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  • 木村太

4月14日「苦難の叫びと主の答え」(ハバクク書1章1-11節) 

■はじめに

 いま世界では、ウクライナとロシア、イスラエルとパレスチナの戦闘、無差別テロ、少数民族の抑圧など、人々を恐怖と苦痛に陥れる出来事が後を絶ちません。日本においても殺人、虐待、詐欺、差別、誹謗中傷といった人を大切にしない事件が頻発しています。こういった有様に私たちは「神は弱い者の味方ではないのか/どうして放っておくのか」という疑問や嘆きあるいは怒りが湧いてきます。今日から旧約聖書のハバクク書を扱いますが、この書を通して「人知を超えた神のみこころ」を受け取ってゆきましょう。

 

■本論

Ⅰ.ハバククは国民の宗教的・道徳的堕落を主に嘆き叫んだ(1:1-4)

 1節「宣告」は神が人にことばを与えることですから、この書が預言者ハバククに与えられた神のことばであることを示しています(1節)。1:6「わたしはカルデア人を起こす。」とあるように、バビロニア帝国を築いたカルデヤ人はBC590頃、南王国ユダに侵略しました。この頃、ユダ王国では宗教改革者ヨシヤ王が死んだため、宗教的、道徳的に腐敗の一途をたどっていました。ある解説書では「神の民の姿かと思うほど落ちぶれた」と言われています。

 

 この状況を目の当たりにし続けてハバククは「主」と呼ばれるイスラエルの神に叫びます(2節)。神の民であるイスラエルの人々は「神は悪を放ってはおかない」と信じています。けれども、ひどい有様を主にいくら嘆き訴えても、主は一つも手を下さないためにますます腐敗してゆくので、ハバククは「主は聞いてくださらない」と叫び嘆くのです。預言者は世の中を主のみこころに導く役割があるので、なおさら嘆きが深いのです。

 

 そしてハバククは今の状況をこのように主に訴えます(3-4節)。「なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。」とあるように、ハバククは「ひどい状況が良くならないのは主が何もしないから」と見ています。ただし、なぜそうしているのかは全く見当もついていません。

 

 ユダ王国ではいつも略奪、暴力、口論、喧嘩があり、それが収まる兆しはありません。なぜなら、「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。(4節)」とあるように、律法を働かせて罪を判定し、罰を与えることができないからです。悪しき者による不正なさばきが横行しているから、正しいさばきが封じ込められているのです。それで、悪を止めるどころか悪が助長されてゆきます。

 

 イスラエルの民は神の民ですから、他の民族や国は彼らを通して神がどういったお方を知ります。けれども宗教的、道徳的に腐敗し続ける姿をさらせば、他者は「イスラエルの神はひどい神だ」となります。例えば、日曜日になると教会から怒鳴り声が聞こえてきたり、玄関で言い合いになっていたとしたら、地域の人々は「キリスト教の神はすばらしい」となるでしょうか。つまり、イスラエルの堕落は自分たちをますます罪深くさせるとともに、神にますます恥をかかせるのです。だからハバククはそのままにしている主に対して「いつまでですか」と嘆くのです。

 

 ハバククの時代、ユダ王国では神の義・善・聖さが全くなされていません。その上、ハバククには警告の預言さえもありません。まさに、神は無視しているとか見放しているとしか思えないのです。ただ、このことは現代でも同じです。私たち夫婦はNHKの「映像の世紀シリーズ」を毎回見ているのですが、そこにはいつの時代でも、どの地域でも残酷や非道が行われています。もちろん原因は人にあります。しかし、同じような悪が繰り返されているのになぜ神はそのままにしておくのか、といった疑問が湧いていきます。人によっては怒りや失望もあるでしょう。「私たちは神のみこころを完全に知ることができない」これもまた真実であることを認めなくてはなりません。

 

Ⅱ.主は、バビロンによってユダ王国を滅ぼすことをハバククに伝えた(1:5-11)

 主はユダ王国の堕落には何も応答しませんが、ハバククの叫びにようやく答えます(5節)。「驚き、たじろげ。」とあるように、主はユダ王国に異邦人を用いて何らかのことを起こすと告げます。しかも、肝をつぶすほどのことを起こすのです。それが6節のことがらです。

 

 主はカルデヤ人すなわちバビロンを用いると告げています(6節)。バビロンは凶暴で激しい気質を持ち、広大な土地を略奪できるほど勢力があります。あのアッシリアでさえも滅ぼすほど、とてつもない力があるのです。「驚き、たじろげ。」とあることからバビロンはユダに良いことをするのではありません。暴虐を持ってユダを占領しにやって来るのです。

 

 主はバビロンがどれほど恐ろしいのかを、ハバククをはじめとするユダに明らかにします。

 

①残虐さ(7節):「彼らはさばきと宣告を自ら下す。」とあるように、彼らは思いのまま暴虐の限りを尽くします。だれも彼らを止まることはできません。だから、凄惨そのものなのです。

 

②軍隊の様子(8-9節):軍隊の戦闘は豹よりも早く、狼のように俊敏でどう猛、騎兵の能力はずば抜けていて、鷲のように狙った獲物を確実に仕留めます。しかも、軍隊は統率が取れていて、全員が暴虐です。ですので、手で砂をかき集めるごとく、いとも簡単に人を捕まえます。

 

③占領国への態度(10節):「嘲る/笑いものにする/ざ笑う」とあるように、彼らは獲物とする国の王や指導者たちを徹底的に見下しています。また、土を積み上げてどんなに堅固な城壁をも攻略し、町に入って暴虐を尽くします。彼らにしてみれば相手がどれほど権威があっても、どれほど威力があっても何ら恐れや躊躇はありません。11節「風のようにやって来て過ぎ去る。」とあるように、赤子の手をひねるごとくいともたやすくユダ王国を滅ぼすのです。

 

 主は、暴虐以外のなにものでもないカルデヤ人すなわちバビロンがユダ王国を滅ぼし、占領するとハバククに告げます。このことは「恐ろしい敵がやって来る」という驚きだけでなく、「なぜ主がそんなことをするのか」という驚きも起こします。というのも、ハバククをはじめイスラエルの民は「神は正しいお方だから、悪を用いることはない」と信じているからです。ユダ王国を襲ってくるバビロンは神の民ではないばかりか、やっていることは悪そのものです。けれども、主は悪を用いて堕落した自分たちをさばこうとするから、信じられず驚くのです。もし、主ご自身が自分たちに何らかのわざわいを下すのであれば驚くことはないでしょう。けれども「義、善、聖さ」といった彼らの神観とまったく違うから彼らはこのことを信じられません。まさに「それが告げられても、あなたがたは信じない。(5節)」の通りです。

 

 ただし、主はバビロンという悪を用いることだけを告げてはいません(11節後半)。バビロンは自分たちの力を神としました。つまり、天地万物を造りこの世を治めている神よりも、自分たちを上にしているのです。だから主はこのことを罪と定めて、責めすなわち罰を与えます。それがいつなのかここでは明らかにしていませんが、「神の義、善、聖さ」は決して失われず、必ず悪にはさばきが下されるのです。その証拠に、バビロンは半世紀も経たないうちにペルシャ帝国によって滅ぼされます。

 

 イスラエルの民にとって神は親しい存在です。モーセ以降、神は幕屋や神殿の至聖所に来られ、祭司による儀式を通して民と関わってきました。また指導者や預言者を通してご自身のことばを人々に告げました。ですから、イスラエルの民は神のことを良く知っていると自負しています。ヨブや彼の友人たちはその典型と言えます。しかし、造られた人間が造り主の神を全部知ることは到底できません。しかも、人が見ているのは空間的にも時間的にも一部分であり、一方の神はすべてを見通しています。それゆえ、ハバククが嘆いたように、私たちには信じがたいこと驚くべきことが神のなさることにあるのです。ただし、私たちの目には神は変わってしまったかのように見えても、神のご性質はひとつも変わりません。ここに私たちの希望があります。

 

■おわりに

 神の息吹によって造られた人間には「神の義、善、聖さ」があります。その一方、最初の人アダムが善悪の知識の実を食べて以来、人は神よりも自分の判断を優先する性質いわゆる罪を持つようになりました。それで、人同士には必ず罪から生まれる悪があるのです。

 

 ただ、私たちはその真実をわかっていても、なぜ神はそのままにしておくのか、という疑問や嘆きが生まれます。さらに、神には何らかのご計画があるとわかっていても、「いつまでですか、主よ。」嘆き訴え、神のみこころと格闘することがあります。そのようなとき私たちは「神のご性質は絶対に揺るがない」ここにとどまることが大事です。「しかし自分の力を神とする者は、責めを負う。」と主が告げるように、世の中の悪に抗いながら主の約束を希望にしましょう。

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