■はじめに
新約聖書マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書にはイエスの人生が記されています。ただし、イエスの誕生はマタイとルカだけが扱っているのに対して、十字架での死とよみがえりはすべての福音書に書かれています。これは福音書を書いた4人全員がイエスを語る上で「十字架での死とよみがえり」は絶対に外せないと考えたからです。さらにペテロやパウロをはじめとするイエスの弟子たちも、人々に伝えたのはイエスの死とよみがえりでした。先週の受難礼拝ではイエスの十字架を扱いましたので、イースターの今日は「イエスのよみがえりが私たちに何をもたらしたのか」を聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.よみがえりによって、人はイエスを神の子救い主と信じる
イエスは弟子たちと共に福音を伝えながら、計り知れない不思議なわざをなしました。それでユダヤ人たちはイエスを人とは違う存在、いわば神ではないかと思っていました。同時に預言書に言われているメシアと受け取り、ローマ帝国からのイスラエル民族解放を期待していました。イエスがエルサレムに入ったときの人々の熱狂振りがそのことを示しています(マルコ11:7-11)。
ところが、イエスが逮捕されたとき民衆はイエスがメシアではなく、期待を裏切った者と見なしました。さらに、鞭打ちにされて傷つき十字架刑で死んだのを見て、「イエスは人間として死んだ」と見なしました。弟子たちもイエスがあっさりと捕まり、人として死んだのを見て、イエスは神ではないと受け取りました。そのため全員がイエスを見捨てて逃げたのです。同じように、親しい者たちもイエスは人として死んだと信じたから墓に埋葬しました(マルコ15:42-47)。そして十字架の死から数えて3日目の朝、女性たちは正式な埋葬を施すために墓に来ました(マルコ16:1-5)。
墓へ行って見ると、なんと墓をふさいでいた大きな石が取りのけられていて、墓の中に遺体はありませんでした。ヨハネの福音書には、頭に巻かれた布がその形のまま残っていたとも書かれています。ギプスのように固められた布から遺体だけが消えたのです。さらに墓の中には青年のような姿の神の使いがいました。
神の使いは女性たちにイエスがよみがえったことを明らかにし、よみがえったイエスがガリラヤで弟子たちと再会すると語りました(マルコ16:6-7)。そしてその通り弟子たちはイエスに再会し、手や脇腹の傷跡を見て十字架で死んだイエスがよみがえったことを確信しました。ここで彼らは、イエスの逮捕からよみがえりまでの一連の出来事が、以前語ったことばどおりだとわかったのです。
かつてイエスは弟子たちにこう語りました。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。(マルコ10:33-34)」イエスに起きた出来事は、このことばと何一つ違いません。特に「三日の後に、よみがえる」というこの世ではあり得ないことがその通りイエスに起こったのです。
その上、イザヤ書に書かれていたメシアの姿がぴったりとイエスに一致しました(イザヤ書53章)。それで弟子たちはイエスを神の子でありメシアだと確信したのです。と同時に弟子たちはイエスが語ったことばはすべて真実だと信じました(ヨハネ2:22)。もし、イエスがよみがえらなければ、弟子たちも私たちもイエスが単なる人であり、イエスのことばはでたらめと受け止めるでしょう。「ユダヤ人イエスは神の子であり、救い主である。彼のことばはすべて真実である。」イエスのよみがえりはこのことを明らかにしています。
Ⅱ.よみがえりによって、人は永遠のいのちを与えられた
かつてイエスはラザロが死んだとき、兄妹のマルタにこう語りました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」先ほど申しましたように、イエスはよみがえりによって肉体の死から解放されて人とは違った姿で生きていることを人々に示しました。言い換えれば、死では終わらないことを証明したのです。
このよみがえりのイエスを神の子救い主と信じるとき、イエスを通して永遠のいのちを得るのです。このことをイエスはパンにたとえて説明しています。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。 (ヨハネ6:51)」イエスを信じれば、あたかもパンを食べるごとく、よみがえって永遠に生きるイエスのいのちが自分の中に入るのです。パウロはこのことを「キリストと一つになる」と語っています(ローマ6:5)。信じた人の中にイエスが入るというのは、まさに神秘としか言いようがありません。けれどもイエスが語るのだから真実なのです。
イエスを信じた者の内側にはイエスのいのちがあるから、肉体の死すなわち地上の人生が終わっても、イエスと同じようによみがえります。しかも、よみがえったイエスは天の御国に上り、そこで父なる神と共に生きています。つまり、イエスのよみがえりと昇天は、私たちがどんな姿でよみがえり、その後どこに行くのかを私たちに明らかにしているのです。さらに言うなら、よみがえりのイエスが自分の中におられるから、私たちは罪の誘惑を遠ざけて、神に従うという人本来のあり方に戻れるのです。
神は、人が罪ゆえに滅びてゆくのを望んでいません。そうではなくて罪を悔い改めて神に従って生きるのを望んでいます。言い換えれば本来のあり方に戻って、平安と喜びと満たしの人生に再び入って欲しいのです。そのため神はイエスというなだめの供え物をご自身がささげ、さらには信じる者をイエスと一つにしてくださいました。神に従いきれない私たちは神に対して何一つ誇れる者ではありません。ただただ神はあわれみによって何から何まで人のためにことを成してくださったのです。イエスのよみがえりも、私たちと一つになるのも、私たちをあわれむ神のわざであることを忘れずにいましょう。
Ⅲ.よみがえりによって、イエスは人と共に生きている
よみがえったイエスが弟子たちと再会したとき、イエスは槍に刺された脇腹の傷跡を見せました。驚くことにこの傷跡は手を差し入れられるほどの穴でした。人間の肉体ではあり得ないことです。それに加えて福音書には、よみがえりのイエスが不思議な仕方で部屋の中に現れたことが記されています。(ヨハネ20:19,26)ヨハネはわざわざ「戸に鍵がかけられていた」と書いています。これは、「入り口から入れないのに、イエスは姿を現した」ということを強調しているのです。弟子たちは捕まるのを恐れて、一つの家に集まり身を隠していました。その家の中で弟子たちがイエスのことを話している最中に、イエスは何と彼らの真ん中に現れました。どこからともなくひっそり入って来たのではありません。しかも目に見え、手で触れることのできる体なのですから、これは人とは違います。
つまり、よみがえりのイエスはドアや壁などをすり抜けたというよりも、自分の行きたいところに行ける体になっているのです。イエスは人として、すなわち人と同じ肉体を持って生まれました。だから、十字架で死ぬ前までは、歩いて移動し、ドアから入り、群集をかき分けて出てきました。しかし、よみがえった後のイエスは全てを超越した存在となっているから、神と同じようにどこへでも姿を現すことができるのです。
それゆえ、イエスはよみがえった後、天に戻る前に弟子たちにこう約束しました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」「ともにいる」とは空間的にも精神的にも一緒にいる様を言います。空間的とは場所を同じにすることであり、あたかも私たちの目の届く所にいるようなイメージです。また、精神的とは私たちと関わっていることであり、決して無関心にならないということです。
イエスは「永遠に生き、しかもどこにでも存在できる姿」を弟子たちに見せることで、この約束の確かさを弟子たちに明らかにしました。だから、私たちがどこにいたとしても、そこに現れてともにいて私たちに共感し思いやってくださるのです。「イエスがいつも共にいる」私たちにとってこれほど大きな安心はありません。これもイエスがよみがえったからできるのです。
■おわりに
イエスが死からよみがえって2000年たった現在も、イエスは生きておられます。だから、イエスを救い主と信じる者は、イエスによって永遠のいのちという新しい人に変えられ、新しい人生を送ることができるのです。同時に、よみがえりのイエスが私たちと神との間を取りなしてくださるから、イエスを通して神との対話ができるのです。「イエス様のお名前を通してお祈りします。」というのは、神の怒りが消えて何でも自由に語れる特権を意味しています。
イエスの十字架の死とよみがえりによって、イエスを信じる者は罪が赦され天の御国で完全な平安の中を永遠に生きます。それに加えて、この地上の人生においてもイエスを通して私たちは神の不思議な平安に包まれるのです。今も生きておられるイエスに賛美と感謝をおささげしましょう。
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