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木村太

6月2日「神の義を信じ切る」(ハバクク書2章9-20節) 

■はじめに

 ダビデが詠(うた)った詩篇には「嘆きから感謝へ」移り変わるものがいくつもあります。以前説教した詩篇28篇はその典型と言えます。また「嘆きから感謝へ」の詩篇では、ほとんどと言ってよいほど、ダビデは様々な物で主をたとえています。例えば「巌、岩、盾、やぐら、御翼の陰、救いの角、万軍の主」などがあります。これらはいずれも敵から身を守るもの、敵を倒すものですから、ダビデはそのように主を捉え信頼しているのです。それゆえダビデは恐怖に震えるような敵であっても、主への完全な信頼から平安となり主を感謝できるのです。今日は、神の義を信じ切った者は暴虐者をどのように受け止めるのか、ということを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.暴虐者(カルデア人)は略奪によって財産や国力を増やすが、必ず主によって空しくされる(2:9-14) 

 預言者ハバククはカルデア人を「神よりも自分を上にした者いわゆるうぬぼれた者」と見て、彼らの悪行を挙げてゆきます。ただし、1章のように恐怖や不安あるいは主への嘆きはなく、「わざわいだ」のことばとともに彼らの行く末を語っています。

 

 9節「利得を貪り」とあるように、ハバククは物欲による暴虐を扱います(9-11節)。冒頭の「わざわいだ」は「ああ」とも訳され、相手を嘆くことばです。ハバククにとってカルデア人は恐怖の対象ではあるけれども、それよりも「ああ、悲惨な者よ」という気持ちが強くあるのです。

 

 彼らは「不正な利得」という悪事によって自分の家すなわち財産を増やそうとします。けれども、「自分の巣を高い所に構える者」とあるように、自分は悪事から守られるようにしています(10節)。まさに、自己中心としか言いようがありません。それゆえ、自らは家によって栄誉を誇っていますが、主からすれば人として恥ずべき行為でしかないのです。

 

 「おまえは自分の家のために恥ずべきことを謀り、多くの国の民を滅ぼした。」とあるように、他国を征服し世界に対して偉大さを誇ったとしても、主の前ではそれは何の誉にもならないばかりか、罪を誇っていると同じなのです。それで、石垣や家に使われた石や梁が叫ぶごとく(11節)、虐げられ殺された者が主に悪者の罪を叫んでいるのです。

 

 つまり、ハバククがカルデア人を「わざわいだ」と呼べるのは、暴虐された者の叫びを主が聞き届け、カルデア人の罪を必ず罰するという確信があるからなのです。1章では、カルデア人の暴虐が放置されているからハバククは神の義を疑っています。しかし、ここでは神の義を完全に信じているから、最後は滅びる彼らを悲惨な者と呼べるのです。

 

 ただし、神の義は悪を滅ぼすことだけではありません。血すなわち人の命を奪うことで都を建ててゆく国家は悲惨です。なぜなら、火に焼かれて灰になるごとく、彼らが築き上げたものを主がすべてちりとなし、彼らの行為がすべて無駄になるからです(12-13節)。そしてその様子が主の栄光につながります(14節)。

 

 カルデヤ人たちがやりたい放題の時は、地は暴虐で満ちているように見えます。けれどもそれは一時的であり、必ず主が義によって彼らの罪に罰を下し、彼らを完全に滅ぼします。その時、虐げられた人々を含めてすべての人がその有様を目の当たりにするのです。だから「水が海をおおうように」、大地は主の栄光すなわち「主は義なるお方」であることを知る者で満ちるのです(14節)。主の義は悪を滅ぼすことを通して主の栄光を知らしめることになるのです。

 

 いつの時代もどの地域でも、カルデア人のような暴虐があります。現代の世界を見渡しても暴虐が地に満ちているように思えます。しかし、神の義を信じ切る者は「悲しみ、怒り、不安、恐怖」で終わりません。「彼らは神のさばきにただひたすら向かっている」悲惨な者という見方になるのです。

 

Ⅱ.暴虐者は他者を貶めて誉を得、偶像に安心を求めるが、それらは必ず役に立たなくなる(2:15-20)

 ここまでハバククは「不正な利得、血、滅ぼす」のように物質的な悪を取り上げました。ここからは栄誉や安心といった精神的なことがらを扱います。

 

 15節「裸」は男性の陰部を意味する言葉で「陽の皮(16節)」も同じです。中東では人前で陰部をさらすのはその人の恥となり、たいへんな不名誉になります。例えば、ノアの子ハムは父の裸を見てそのままにしました。父が恥を受けるのを放っておいたから父から罰を受けるようになりました。つまり、泥酔して裸をさらす目的で酒を飲ませるというのは、相手が不名誉になることで自分を誉れ高くさせるためなのです(15節)。

 

 ただし、真実はそうなりません。「おまえは栄光ではなく恥で満ちている。」とあるように、自分では誉が高くなったと喜んでも、主からすれば人を貶める恥ずべきふるまいだから、罰に至ります(16節)。「【主】の右の手の杯」でたとえられている主の怒りが貶めた者の上に下り、栄光とはまったく逆の恥辱という滅びが下るのです。

 

 具体的には、17節「レバノンへの暴虐/獣への暴行」とあるように、カルデア人は大地のものすべてをはぎ取るように暴虐を尽くしました。彼らはそれほどの暴虐によって人の地を流し、国や民族を征服して、自らの誉を高くしてゆきました。しかし、それは主の前に恥を増し加えているのであり、「暴虐がおまえをおおい....暴行がおまえを脅かす」のごとく、主の罰によって今度は自分が暴虐を受ける側になるのです。だからハバククは「わざわいだ」と彼らを呼ぶのです。

 

 ところで、カルデア人は自分たちの偉大さを高めるために他国や他民族を占領してゆきましたけれども、彼らも精神的に頼るものを必要としました。バビロニア帝国を築いたカルデア人は、神からお告げや導きを得るために彫像(彫り物)や鋳像(鋳物)を造りました(18節)。しかしハバククはそれを神として崇め頼っても何の役にも立たないと強く言います。なぜなら、「偽りを教える物」とあるように、何らかのお告げがあったとしても、それは人が考えたことであり、神が語る真実ではないからです。「もの言わぬ偽りの神々を造った」とあるように、あくまでも単なる物に過ぎないからです。それで、頼っている彼らを「わざわいだ」と呼ぶのです。

 

 カルデア人は木や石や鋳物で像すなわち偶像を造りました。その上、神々しさを醸し出すために「金や銀をかぶせ」ました(19節)。しかし、いくら精巧できらびやかな像を造っても石や木に変わりはなく、「その中には何の息もない。」とあるように決して生きた神にはなりません。造られた像を神としてどれほど盛大な儀式をしても、どれほどたくさんの献げものをしても、「木に向かって目を覚ませと言い、黙っている石に起きろと言っている」のですから、何の意味もないのです(19節)。単なる自己満足としか言いようがありません。

 

 そこでハバククは主について真実を語ります(20節)。「聖なる宮」とはこの世の特定の場所ではなく、主なる神がおられる所をいいます。言い換えれば、主は人の手で作った物には宿らないのです。「全地よ」とあるように、主はご自身のおられる所からこの地上すべてをご支配しています。それゆえ、主の権威の前にひれ伏して静まり、主のことばに耳を傾けなければならないのです。自分の安心のために他者を犠牲にしたり、恥をかかせたり、主を利用するのではなく、全地を支配する主に聞き従うことが安心をもたらすのです。これが「わざわいだ」と呼ばれる者から脱出する唯一の方法です。

 

■おわりに

 2章5-20節の有様はカルデア人だけではなくこの世に生きる人間すべての姿と言えます。人は安心を得るため、あるいは欲を満たすために他者を利用し傷つけます。時には命を奪います。世の中で起きている犯罪や争いの原因は「自分だけよければそれでよい」という自己中心にあります。また物言わない偶像に囚われて人生を台無しにしたり、他者を傷つけることもあります。けれども神の義からすれば、そのような者は例外なく罰の対象であり、イエスの再臨において永遠の滅びに定められています。だから、「わざわいだ」と呼ばれるのです。

 

 人にとって最も大事なのは、安心のためにまず何かをするのではなく、まず神の前に静まり神に聞くという姿勢です。ダビデやイエスが常に神のみこころを尋ねたように、全地を支配する神のことばに耳を傾けるのです。使徒ペテロは恐怖によってイエスを見捨てた経験からこう言いました。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」神のことばに聞き従っても、目の前に広がる困難がすぐになくなるとは限りません。しかし、御子を犠牲にするほど私たちを心配してくださる神が私たちに平安を与えてくださるのです。だから、主の御前に静まり、主に聞き従う私たちは「幸いなものよ」と神から呼ばれるのです。

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