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木村太

4月23日「律法によるいけにえは不完全」(ヘブル人への手紙10章1-10節)

■はじめに

 いま私たちはどこでもいつでも神に向かって祈り願うことができます。エルサレム神殿といった場所も、動物や穀物といったささげ物も必要ありません。さらに言うなら、私たちは完全に神に従えない性質があるため、本来は神の怒りが恐ろしくて神の前には行けません。善悪の知識の実を食べたアダムとエバが神と顔を合わせるのを避けたように、私たちもできれば神の目から逃れたい存在なのです。しかしいまは不安も恐れもなく神に向かって口を開いています。そこで今日は、私たちがもはや神の怒りの対象ではなくなったことを聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.年一度の「なだめの日」そのものが、完全な罪の赦しになっていないことを示している(10:1-4)

 手紙の著者は律法による罪のきよめ、すなわち初めの契約(古い契約、旧約)は不完全で、その一方キリストによる罪のきよめ、すなわち第二の契約(新しい契約、新約)は完全と読者に教えました。なぜなら、キリストという完全な大祭司が、キリストのいのちという完全ないけにえを神に献げたからです。その上で著者は、「キリストによる罪のきよめは一度きり」という事実に焦点を当てて、新しい契約の完全さを強めてゆきます。


 すでに明らかにしているように「来たるべき良きもの(1節)」とは「キリストによる罪のきよめ、いわゆる罪の赦し」であり、そしてこの実物の影が「律法による罪のきよめ」になります。私たちは影から実物の輪郭や動きがわかりますが、本当の形や正確な動作はわかりません。それと同じように、律法による罪のきよめからキリストによる罪のきよめがある程度わかります。例えば、ささげ物と大祭司のような神と人との仲介者が必要といったことです。けれども実物である「キリストによる罪のきよめ」そのものは律法ではわかりません。


 ですから「年ごとに絶えず献げられる同じいけにえ」とあるように、年一度の「なだめの日」で代表される「律法によるきよめ」は実物ではない影に過ぎないから、神を礼拝しに来る人々の罪を完全にすることはできません。完全にするとは過去・現在・未来にわたって「見えるかたちの罪/見えないかたちの罪」を赦して、神がもう思い出さないことです。これが完全なきよめであり、神と同じ聖さになっているから、そのような者を10節では「聖なるもの」と呼んでいるのです。


 ここで著者は完全にできない理由を律法そのものから説明します。もし、年一度のいけにえで完全にきよめられるとしたら、罪を意識することはもうありません(2節)。言葉を加えるならば、罪による罰を意識しないから神の前に出ても罰を恐れません。毎日あるいは年一度のいけにえは必要なくなるのです。しかし、現実は誰一人いけにえを携えないで神の前に来て礼拝しません。それは「これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出される(3節)」とあるように、罪による罰いわゆる神のさばきを逃れたいから、すなわち罪を意識しているからなのです。


何かにたとえて言うならインフルエンザのワクチン接種といったところでしょうか。私たちはインフルエンザワクチンが数ヶ月の効果しかないことを知っています。だから、毎年流行る時期の前にワクチン接種を受けます。もし、小さい頃に一回打てば一生効き目があるならば、毎年打つ必要はありません。


 それゆえ「雄牛と雄やぎの血(4節)」が象徴する「律法による罪のきよめ」では、罪を取り除いてその人を赦すことに至らないのです。言い換えれば、毎日あるいは毎年定められていること自体が不完全を意味しているのです。


 ユダヤ人は「律法を完全に守れば神から義と認められて神の国に入れる」と信じています。その代表がキリストに出会う前のパウロです。それに対して、この手紙の著者は律法そのものを根拠として「律法による罪の赦しは不完全」と語ります。いわば「いくら守っても義と認められない」と言っているのと同じです。これは彼らが信じていることがらを根底からひっくり返すようなものです。


 一方で「律法・詩篇・預言書」に「キリストの生涯・十字架の死・よみがえり」を照らし合わせれば「律法の不完全とキリストの完全」をユダヤ人は気づけるはずでした (ルカ24:44) 。しかも、キリストによる罪の赦しの方がはるかに平安と希望を湧き上がらせるのです。けれども読者であるユダヤ人クリスチャンはそのことに目が開かれていません。だから著者はこのように解説するのです。「キリストを信じている者はすでに完全に罪が赦されている」この事実による安心を受け取って欲しいのです。


Ⅱ.人の罪を完全に赦すために、神ご自身がキリストといういけにえを献げてくださった(10:5-10)

 ここで著者は「律法ではなぜ罪を完全にきよめられないのか」を詩篇から証明します。著者は詩篇40篇6-8節を用いて「律法によるきよめとキリストによるきよめ」を解説します。ここでの「あなた」は神であり、「わたし」はキリストを指しています。


 キリストは「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで/全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした」と罪のきよめについて神のみこころを語っています(5-6節)。神はモーセに与えた律法で「いけにえ、ささげ物、全焼のささげ物、罪のきよめのささげ物」を定めました。ですから、「ささげ物を求めず、喜ばない」というのは矛盾しているように思えます。けれどもそうではありません。


 最初に申しましたように、神は「キリストによるきよめ」を与えるための備えとして、その影である律法を与えました。そののち「わたしに、からだを備えてくださいました。(5節)」とあるように、キリストを人のからだとして誕生させて、十字架刑で死なせました。つまり、神は律法を否定しているのではなく、キリストによる罪のきよめの時が来たことを明らかにしているのです。時至って今必要なのは、キリストといういけにえ、いわばキリストの血が必要なのです。そして7節にあるように、キリストは神のみこころに従い十字架刑で死にました。「巻物の書」すなわち旧約聖書に書かれてあった通りのことがキリストによって実現しました。イザヤ書53章はその代表です。


 この詩篇について著者はこのように解釈しています。「第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。(9節)」とあるように「罪をきよめて赦す」という点においては、不完全だった律法の時代が終わって完全なキリストの時代がやってきました。その証拠が罪のない神の子キリストが十字架で死んだ事実です。動物のいけにえでは絶対に成し遂げられなかったことが、キリストといういけにえで成し遂げられました。


 ここで著者が言いたいのは、律法の善し悪しではありません。それが10節のことばです。キリストが十字架で死んだことにより、罪を赦すためのキリストといういけにえが神に献げられました。つまり、キリストによる罪のきよめが発動し、律法による罪のきよめが終わったのです。


 ただし、このことはユダヤ人クリスチャンにとって残念ではありません。これまで絶対に得られなかった罪の赦しを、キリストによってすでに受けたからです。イエスはユダヤ人にこう言いました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」ユダヤ人は罪人に定められるのを恐れて律法を一生懸命守っていました。それで律法を守ることに疲れながらも、律法という重荷から解放されませんでした。しかし、いまやキリストという完全ないけにえがささげられたことにより、イエスを信じる者は罪が完全に赦されました。もう罪人とか、神の罰を恐れなくてもよいのです。その上、律法による規定は廃止されているから、どこででもささげ物なしで神の前に出られるのです。律法の時代よりもキリストの時代の方がはるかに安心できるのです。


 律法の時代は幕屋や祭司、ささげ物など目に見える形でしたが不完全でした。一方、キリストの時代はキリストのとりなしも罪のきよめも目には見えません。けれども、預言書やキリストのことばにあるように、罪は完全に赦されています。「私たちは聖なるものとされています。」とあるように、キリストという一度のいけにえによって、キリストを信じる者は神の所有となっています。だから安心して神に祈ることができ、そして天の御国という神の永遠の資産を受け取れるのです(9:15)。


■おわりに

 神の子キリストといういけにえによって、私たちは完全に罪を赦されました。それは私たちの努力とか神への強い訴えの結果ではありません。私たちはどんな手段をもってしても自分の奥底にある罪を取り除くことはできません。だからすべての人が例外なく永遠の滅びに定められています。しかし神はそんな私たちをかわいそうに思い、ご自身の子であるイエス・キリストをいけにえとして献げてくださいました。これが人知を越えた神のあわれみです。


 かつて律法の時代では、罪を赦してもらうためには「エルサレムに行く」という時間的肉体的犠牲、「ささげ物」という経済的犠牲を払わなければなりませんでした。けれども、キリストの時代において私たちは罪を赦してもらうために何一つ犠牲を払っていません。ただキリストを救い主と信じるだけです。犠牲を払ったのは神であり、私たちの代わりに計り知れない苦痛を味わったのはキリストです。このあわれみに与って私たちは罰を恐れることなく、かえって安心して神の前に出ているのです。

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