喜びや他者からの賞賛を求めると、イエスのことばを守れなくなります。迫害のようにイエスのことばを守ることが痛みや苦しみを自らにもたらす現実もあるからです。「よくやった。忠実なしもべだ。」これが死を免れた私たちを動かす原動力です。


Ⅱ.ユダヤ人の父アブラハムはイエス到来を喜んだが、ユダヤ人はイエスを殺そうとした(8:56-59)

 さて「イエスが死を免れるための手段」であるのを他にも分かっていた者がいます。56節「わたしの日」とはイエスが救い主として地上に来ること、いわばイエスの時代を指します。ユダヤ人がイエスと顔を合わせているこの時がまさにイエスの日なのです。


 ユダヤ人の父アブラハムは、地上の人生は旅人、寄留者であると告白し、天の故郷にあこがれていました(ヘブル11:13)。このアブラハムに神はイエスによって天の故郷である神の国が実現する様を見せたのです。アブラハムの時代からおよそ1900年後、イエスがこの地上に来てイエスの十字架とよみがえりによって、イエスを信じる者が滅びを免れて天の御国に入るのをアブラハムは見たのです。それで彼は喜びあふれ、その姿をイエスは見ました。このことばはイエスの永遠性を明らかにするとともに、「あなたがたの父であるアブラハムはわたしを喜んだのに、なぜあなたがたは殺そうとするのか」という問いかけでもあるのです。


 案の定、ユダヤ人が反論します(57節)。彼らは父アブラハムが大喜びしたことには目もくれず、「イエスがアブラハムを見た」という点に引っかかりました。彼らは「物事の分別が付く年齢にも達していないのに、アブラハムを見たなどあり得ない」と訴えます。間違いなく、彼らはイエスを自分たちと同じ人間としか見ていないから、この世の常識を当てはめようとしています。ユダヤ人は出エジプトのように、人間には理解し得ない出来事も神のわざであるならばその通り受け入れます。でも「いつまでも死なない/アブラハムを見た」を否定するのは、イエスを神と見ていないばかりか、モーセや預言者のような神の代理者とも見ていない証拠です。


 そこでイエスが答えます(58節)。以前申しましたように「わたしはある」は神がモーセに対してご自身を名乗る時に用いたことばです。つまりイエスは、ご自身が神であるから永遠に存在できて、アブラハムを見ることができたと言うのです。このことばは彼らの怒りをさらに大きくしました。単におかしなことを言うのであれば狂人扱いですが、神とアブラハムに対する冒涜は民族の尊厳を踏みにじるからです。それで彼らはイエスを石打にしようとしました(59節)。しかし、「イエスのとき」がまだ来ていないので、神の守りによってイエスは難を逃れました。


 アブラハムは自分の時代よりもはるか先にイエスが救い主として地上に来ることを見て大喜びしました。イエスを信じる者が神のおられる天の故郷に入れるからです。今、ユダヤ人はアブラハムが待ち望んでいる方を直に見て、聞いて、ことばを交わしています。アブラハムよりももっとすばらしい時代を生きているのです。にもかかわらず彼らはアブラハムが願っていたイエスを殺そうと狙っているのです。自分の信念にこだわる頑なさによって、救いのチャンスを逃しているのです。


・おわりに

 ユダヤ人はどこまでもイエスを人として見ていて、イエスを神として、神の代理人として認めませんでした。加えて、自分たちはアブラハムを父とする神の民であり、戒律を厳しく守るといった自分たちのやり方で神の国に入れると信じていました。だから自分たちのことを否定するイエスを殺そうとしたのです。


 しかし、8章でただ一人イエスを主と呼び、罪赦された者がいます。それが姦淫の罪で捕らえられ、死に直面していた女です。ここにキリスト教の本質があります。「自分ではこのやみから抜け出せない。どうにもできない。この方に頼るしかない。」姦淫の女はこのような状態でした。自分の能力や努力、あるいは家柄や血筋のように生まれ持った性質など「この世のものごとでは無理です」という所に立つことが信仰のスタートラインなのです。ユダヤ人、特にパリサイ人や律法学者はこのスタートラインに立っていないから、イエスを受け入れられないのです。


 この真理を教えるために神はイエスを地上に送りました。そして、神は人の身代わりにイエスを十字架で死なせて人の罪を赦し、イエスをよみがえらせて信じる者の行く先を明らかにしました。神以外の何かに頼り、永遠の死に向かう人間を神は放っておかなかったのです。これが神のあわれみです。

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