■はじめに
日本語に「開眼(かいがん/かいげん)」ということばがあります。スポーツや芸術の世界で「あることを悟ったり、真理を見出した」時に「開眼した」とよく言いますね。私たちも神の働きによって開眼したので、イエスという約2000年前の外国人を救い主と信じています。単なる歴史上の人物と見ていたのに「私を天の御国に入れてくださるお方」と見るようになりました。では、目が開かれたあとイエスと私たちの関係はどうなっているのでしょうか。そのことを今日は「羊の群れと牧者」のたとえから見てゆきましょう。
Ⅰ.イエスを救い主と信じた者は、イエスという門を通ってイエスの所有する群れに加わり、イエスに養われる(10:1-10)
生まれつき目の見えない人はイエスによって見えるようになり、その事実ゆえにイエスを人の子救い主と信じました。一方、イエスに敵対するユダヤ人たちはいまだイエスを罪人と見なし、盲目だった人をののしりました。そこでイエスは「イエスを信じること」において、目が開いた者、盲目の者、そしてイエスご自身の関係を「羊の群」というたとえで語ります。
イエスはご自身を救い主と信じる者を羊にたとえ、羊の群れに2種類の人が入って来ると言います(1-2節)。
①羊を盗む者たち:10節にあるように、彼らは羊を盗んで自分の所有にしたり、殺して利用するために囲いにやって来ます。当然、門番は開けないので不正な方法で中に入り群れを散らして盗んで行きます。
②牧者:羊飼いとも呼ばれる牧者が自分の所有する羊を世話します。牧者なので門番が入り口を開けてくれます。当時、牧者は自分の羊に名前を付けていたので、一匹一匹名前を呼んで囲いの外に連れ出し、水や牧草の場所に群れを導きます(3-4節)。
羊の囲いにやって来て連れ出すという点では両者とも同じです。でも目的は正反対です。盗人は自分の欲を満たすために羊を用います。一方、牧者は羊のために自分を用います。それゆえ、羊の扱いが全く逆なので、羊は牧者の声に従いますが、盗人といったそれ以外の者にはついて行きません(5節)。羊は誰が自分を大切にしているのかをちゃんと分かっているのです。
イエスと盲目だった人、そしてイエスに敵対するユダヤ人、この3者のふるまいを理解しているならば、たとえに出てきたものが誰を指しているのか分かるはずです。けれども「彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。(6節)」とあるようにユダヤ人は目が開かれていないので全然分かりませんでした。そこでイエスが説明を加えます(7-10節)。
「わたしは羊たちの門です/わたしは門です。」と重ねて語っているように、「イエスを救いと信じる」この門を通った者がイエスという牧者の所有となります。そして囲いの中に入った羊は牧者によって牧草や水を与えられて生きることができます(9節)。それと同じように、イエスを信じる者はイエスによって滅びを免れて永遠のいのちを与えられ、地上の人生では何にも代え難い平安を与えられます(10節)。盲目だった人はイエスという門を通って、イエスの群れに加わったのです。
一方で、イエスの前に来た者(8節)、すなわちイエスがこの世に来られる前から活動していた宗教指導者たちは盗人、強盗にたとえられています。彼らは民衆を指導し、助けているように見えますが、実情は人を食い物にしていました。民衆が彼らを崇め仕えることで彼らの地位や立場が成り立っているからです。盲目だった人への言動から明らかなように、彼らは盲人を罪人と定めて助けようとしません。しかも、「イエスを信じた事実」から彼を引きはがそうとしました。まさに、囲いを乗り越えて羊を奪う強盗なのです。
私たちもイエスという門を通ってイエスの所有する群れに加わり、イエスによって心身が養われています。ただし、盗人がいなくなったわけではありません。迫害や差別、いやがらせなどイエスを信じる群れから引き離そうとする勢力があります。あるいは金銭や地位、権力のようにイエス以外に幸せや安心を求める力、いわば私たちの内側にも盗人がいるのです。イエスが牧者として私たちを護ってくださるのは本当に喜びです。と同時に、「盗人から身を守るためにイエスの声を聞き分ける」これが私たちに求められています。
Ⅱ.イエスは信じる者すべてを知っていていつも心にかけ、守るためにいのちを捨てる(10:11-21)
ここでイエスはもう一つのたとえを語ります(11-13節)。良い牧者の「良い」は「非の打ち所がない/完璧」を言います。完璧な牧者は狼のような猛獣が襲ってきても自分の羊を守ります。たとえそれでいのちを落としてでもです。羊の持ち主ではない雇い人は、自分の身を真っ先に守るために羊を残して逃げますが、良い牧者は決して逃げません。彼は常に羊たちのことを第一にしているからです。
さらに「わたしはわたしのものを知っており(14節)」とあるように、良い牧者はすべての羊を把握していて見落とすことがありません。そのようにイエスも「命が狙われている」のを承知の上で救いを必要としている人のところへ行き助けます。目が見えるようになった人の所へは自分で彼を捜しに行き、ご自身が救い主であることを明らかにしました。あるいはマタイやザアカイのときは彼らが名乗っていないのに、ご自身から名前を呼んで彼らを迎え入れました。
イエスにとって地上での活動が、すでにいのちを捨てていて、その頂点が十字架での死なのです。反対に羊を見捨てて自分のことだけを考えていたのがパリサイ人や律法学者たちです。彼らは神からユダヤ人を託されていたにもかかわらず、自分たちの地位や権威を守るために必死で、しかもユダヤ人からイエスを排除しようとしました。先ほど申しましたように、イエスは人のために自分のいのちを与えますが、宗教指導者たちは自分のために人を用いるのです。
ただし、イエスが所有する羊はこの時代のユダヤ民族だけではありません。それでこう言います(16節)。「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、血筋的にはユダヤ民族以外の者すなわち異邦人であり、時間的にはこの時代以外すなわちイエスが再び来られるときまでの期間となります。だから、イエスを信じるという門を通った者、言い換えればいのちを捨てたイエスを信じる者は、イエスが牧者である群れに属しているのです。イエスの時代からどのくらいの人がこの門を通ったのかはわかりませんが、私たちもイエスの群れに加えられていています。そしてイエスはすべての人をご存じであり、一人一人の名を呼ぶのです。
ここでイエスは羊のためにいのちを捨てる理由を語ります(17-18節)。「わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」とは、ご自身が十字架で死ぬ立場であり、死からよみがえる立場であることを言います。これが父なる神の命令つまり神のみこころだから従うのです。神は羊のように愚かで弱く迷いやすい人間を放っておかず、人間が安心してこの地上を生きて天の御国に行けるために、イエスを牧者として与えました。しかも牧者であるイエスが人間の受けるべき罰を代わりに受けてくださいました。それが十字架での死であり、まさに良い牧者は羊のためにいのちを与えたのです。
ところで、イエスの話を聞いていたユダヤ人はこのたとえを分かったのでしょうか。ヨハネはこう書いています(19-21節)。羊の話もよく分からないのに、「わたしには、いのちを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」と言うので、多くの人たちは悪霊によって気が変になったと見なしました。その一方で、「盲人の目を開けた事実があるのだから、悪霊ではない」と見る人たちもいました。いずれにしても、ユダヤ人たちはたとえが何を言っているのかわかりません。いまだ盲目のままなのです。
「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」「わたしには、いのちを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」この時点でユダヤ人がこのことを理解できないのは当然と言えます。なぜならこれから起きることがらだからです。しかし、十字架とよみがえり以降の私たちは、これらのことばが現実となったことを知っています。この事実のゆえに、私たちはイエスを牧者とする群れの一員となっているのを確信できるのです。そして今もイエスが名を呼んで連れ出し、いのちを養ってくださっているのを確信できるのです。
■おわりに
「羊は牧者の声を聞き分ける/彼の声を知っている」とあるように、私たちはイエスの声なのか盗人の声なのかを聞き分けることができます。具体的には神のことば、イエスのことばである聖書に聞き従う、となります。ある場合には「盗んではならない」のようにはっきり示されていることもあるでしょう。また、ある場合には「神を愛し人を愛する」という原則に照らし合わせることもあるでしょう。
ただし、「イエスの声に従うこと」=「自分の望んでいること」とは限りません。羊が行きたい所と牧者が目指す所が同じでないように、「これをやるんですか」と疑問を持ったり、「これはいやです」と葛藤したり逃げたくなるときもあります。けれども牧者であるイエスが導く所こそが、私たちに安らぎと喜びを与えるのです。イエスはいのちを捨てるほどに私たち一人一人を大切にしています。だから安心して良い牧者であるイエスについて行けるのです。
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