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木村太

6月16日「さばきの恐れと期待」(ハバクク書3章1-7節) 

■はじめに

 私たちの人生には「恐ろしいけれども、それを通らなければ喜びや安心に至らない」という物事があります。身近なところでは、病の手術、学校や資格の受験といったところでしょうか。出産もこれに相当すると思います。ですので、私たちは不安や恐れを抱きつつ、一方では喜びを期待しながら、その日を待ち望みます。実はイエスの再臨もこれに似ています。なぜなら、この日はこの世の滅びであると同時に私たちが天の御国に行く日でもあるからです。今日は「神のさばきの日を恐れながらもそれが来るのを期待する」ということをハバクク書3章から見てゆきます。

 

■本論

Ⅰ.神はご自身の義に基づいて悪を怒り滅ぼすから、ハバククは神のさばきを期待する(3:1-2)

 ハバククは初め、暴虐の限りを尽くすカルデア人からの助けを主に求めました。同時に、彼らをそのままにしていることを主に嘆きました。主の義を疑っていたのでしょう。しかし、「見よ。彼(カルデア人)の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(2:4)」という主のことばによって主の義は変わらないとわかり、カルデア人は必ず滅ぼされると確信しました。そして、ハバククは主に語ります。

 

 1節「シグヨノテ」は音楽用語で「悲しみの歌」を意味します。さらに解説本によると、旧約聖書においては神の真実さに完全に信頼する場合にのみ用いられる、まれな用語と解釈されています。確かに、ハバククの祈りを見ると「神の真実さに完全に信頼」が見て取れます。なぜなら、カルデア人の悪行や彼らへの恐れ、そして嘆きが一切なく、主を崇めることばにあふれているからです。違う見方をするならば、カルデア人のことはすでに解決済みなのです。「いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。(1:2)」この出だしとは全く別人のようです。

 

 ハバククはこのように祈りを始めます(2節)。ハバククは「主のみわざ」をうわさで聞きました。ただし、「うわさ」は風の便りのような不確かではなく、「ニュース/発表」のように確かな情報を意味します。おそらく彼は過去の記録から主のみわざを知って恐れたと思われます。

 

 なぜハバククが恐れたのか、それは「主のみわざ」が「激しい怒り」だからです。主はご自身の義に反する者を怒り、罰を与えます。いわゆる「さばき」です。しかも「激しい怒り」とあるように、主は圧倒的な力で悪者に罰を下し滅ぼします。どれほど強い者でもどれほど強大な国でも生き残れません。

 

 ここで不思議なことにハバククは「この数年のうちに、それを繰り返してください。この数年のうちに、それを示してください。」と願っています。恐怖なのに怒りを期待するのは、主のさばきによって悪が一掃され、主に従う者にとって益となるからです。いわば、悪から解放され救われるから、さばきは恐ろしいけれども、それが近いうちに必ずなされるように願うのです。

 

 ただしハバククは「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」と願っています。彼は、自分の民族も含めて神に背き続けた人々が激しい怒りで滅ぼされることを認めています。けれども、怒りに任せて全体を滅ぼすのではなく、「御前に静まり、神に従っている者」を助けて欲しいのです。罪の見逃しや罰を軽くすることではありません。ハバククは神のさばきを尊びながら、人を大切にする神のご性質に訴えているのです。主がソドムとゴモラを滅ぼそうとするときにアブラハムが滅びの条件を訴えた姿と似ています。

 

 旧約聖書には主の激しい怒りによって人々が滅ぼされる出来事が数多くあります。「ノアの洪水(創世記6-7章)/エジプト軍が割れた海に飲み込まれる(出エジプト記14章)/主に不平を言った民が火や大地に飲み込まれる(民数記16章)」などはよく知られています。また、新約聖書でもヨハネの黙示録には、人を含めてこの世が滅びる様子が記されています。どれも恐ろしさを感じずにはいられませんが、この怒りによる罰が終わった後は平安となります。主のさばきは不安や恐怖をもたらしますが、これは正しい者を罪の世から救うことになるから、さばきが来るのを期待するのです。

 

Ⅱ.神の怒りは全地に及び悪を滅ぼすから、あらゆるものは恐れとともに神を賛美する(3:3-7)

 続いてハバククは主のわざがどのようにしてもたらされるのかを、主に語ります。使徒信条のような信仰告白と言っていいでしょう(3-4節)。テマンはエドムとシナイの間の山地と考えられています。また、パランはシナイに近いエドムの地です。この地域はモーセ率いるイスラエルの民が荒野を旅した場所であり、神がイスラエルの民に偉大なわざをなした地域です。つまり、出エジプトでなされたような人知を超えたわざがもたらされるのです。

 

 ただし、このわざ、すなわち主のさばきはイスラエル民族だけに下るのではありません。「その威光は天をおおい、その賛美は地に満ちている。(3節)」とあるように、カルデア人をはじめすべての悪が一掃にされます。それで、主への賛美が地に満ちるのです。

 

 また主のわざは、嵐をはらむ黒雲から稲妻がほとばしるように下ります(4節)。現代であれば稲妻は気象の一現象として理解されていますが、この当時は恐怖以外の何ものでもありません。現代科学をもってしても人が稲妻に抗えないように、主のさばきは瞬間的でありながら、全地に圧倒的な力でやって来るのです。だから「疫病はその前を行き、熱病がうしろに従う。(5節)」とあるように、さばきが下ったところは舐め尽くすようにすべてが滅ぶのです。主のさばきは徹底しています。それを免れる者は一人もいません。

 

 この圧倒的、徹底的なさばきの様子をハバククはこう語ります(6節)。「ご覧になる」は「測る/計測する」を意味しますから、「立ってご覧になる」は主がこの世界を見て、どれがさばきになるのかを測っているのです。それゆえ、大地も人もあらゆる存在が主の前に震えるのです。あたかも、シナイ地方の遊牧民であるクシャンやミディヤンがイスラエルの民を見て、主のみわざにわなないたようにです(7節)。

 

 しかも、永遠に変わらないかのような山や丘といった自然さえも、主の力によって変えられます。その一方「しかし、その道筋は永遠だ。」とあるように、主が悪を見定めてさばきを下す道筋(プロセス)は決して揺るぎません。主の前では、この世のすべては永遠ではなく主の支配のもとにあり、主が存亡を左右します。イエスも実のならないいちじくを枯らしました。永遠に不変なのは主なる神だけなのです。

 

 人は誰でも喜びや楽しみ、安心が永遠に続いて欲しいと願うものです。また世の中には「自分の権力や裕福は永遠だ」と思っている人もいます。反対に、不法や邪悪な世の中は永遠に続くと悲観する気持ちもあります。しかし、どれほど財産があっても、どれほど権力があっても、どれほど世の中に貢献していても、主の義に反する者は稲妻のひらめきのごとく、一瞬にして滅ぼされます。悪は永遠ではありません。

 

 ハバククはカルデア人の暴虐がずっと続くと思い、主に嘆きました。けれども主の義は変わらないと確信した後は、彼らを「わざわいだ(悲惨な者よ)」と呼びました。「主の義に基づくさばきは決して揺るがない」これを確信した者は、永遠を追い求めるのではなく、ただ主の御前に静まって主の声に耳を傾け、主のことばに従います。この者のみがあわれみによって主の怒りから免れ、滅びの後にもたらされる平安を生きるのです。

 

■おわりに

 イエスは弟子たちにこの世のすべての終わりについてこういいました。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。(マルコ13:24-27)」

 

 人の子と呼ばれるイエスが再びこの世に来るとき、人類が経験したことのない、いわゆる天変地異が起きこの世は滅びます。想像を絶する恐怖が人々を包みます。また「人の子は...選ばれた者たちを四方から集めます。」とあるように、選ばれた者すなわち神の導きによってイエスを救い主と信じた者は、全員集められて天の御国に入ります。ですから、恐怖に加えて親しい人と引き離される悲しみもあるでしょう。

 

 この世が滅ぶ一方、イエスを信じる者には天の御国での永遠の平安が始まります。この世の悪や一切の苦痛から解放されるのです。神は罪の世を滅ぼすほどに激しく怒ります。けれども、あわれみによってイエスを信じる者への怒りを御子イエスに下しました。私たちが滅び失せないのは、ただ神のあわれみなのです。

 

 私たちには終わりの日がいつなのか、どれほど恐ろしいのか分かりません。しかし、その日は必ずやってきます。イエスを犠牲にしてくださった神のあわれみに感謝しながら、天の御国に入る日を待ち望みましょう。

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