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木村太

6月23日「苦難の中で喜び踊る」(ハバクク書3章8-19節) 

■はじめに

 北海道聖書学院で学んでいた時「エレミヤ」 の映画を授業で見ました。エレミヤはハバククと同時代の預言者で、南王国ユダの滅亡を目の当たりにしました。恥ずかしながら、ずいぶん前に見たので、どんなシーンがあったのかほとんど覚えていません。ただ一つだけ印象に残っているのは、エンディングでエレミヤが少し微笑んだように見えたことです。それで、今回の説教準備に当たってyoutubeで確認したら、やっぱりそうでした。エレミヤはバビロニア軍によって崩壊したエルサレムを見て、最初は悲しげでしたが、次の言葉を語りながらほんの少し笑みを見せています。「神殿は再建される。そして次は、人の心の中にも建てられるだろう。」神のさばきを目にしながらも、70年後のエルサレム再建に加えて、信仰の回復を喜んだのでしょう。そこで今日は、バビロニアによる暴虐の中でハバククがなぜ喜んだのかをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.主は圧倒的な力で悪者を滅ぼし、主の民を救う(3:8-16)

 ハバククは主の義は変わらないと確信したので、恐ろしいけれども主のさばきを期待しています。そして、主はどのようなお方かという、いわゆる信仰告白の祈りをささげます。祈りではまず、主が激しい怒りによって悪を滅ぼすために来ることが語られ、続いて、どのようにさばきがなされるのかが語られます。

 

 8-11節には「馬、戦車、弓、杖、矢、槍」とあるように、主は悪を滅ぼす戦士のようにやって来ます。また、「川や海に対する激しい怒り」はヨルダン川をせき止める(ヨシュア記3章)、海を割く(出エジプト14章)といった事実を思い起こさせ、主の圧倒的な力を表しています(8節)。主は弓や杖(こん棒)などの武器で敵を倒すごとく悪者を滅ぼし、「定めの時、終わりの時」の約束を果たすのです(9節)。

 

 主の力がどれほど圧倒的なのかをハバククはこう言います。山、海や川の水はぶるぶる震え、光が届かないほどの深い海の底は手を上げて降参し(10節)、太陽や月は主からの光に支配されます(11節)。人からすればこれらのものは何からの影響も受けず、永遠に存在するように見えます。けれども、主の前では力なきものなのです。それほど、主のさばきは圧倒的であり、抗えるものは何一つありません。

 

 このさばきが地上にもたらされます。「地を行き巡り、怒りをもって国々を踏みつける(12節)」とあるように、自然や天体が恐れるほどの主の激しい燃えるような怒りが、地上にいるすべての人に下ります。ただし主は、怒りを下す者と怒りから救われる者を分けています。主は「御民/油注がれた者」を救います(13節)。民に「御」が付いていますから、この民は主に属する民であり、「油注がれた者」すなわち王のように主に受け入れられた者です。違う見方をするなら、主が義と認めた者を主は怒りから救うのです。

 

 一方、御民ではない者すなわち義ではない者が悪しき者であり、怒りを受けます(13節)。しかも「頭を打ち砕き/家の基があらわになる」ほど完全に徹底的に滅ぼされます。悪者はこれまで、食い尽くすように弱い者に暴虐を尽くしていましたが、その立場が一転し主の激しい怒りを受けるのです(14節)。あたかも荒れ狂う海を馬が踏みつけるごとく、なすすべなく圧倒的な力で徹底的に潰されます(15節)。

 

 悪しき者が受ける怒りの恐ろしさをハバククは口にします(16節)。「内臓はぶるぶる震え、口びるはガタガタ鳴り、骨が腐って体を支えられず、足は立っていられないほど震える」人にとって主の激しい怒りは恐怖以外のなにものでもありません。けれども、この怒りによって悪者は地上から一掃され、御民はその後の世を生きるのです。だからハバククは、「攻めて来る民」と呼んでいるカルデア人から暴虐がなされていても自ら復讐せず、彼らに臨むさばきの日を静かに待つのです。ここに「義である主は約束を必ず果たしてくださる」というハバククの完全な信頼があります。

 

 聖書では「さばく」ということばは大抵「悪者を滅ぼす」の意味で使われています。しかし、本来の意味は「悪しき者と正しい者を判定し、悪しき者には罰、正しき者には祝福を与える」ことです。13節はこのことを明らかにしています。主が定めた終わりの時にさばきがなされ、悪者は滅ぼされ御民は救われます。イエスが再びこの世に来られた時、主のさばきが行われ、イエスを救い主と信じた御民は滅びから救われて天の御国に入ります。一方、そうでない悪者は激しい怒りによって滅ぼされます。主なる神は必ずさばきを成し遂げてくださるから、ハバククと同じように私たちもその日を待つのです。

 

Ⅱ.ハバククは、神のさばきと救いを確信しているから、最悪の状況でも喜びがある(3:17-19)

 ハバククは主のさばきを静かに待ちます。17節「いちじく、ぶどう、オリーブ、畑、羊、牛」これらは当時の人にとって生きる糧であると同時に財産でもあります。しかし、それらはすべて失われました。こうなったのは干ばつのような自然災害ではありません。すでに見てきたように、カルデア人による暴虐で大地が荒廃したからなのです。ただし、元をただせばそれは主に背き続けたゆえの罰です。つまり、一切の収穫がないというのは、主の祝福が一つもない状況なのです。

 

 この状況を前にハバククはこう語ります(18節)。イスラエルの民にとって大地の収穫は主の祝福の証しであり、大きな喜びと楽しみになります。ところがハバククは、主の祝福が一つもないのに躍り上がるほど喜びに湧いています。主の都エルサレムは陥落し神殿は破壊されます。その上、収穫もまったくありません。大喜びどころか喜びの要素はこれっぽっちもないのに、ハバククは喜び躍るのです。

 

 どうしてこんな状況で喜べるのでしょうか。その答えが「私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。(18節)」なのです。「主にあって」とは「主とともに/主の手の中で」というイメージです。つまりハバククにとって喜びは「終わりの時に悪を滅ぼし、御民を救う主」がともにいてくださる事実なのです。それゆえ「私の主、【神】は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。(19節)」とあるように、主がともにいるからハバククは何ものも恐れない心となり、悪が一切及ばない高い所にいるごとく平安となっているのです。

 

 ハバククは最悪の状況であっても主にあって喜びます。義なる主がともにおられ、主が定めの時に悪を滅ぼすと信じているからです。彼の喜びはこの世からもたらされるのではなく、主への信頼にあるのです。このことをBibleNavi(いのちのことば社)は次のように記しています。「希望とは、日々の不快な経験を超えて、神を知る喜びを得ることを意味する。私たちは神への信頼によって生きるのであって、人生において経験するかもしれない利得、幸せ、成功によって生きるのではない。私たちの幸せは神から来る。」私たちが見るべきは目に見えない神なのです。

 

■おわりに

 ハバククは「いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。(1:2-3)」から語り始め「しかし、私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、【神】は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて(3:18-19)」で口を閉じます。嘆きから始まり、「指揮者のために。弦楽器に合わせて。」という賛美の祈りで終わります。

 

 ハバククが直面しているのはカルデア人(バビロニア帝国)によるユダ王国の滅びであり、暴虐、大地の荒廃です。どれ一つとっても喜びや安心とはならず、悲しみ、痛み、不安、恐れ、怒りしかもたらしません。しかし、ハバククは主なる神の義をわかったので「神は終わりの時に悪しき者を滅ぼし、御民を救う」という確信に至りました。だから嘆きから解放されて、今ではなく将来を希望として、神がともにいることを喜ぶのです。

 

 私たちの人生にもハバククのような苦難があります。重たい病、不慮の事故、天災や人災、不条理な扱いは誰にでも降りかかります。また、世界に目を向ければ迫害や弾圧、侵略戦争が絶えずあります。それゆえ「いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。」と叫ぶことがあります。あるいは、毎日叫んでいる人がいます。

 

 ただし、この世の出来事だけに注目していると嘆きから解放されません。神は激しい怒りを人に向けていますが、その中にもあわれみを忘れていません。なぜなら、定めの時終わりの時に下される滅びから救うために御子イエスを犠牲にしたからです。私たちが受けるべき怒りをイエスが代わりに受けてくださいました。それが十字架での死です。イエスを救い主と信じた者は御民となり、義なるイエスが死に勝利してよみがえり天に住んだように、御民もまた死に勝利して天の御国に入ります。罪に染まったこの世は激しい怒りによって滅び、天の御国という完全な喜びと平安がやってきてそこに入るのです。

 

 終わりの日は悪者のさばきであると同時に私たちの救いの日でもあります。これが私たちの希望です。そして地上の毎日では主イエスがともにいてくださり、私たちに生きる力を与えてくださっています。私たちは主がともにいてくださることを喜びながら、やがて来るイエス再臨の日、圧倒的な力でやって来るさばきの日を静かに待つのです。

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