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木村太

4月18日「本当の盲目とは」(ヨハネの福音書9章24-41節) 

■はじめに

 新約聖書の福音書にはイエスがどういった者を受け入れ、どういった者に厳しくしていたかが記されています。例えば、イエスのことを素直に信じる子どもには手を置いて祝福しています(マルコ10:14-16)。反対に、イエスがこれから受ける受難をペテロが否定した際には、「下がれ、サタン。」と叱りました(マルコ8:32-33)。イエスはいつも「イエスに対する素直さ」を人に求めています。今日は、イエスについての事実を認める者と否定する者に対して、イエスはどのように応じているのかを聖書に聞きます。


Ⅰ.盲目だった者は事実からイエスが神の者だと認めたが、ユダヤ人は人物から事実を認めなかった(9:24-34)

 イエスを敵視するユダヤ人たちは、盲目だった人の両親が訴えた通り、本人に事情を聞くことにしました(24-25節)。


 「神に栄光を帰しなさい」とは、罪を告白させるためのことばですから、彼らは盲目だった者がまだウソをついていると思っているのです。なぜなら、イエスは戒律を守らない罪人であり、神のわざをなすなど絶対にあり得ないと頑なに信じているからです。何としてでも彼の口からイエスのわざではないことを言わせたいのです。


 ここで盲目だった彼は、自分に起こった事実をそのまま語りました。彼は目を開けた人物がどうであろうと事実は事実として認めています。ところがユダヤ人たちは「イエスのわざであること」が覆らないので、しつこく尋ねてきました(26節)。あまりのしつこさに彼は「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。(27節)」と皮肉を言います。


 このことばはユダヤ人のいらだちを怒りに変えました(28-29節)。「モーセの弟子」というのは、神から直接ことばを与えられたモーセの権威を自分たちは帯びている、という彼らのプライドです。だから罪人の弟子になるというのは彼らにとってたいへんな屈辱になるので、彼らはののしるのです。


 ののしりに対して盲目だった者は答えます(30-31節)。「何でも知っているあなたがたが分からないのですか」と彼は重ねて皮肉を言います。というのも、「たとえ人知の及ばないことだとしても、神を敬い神のみこころを実践している者のことばを神は聞いて実行する」これが当時の常識でした。ユダヤ人の議員であるニコデモもこう言っています。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。(ヨハネ3:2)」


 前回申しましたように「盲目で生まれた者の目を見えるようにする」のは神のわざしかあり得ない、とユダヤ人は認めています。同時に、神とともにいる者すなわち神に属する者でなければ、不思議なわざをできない、これも当時の常識であり、しかもニコデモのような立派な議員が認めています。それで彼は「あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。(32-33節)」と結論に至るのです。


 イエスに敵対する者たちは「イエスは罪人」という自分たちの考えを土台にしています。一方、盲目だった彼は当時誰もが認める原理と自分に起きた事実とを土台にしています。誰が見ても彼の論証の方が優っているのです。それでユダヤ人たちは「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。(34節)」と逆切れし、招いておきながら外に放り出しました。以前は道端で物乞いをしていた者に論破されたので、彼の素性に難癖を付けるのです。


 「生まれつきの盲目が見えるようになった」この出来事について当人とユダヤ人には大きな違いがあります。

・盲目だった者:事実から人物を判断

・ユダヤ人たち:人物から事実かどうかを判断

 盲目だった者は実際に起きた出来事をそのまま事実として認めています。だから、それを行った人を神と結びつけることができます。それとは反対に、イエスに敵対するユダヤ人たちは地位や血筋といった人物評価を基に見ていますから、自分の考えが事実よりも優先されます。だからどんなに証拠を積んでも認めません。明らかに、盲目だった彼が素直であり、これが信仰に進ませるのです。


Ⅱ.イエスは目の開いた者を「イエスを信じる信仰」に導いたが、否定するユダヤ人には罪を宣告した(9:35-41)

 さて、外に放り出された後に新たな展開がありました(35節)。イエスを認めない者たちとは対照的に、イエスはご自身の事実を認める者に自ら関わってきました。盲目だった彼は、身に危険が及ぶかもしれないのに、敵対者に対して妥協も迎合もすることなく「イエスは神からの者である」と主張しました。「目を開けた人に対する揺るぎない信頼」をイエスは彼の中に見たのです。


 それでイエスは「人の子」すなわち旧約聖書で呼ばれる救い主を信じるかどうかを尋ねました。これに対して彼は「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。(36節)」と答えました。彼はイエスという人が目を開けたのを確信し、その人を救い主と信じたいのです。けれども、未だイエスの姿を見てはいないので「その人はどなたですか。」と尋ねました。


 そこでイエスはこう言われました(37節)。イエスが「私が人の子です」と告げないのは、彼自身に気づいて欲しいのでしょう。目が開いた彼はイエスというユダヤ人を見てことばを交わして、「この人が目を開けてくれた神から出た人、人の子、救い主」と分かったのです。それで、彼は即座に「主よ、信じます」と答え、人であるイエスを救い主と崇めました(38節)。「神が人になるなどあり得ない」というユダヤ民族の常識の中にあって、イエスという人を人の子、救い主と信じるのは本当に驚きです。でも目が見えるようになった事実が確かにあるので、彼はイエスを人の子と信じたのです。


 ここでイエスは、イエスを信じた者とイエスを罪人としか認めないユダヤ人を前にこう言いました(39節)。盲目だった者はイエスによって目が見えるようになり、イエスを救い主と見ています。一方、ユダヤ人たちはイエスを見聞きしているけれどもイエスを救い主とは見えていません。つまり、「救い主がだれなのか分からないけれども必要としている者にはご自身が救い主だと知らせる」そして「自分勝手に救い主を分かっていると誇っている者には誤りであることを明らかにする」このためにイエスは地上に来られました。


 このことばを聞いてパリサイ人が言いました(40節)。彼らはイエスが自分たちも盲目のように見ていることに腹を立てているのです。これに対してイエスは、「もし、あなたがたが信仰的な盲目、すなわち神や律法やあるいは救い主について何一つ知らなかったなら罪はない」と言いました(41節)。でも彼らは『私たちは見える』、すなわち旧約聖書を学び神も律法も救い主もよく知っていると誇っていながら、真の救い主であるイエスを認めないから、イエスを遣わした神に背を向ける罪人なのです。これがイエスによるさばきなのです。


 イエスに敵対していたのはパリサイ人、律法学者、祭司といった宗教指導者が中心でした。彼らは神についての専門家を自負し、民衆に誇っていました。しかし、イエスによる事実を見聞きしても受け入れませんでした。「自分が正しい」という自己中心の罪によって目が閉ざされているのです。イエスはその罪をはっきりさせ、永遠の滅びという行く先を明らかにするのです。


 一方、盲目だった者はイエスによる事実をそのまま受け入れて、イエスを神から出た者・人の子・救い主と信じました。彼は「イエスが目を開けた」ただこの一点を事実と確信しているから、イエスの評判や素性に左右されず、さらにはユダヤ人たちの脅しにも揺るがないのです。盲目ゆえに罪人と見なされていた者が、まことの救い主を見つけ、罪赦されて永遠のいのちを得るのです。イエスのさばきは大逆転を人にもたらします。


■おわりに

「唾でこねた泥を目に塗って洗い流したら見えるようになった」このことをはじめ、聖書には現代の文明をもってしても説明できない神のわざ、イエスのわざが数多く出てきます。しかし、それらを事実と認められないのが人間の有り様です。なぜなら、善悪の知識の木から実を食べたことで、自分の考えや判断を最優先にする性質があるからです。それで、ユダヤ人たちが盲目を疑ったように、聖書に書かれていることがらを自分の考えに合わせるために都合よく解釈してしまうことがあります。


 ところが、盲人の目をイエスが開けたように、私たちにイエスが介入してくださったことにより、私たちは聖書を事実としてそのまま受け取るようにされました。閉ざされていた目が開けられたことで、天地創造もイエスの誕生もイエスのよみがえりも「そのとおり」と言えるのです。そして、事実を認めることがイエスを信じる信仰に至り、信仰から罪の赦しと永遠のいのちが与えられました。「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。(ヨハネ10:38)」イエスについてのすべてを認めることから永遠のいのちは始まるのです。

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