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  • 木村太

4月21日「神は悪を放っておくのか」(ハバクク書1章12-17節) 

■はじめに

 私たちは聖書から神のご性質を知ります。例えば、義、善、聖、愛、全知全能、永遠、不変、偏在、霊なる方といったことです。そして、イスラエルの歴史を通して、イエスの姿を通して、イエスを信じる人々の証しを通して、自分の経験を通して、「神のご性質が本当だ」という確信を深めてゆきます。ただし、神のことを知っているからといって、神が何をしようとしているのかはわかりません。ちょうど、親しい間柄であっても互いに心の全てを分からないのと同じです。今日は、神がご計画を果たしている途中では、理解しがたいことがある、このことをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.ハバククは「主の聖さと主のふるまいが矛盾している」と主に嘆いた(1:12-13)

 預言者ハバククはユダ王国が信仰的にも道徳的にも堕落の一途をたどっているのに、主なる神は何もしないと嘆き叫びました。その叫びに主は、残虐なカルデヤ人を用いてユダを滅ぼす、と告げました。このことばにハバククが応答します。

 

 「昔から【主】ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ」と主に呼びかけるように、「天地創造のときから主は聖なる方である」とハバククは信じています(12節)。さらに、「岩なる方よ」と呼んでいることから、主は決して揺るがず変わらないとも彼は信じています。それゆえ「私たちが死ぬことはありません。」と言えるのです。なぜなら、「あなたを見放さず、見捨てない」という永遠の契約をイスラエルの民は主と結んでいて、主はその契約を決して変更しないからです。

 

 また、主の聖さは変わらないことから、イスラエル民族が重大な罪を犯し続けていること、そして「彼を立てる」すなわちカルデヤ人を用いてイスラエルを懲らしめることをハバククは認めています。けれども、主は懲らしめではなくカルデヤ人によって滅ぼそうとしています。主との約束であれば「私たちが死ぬことはありません。」のはずなのに、そうならないからハバククはこのように主を疑います(13節)。

 

 ハバククは2つの疑問を主に訴えています。

①カルデヤ人の悪:「あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて」とあるように、「きよい目」すなわち聖なる主は悪を放っておかない、とハバククは信じています。なのに、裏切り者であるカルデヤ人の暴虐がそのままだから、ハバククは主を疑うのです。

 

②イスラエルの民の苦しみ:「苦悩を見つめることができないのでしょう。」は、直訳では「みじめをじっと見ることをあなたは耐えられない」となります。つまり、主は苦しんでいる者をかわいそうに思い放っておかない、とハバククは信じています。なのに、悪事において重いカルデヤ人が軽いイスラエルの民を破滅させ、苦しませているのを放っておいているから、ハバククは主を疑うのです。

 

 「聖さをはじめとする主の性質は岩のように不変だから、主に背き続けたイスラエルが罰せられるのは当然だ」とハバククは納得しています。その一方、「カルデヤ人が暴虐の限りを尽くして、神の民であるイスラエルを破壊するの」を主は放っておいています。それでハバククは「悪を放っておく」主のふるまいが主の聖さと矛盾していると見ているのです。「岩なる方」なのになぜ、という驚きと疑いしか今のハバククにはありません。「それが告げられても、あなたがたは信じない。(1:5)」と主が言われる通りです。

 

 私たちも目の前の出来事だけを切り取ると、主のふるまいを理解できず、疑いや怒りや失望を覚えることがあります。「私の目にはあなたは尊い」ではなかったのですか、と嘆くときもあるでしょう。イエスも父なる神のことをご存じでしたが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と十字架上で叫びました。

 

 「しかし自分の力を神とする者は、責めを負う。(1:11)」と主が告げたように、自分を神とする者は最後は主によって滅ぼされます。けれども、そこに至るまでには主の性質に反するように思えることがあるのです。まさにイエスの十字架はその頂点です。「なぜ主はこんなことを」と思いながらも、その背後にある主のご計画に目を向けることが大切です。

 

Ⅱ.ハバククは「主がイスラエルをあわれまず、カルデヤ人を祝福している」と主に嘆いた(1:14-17) 

 ハバククはなおも主の矛盾を言います。ハバククは、イスラエルの民を魚に、カルデヤ人を漁師にたとえて、主がどのように扱っているのかを訴えています(14-15節)。イスラエルの民は治める者がおらず右往左往して、強いものにやられっぱなしの魚や虫のようだと彼は見ています。その一方、「釣り針で釣り上げ、自分の網で引き上げ、自分の引き網で集め」とあるように、カルデヤ人は大漁の漁師のごとくイスラエルをたやすく占領し、人や物を一網打尽にします。「イスラエルの民は苦しんでいるのに、カルデヤ人は暴虐をやっても喜びにあふれている」ハバククはこのように見ていて主の聖さに不満をぶつけるのです。

 

 さらにハバククはカルデヤ人の悪を主に言います。「彼は自分の網に、自分の引き網にいけにえを献げ、焼いて煙にします。(16節)」とあるように、漁師が喜びと楽しみをもたらす網を神と扱っているように、カルデヤ人は天地万物の神ではないもの、そして自分たちの力を神として崇めています。しかも、崇めたことによって、ますます彼らの占領は広げられてゆきます。漁師が網にかかった魚をすべて外して、空になった網で再び漁に出てゆくように、カルデヤ人も人や土地、財産などのすべてを略奪して手に入れてから、再び新しい所へ略奪しにゆくのです(17節)。彼らの欲望は際限がなく、しかも主なる神以外のものを崇めることでその欲望は常に満たされています。

 

 その上、17節「諸国の民を容赦なく」の「容赦なく」は「あわれまない/同情しない」を意味しますから、彼らは人の命を奪うことに何のためらいもありません。人のものを奪って欲望を満たすことだけが彼らの生き方です。人の尊厳などどうでもいいのです。

 

 神と契約を結んだイスラエルの民は、カルデヤ人にやられっぱなしで恐怖と苦痛しかありません。一方、カルデヤ人は残虐さをもって略奪し、やりたい放題で喜びと満足でいっぱいです。この状況をハバククは主に嘆くのです。主に背き続けてきた自分たちが罰せられるのは納得できます。けれども、悪事においては自分たちよりもはるかにひどいカルデヤ人がそのままであり、喜び楽しんでいるのは受け入れられないのです。

 

 「喜び楽しむ/分け前が豊か/食物が豊富/網を空にしてから略奪へ向かう」ハバククからすれば残虐なカルデヤ人が主の祝福を受けているように見えるのです。聖さの主、あわれみの主、見放さず見捨てないと約束した主なのにどうして、という疑問が嘆きや怒りとともにハバククの口から出るのも当然です。「あなたは昔から【主】ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ(1:12)」ここにハバククの気持ちが込められています。

 

 現代の私たちもイエスを救い主と信じる神の民ですが、人生にはどうにもできない苦難があります。特に、理不尽な苦痛が長かったり深かったりするときは「主を信じているのに」という思いが起こります。と同時に、不正やいい加減にやっている人がのうのうと生きている様を見て、主への疑問や怒りが起きるものです。そのようなときはハバククのように嘆いても良いのです。主を信頼しているからこそ「なぜ」という嘆きが生まれるからです。ハバククの嘆きを主が聞いておられるように、私たちの「なぜ」も主は聞いておられます。

 

■おわりに

 神学者J.I.パッカーは神のふるまいについてこう言っています。

「神がご自身の真実を表現する方法は、私たちにとっては時々予期せぬものであったり、戸惑いを覚えるものであるように思える。通りすがりに見るような者にとっては、神は短期的には不真実のようにすら見えるかもしれない。(J.I.パッカー「聖書教理がわかる94章」より)」

 

 私たちは目の前の出来事だけを通して神を見ると、「神の聖さやあわれみは本当か」という疑いが生まれます。けれども、神は我が子イエスを十字架刑で死なせ、三日目に死からよみがえらせ、そののち天の御国へ引き上げました。「イエスを信じる者は死で終わるのではなく、天の御国で永遠に喜び楽しむようになる」この神のあわれみがイエスという事実によって証明されたのです。ですから、私たちは現状を嘆き苦しみながらも、滅びから救ってくださった神のあわれみを信じて生きてゆけるのです。

 

 「あなたは昔から【主】ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ(1:12)」こう嘆きながらも、悪者を羨まず、神の決して変わらないあわれみを信じ、永遠を見据えてこの世を生きてゆきましょう。

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