■はじめに
イエスのよみがえりから50日後、ヨハネやペテロといった弟子たちに聖霊が下り、彼らは「イエスこそ滅びからの救い主」と大胆に証言するようになりました。その証言を聞いて、すぐにイエスを救い主と信じた者が大勢生まれました。その一方でアテネの人々のように、パウロをあざ笑ったり、「その話はいずれまた」とイエスを遮断する人たちもいました。聖書や教会をはじめとして、キリスト教は2000年の歴史を重ねていますが、イエスについての事実を聞いても無関心だったり拒絶される状況は今も続いています。今日は、「人はなぜイエスを信じないのか」を聖書に聞きましょう。。
Ⅰ.ユダヤ人たちは目が見えるようになった事実を前にしても、イエスのわざを信じなかった(9:13-17)
イエスは生まれつき目の見えない人に神のわざをなしました。ご自分の唾でこねた泥を両目に塗り、洗い流すことで目が見えるようになったからです。これを通して、心身を苦しむ人にとってイエスが光であることを明らかにしました。一方、イエスによってあり得ないことが起きたので、盲目だった彼の知り合いを中心に驚きが広がって行きました。
後で触れますが、エルサレムではすでに会堂におけるイエスの取り決めがありました。さらに、イエスのやったことは安息日の規則で禁じられている治療行為と見なされます。それで人々はイエスを訴えるために、宗教指導者であるパリサイ人のところにこの者を連れて行きました(13-14節)。
パリサイ人たちは伝聞ではなく、直接尋問してイエスを訴える証拠を掴もうとしました(15節)。彼らの質問に盲目だった人は「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と事実を語りました。すると、この答えによってパリサイ人には二つの反応が起きました(16節)。
ある人々は、「安息日の規則を守れない罪人だから、イエスは神に属する人ではない。だから、神しかできないようなことをできるわけがない。」と判断しました。彼らにとっては、事実よりも、どんな人が行ったのかが重要なのです。彼らは事実よりも自分たちの考えを優先しているのです。
また他の人々は「神しかできないことを罪人にはできない。だからイエスは罪人ではない。」と判断しました。彼らは、イエスは何か不思議な力を持っていると見ているのです。いずれにしても両者は、「生まれつきの盲人が見えるようになるのは神の力しかあり得ない」と認めています。けれどもイエスが神であるとは認めていません。
そこでパリサイ人たちは、今度はイエスについて尋ねたところ、彼は「あの方は預言者です」と答えました(17節)。旧約聖書イザヤ書には来るべきメシアあるいは預言者についてこう書かれています。「こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。(イザヤ42:7)」おそらくこのことを知っているのでイエスを預言者と答えたのでしょう。彼だけがイエスを神に属する者あるいは神から力を授けられた者と確信しているのです。確信があるからはっきりと言うことができるのです。
「イエスが生まれつき目の見えない人を見えるようにした。」この事実に対して3つの反応があります。
①イエスのわざもイエスが神に属していることも認めない人
②イエスのわざは認めるが、神に属しているかどうかはわからない人
③イエスのわざを認め、さらにイエスが預言者のように神に属している者と認めている人
ここから言えるのは、イエスがその人に直接関わらなければ、イエスを神の人と認めないのです。違う言い方をするならば、神であるイエスの力が働いて初めて、人はイエスを神と信じることができるのです。イエスを信じる入り口は、教会のイベントやテレビ・ラジオの放送、あるいはホテルで手にしたギデオンの聖書など十人十色であり、いずれも人の働きによるものです。けれどもイエスを信じるようになるのは、イエスの力であり人の働きではありません。だから私たちは「イエスがこの方に関わってくださるように」と祈りながら、イエスを伝えるのです。
Ⅱ.目が見えるようになった人の両親は、ユダヤ人からの仕打ちを恐れ、イエスについて語らなかった(9:18-23)
さて、盲目だった人の答えを聞いて人々はどうなったでしょうか(18-19節)。イエスに敵対するユダヤ人は「あの人についてどう思うか。」と聞いておきながら、「預言者です。」の答えを無視しています。彼らはどんな証言を聞き目撃しても、とにかくイエスと神との関わりを認めません。「あんなユダヤ人が預言者であるはずがない。」という信念とも言えるような彼らの先入観、頑なさが無くならない限り、イエスのわざを認めないのです。
そこで彼らは盲目だった人の両親を呼び出して、本当に目が見えなかったかどうかを確かめました。「親子であることに間違いはないか/生まれつきの盲目に間違いはないか」を尋ねていることから、彼らは盲人の狂言を疑っているのです。どこまでもイエスを認めたくないのでしょう。
彼らの質問に両親は、親子であること、そして生まれつきの盲目であることをはっきりと答えました(20節)。しかし、目が見える理由については答えないだけでなく、息子に任せました(21節)。ただし、「どうして見えるのか」の質問に「どうして今見えているのかは知りません。」で終わらず「だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。」と答えています。つまり、両親は人の介入があったことを知っているのです。けれども「誰が」を言えない理由がありました(22節)。
「会堂から追放される」とは、ユダヤ人の宗教的、社会的生活から閉め出されることを意味します。いわば社会的制裁であり、日本的に言えば村八分に当たります。ユダヤ人は共同体で生きている民族ですから「仲間はずれにされる」程度では済みません。「信用を失う/仕事を奪われる/売買が拒否される」などのように生活が立ちゆかなくなります。ですから「会堂から追放される」のはユダヤ人にとって本当に恐ろしい制裁なのです。もし、「イエスが見えるようにしました」と答えたら、イエスが神のわざをなしたと証言することとなります。「イエスはキリスト(メシア,救い主)です。」という告白ではありませんが、そう受け取られる可能性があるから、両親は「息子に聞いてください。」と答えたのです(23節)。
イエスの行いで、生まれつき目の見えない成人が見えるようになりました。その事実を聞いて「イエスが目を見えるようにした」と口にできないケースが二つ示されています。
①「イエスのような人間が神のわざをできるはずがない」のように自分自身の思い込みや信念を変えたり捨てられないために、認めない人々がいます。プライドが赦さないという人もいるでしょう。かつての私もそうでしたが、いくら事実を示されても頑なに認めないのです。
②社会的制裁が自分を含めた家族や周囲の人々に及ばないようにするため、口にできない人々がいます。 思想信条の自由が保たれていない国や地域では現在もあります。日本でも因習の強い土地ではこのような傾向があります。
ところで、今日登場した人々は特別な人々ではありません。いつの時代でもどこででもあり得ることを私たちは知っておきましょう。決して「善い・悪い/正しい・正しくない/聖い・汚れている」と評価してはなりません。これがアダムとエバから始まった罪の世界の現実なのです。同時に、私たちもかつては自分の考えにしがみついてイエスを神と認めなかったり、信頼に値すると思っていても口に出せない者でした。しかし大事なのは、このような自分にも神はあわれみをかけてくださっているということです。神のあわれみによってイエスが私たちに働いてくださったから、イエスを救い主と告白でき、どんな中にあってもイエスを通して安心が与えられています。イエスを疑うユダヤ人や両親は私たちの姿を映し出しているのです。
・おわりに
イエスは「滅びに至る門は大きく広く、そこから入って行く者は多い。いのちに至る門は狭く細く、それを見出す者はわずか(マタイ7:13-14)」と語りました。また、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。(ヨハネ6:44)」とも語っています。
「神の子イエスがこの地上に生まれ、福音を伝えながら神のわざをなし、十字架で死んで三日目によみがえり、父のおられる天に戻った」この事実を認め信じる者は、使徒たちの時代からこんにちに至るまで無数と言えるほど存在します。私たちもその中の一人です。けれども狭い門に変わりないから、神であるイエスの働きを必要とするのです。私たちは神の力、イエスの介入を期待しながら、イエスについての事実をこの世界に伝えてゆきましょう。そして「イエスは救い主です。」と告白した先に、恐怖ではなく平安があることを身をもって明らかにしてゆきましょう。
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