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木村太

4月10日「イエスは私たちのために死なれた」(ペテロの手紙 第一 2章21-25節)

■はじめに

 今日はイエスが十字架で死なれたことを記念する「受難礼拝」です。教会では「イエスによって救われた/イエスによる救い」ということばをよく耳にします。ただ、一般的には「救い」という言葉は「救急車/救援物資/救急救命士/救出」のように、命が危機にある時に使われています。ですので、健康で安全に暮らしている人に「救い」ということばはふさわしくないように思えます。でも私たちは、いのちの危機にあったから救われたのです。今朝は、イエスの死と救いの関係について聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.人は罪によって本来の姿を失い、つねに飢え渇いた人生を送っている

 「救い」を知るためには、人が何から救われるのかを知らなくてはなりません。そのためにまず人について見てゆきましょう。


 神は万物の創造において「~あれ。」という命令で造りました。ただし、人については「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。(創世記1:26)」と宣言し、土地の塵で形作り、ご自身の息を鼻に吹き込んで生きる者にしました(創世記2:7)。息は神の聖さ、正しさ、愛といった神のご性質そのものですから、最初の人は神と同じ性質を持っていました。


 罪が入る以前の人は、疑いなく神を信じ従っているから、すべてにおいて神のお考えやことばから逸れることはありませんでした。そこには不安も不満も恐れもなく、ただ平安と喜びに満ちていました。ところが、最初の人アダムとエバが神の命令に背き、善悪の知識の木から実を取って食べました。それで人は神の判断よりも自分の判断を優先するようになり、神に背く者となりました。これが罪なのです。たとえ結果的に善いことをしたとしても、自分を優先している時点ですでに罪なのです。


 それゆえ、罪のために人は生まれながらにして神の怒りの対象となり、神の罰を受ける存在になってしまいました(エペソ2:3)。その罰が永遠の滅びです。さらに、人は本来神から平安、喜び、満たしを永遠に受け取る生き物です。だから罪が入ったとしても人は神から受ける完全な安心や喜びを無意識的に知っているから、完全なものを求めようとします。しかし、罪によって神との良い関係が壊れたから、人は不満や不安を自分で埋めようとします。そのため、自己中心になって人を傷つけたり、争いを起こします。「いつも何かに飢え渇いていて、しかも最後は永遠の滅び」これが人の有り様であり、ここから脱出するのが救いなのです。


Ⅱ.神の愛:神は罪ある人をも尊い存在とし、滅びではなく生きることを望んでいる

 人は自分勝手に生きながら悲惨な状態にあります。しかも自分の力でそれを脱出することはできません。ところが驚くことに、神はこんな人をも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:3)」と語ります。神に背いて、最初の喜ばしい状態から完全に落ちてしまっていても、神にとって人は価値がある存在、大切な存在なのです。だから神はこう言います。「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。 (エゼキエル18:23)」


 それで神は、どれだけ神から逸れているかを気づかせるために律法を与え、間違った歩みを矯正するために預言を与え、神のすばらしさを知らせるために詩を歌わせました。そして、時至って神は人の罪を赦し、人本来の姿となる手段を実行しました。ただここで私たちは、神の中に二つの思いがあることに気づきます。一つは、人には何とかして生きて欲しいというあわれみ、もう一つは、絶対に人の罪を赦すことはできないという怒り(罪の罰)です。けれどもこの思いは互いに反しています。なぜなら、もし人をすべて滅ぼしたとしたら神のあわれみは実現できません。逆に、罪ある者を罰しなかったり、見逃したりすれば、神は正しいお方ではなくなります。


 そこで神はこのようにして人の罪を赦しました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)」ここで「彼」とあるのが神の子イエス・キリストです。神は全く罪のない我が子に人のすべての罪に対する罰を負わせました。使徒ペテロはイエスをこう言います。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。(Ⅰペテロ2:22)」人の代わりに罪のないイエスを罰することで神は人への怒りを収めます。一方、人は罪の罰である滅びを免れて、すなわち救われて永遠に生きることができます。私たちは神に背く者、敵対する者、反抗する者です。けれども神はそんな私たちへの怒りを我が子イエスに与えて、私たちを赦すのです。これが神の愛です。


Ⅲ.イエスの受難:神はなだめの供え物としてイエスを十字架で死なせた

 ではイエスが受けた神の怒りすなわち罰とはいったいどんなことなのでしょうか。神は律法の中で人の罪を赦す方法を示しています。それは神の怒りをなだめるために神にささげものをすること、いわゆるなだめの供え物という犠牲の制度です。罪の内容によってささげる動物に違いはありますが、共通しているのは、傷のない最上の動物を殺して神に供え怒りをなだめることです(レビ17章)。


 神はこの制度に則って、全く罪も汚れもなく完全に神に従っている我が子イエスを「なだめの供え物」としました。ここで大事なのは、動物のときは罪を犯した者自身が供え物という犠牲を払っているけれども、イエスの場合は供え物を受け取る側の神が供え物を用意した、ということです。神だけが我が子イエスのいのちという犠牲を払っているのです。神に背き悲惨な状態にある人のために神自らが犠牲を払ってくださったいました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」とあるように、神の愛は怒りを越えるのです。


 ここで神は、なだめの供え物を「十字架での死」という処刑方法に定めました。なぜ十字架なのかは聖書では明らかにされていませんが、人々に「なだめの供え物」となった事実を明らかにするためと思われます。イエスはポンテオ・ピラトの裁判では無罪だったにもかかわらず、群衆の叫びによって十字架刑に定められました。そして、激しい鞭打ちの後、およそ50kgもある横木を担ぎながら処刑場まで歩かされ、手足に釘打たれ十字架刑にかかりました。


 十字架刑は肉体の苦痛が激しいため、当時はもっとも悲惨な処刑方法でした。ただし、イエスは肉体の苦痛だけを受けたのではありません。それまでイエスを慕っていたユダヤ人すべてから見捨てられ、弟子たちさえもイエスを見捨てました。さらに、丸裸で十字架刑に掛けられ、人々からののしられました。精神的にも計り知れない辛さを味わったのです。この姿を目にすることで人は自分が受けるべき神の罰がどれほど大きいのかを知ります。


 ペテロはイエスの罰をこう語っています。「イエスは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。イエスは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(Ⅰペテロ2:22-24)」神がただただ人を愛するが故に我が子イエスを犠牲にしたように、イエスもまた人を愛するが故に神に完全に従いました。イエスの十字架は神がイエスに怒りを下した証拠です。イエスの十字架は神が人を愛した証拠です。イエスの十字架は、神がどれほど私たちを愛しているのかを私たちにはっきりと示した証拠です。


■おわりに

 イエスの受難とは、本来受けるはずがない十字架刑をイエスが受けたことを言います。受難によって、神はイエスを救い主と信じる者への怒りを収めました。これが救いです。言い換えれば、仲直りのように、神と人との間にあった断絶が無くなったのです。それにより人は再び神に向き直り神を信じ神に信頼する人生に入ります。そして、世の中から受け取る安心や喜びは一時的で不完全だと気づき、神から受ける安心や喜びが永遠に最も優れていると分かるのです。「神はイエスを犠牲にするほど私を大切にしてくださる/神はいつも私を心配してくださり支えてくださる」という心を、最初に造られた時のようにもう一度持つことができます。


 繰り返しになりますが、大事なのは、神だけが我が子イエスのいのちという犠牲を払っている、ということです。私たちは何ら犠牲を払っていません。罪を認め、告白し、イエスを救い主と信じるだけなのです。イエスの受難によって私たちは罪が赦され、やがて入る天の御国を期待しながら人生を送るのです。それは、理不尽と悲しみ、怒りの世界に生きているとしても、神からの不思議な平安と喜びと満たしがある人生です。私たちはいつも何かに飢え渇く人生から、イエスによって永遠に満たされている人生に救い出されたのです。

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