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4月27日「神が求める悔い改めとは」(ゼカリヤ書7章1-14節)

  • 木村太
  • 4月27日
  • 読了時間: 7分

■はじめに

 ルカの福音書を見ると、イエスはパリサイ人と取税人の祈りの姿を通して、神の前の正しさを教えています(ルカ18:9-14)。パリサイ人は律法と呼ばれる細かな規則を自分がきちんと守っていることを神に訴えました。いわば自分の正しさを神に認めて欲しいのです。一方、取税人は神に顔向けできないほど、自らの罪深さを自覚して嘆き、神のあわれみだけを求めました。この両者のうち、神は取税人を正しい者と認めました。人が正しいかどうかは本人や周囲の者が決めることではなく、神の判断だからです。今日は、イスラエルの民の悔い改めの姿から、神が求める悔い改めについてみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.イスラエルの人々は断食の形式を重要視し、表面的な悔い改めとなっていた(7:1-7)

 主なる神は大祭司ヨシュアの戴冠という預言を告げた後、しばらくして再びゼカリヤにことばを告げます(1節)。八つの幻とヨシュアの戴冠はダレイオス王の第2年ですので、それから約2年が経っています。ただし、今回の預言はある出来事がきっかけになっていて、それが2-3節に記されています。

 

 バビロン捕囚から戻って来た人たちの中には、ベテルに戻った者がいました(エズラ2:28)。彼らは、「【主】の御顔」すなわち主のみこころを求めるために、エルサレム神殿に仕えている祭司や預言者へ使節団を派遣しました。神殿の祭司や預言者であれば主のみこころをよくわかっていると見ていたからです。使節団が祭司たちを通して主に聞こうとしていたのは「第五の月にも断食をして泣くこと」でした。断食をして嘆いて涙を流すというのは、主への悔い改めを目に見える形で表す行為です。ここで「第五の月にも」とあるように、彼らにはこの質問に至る経緯がありました。

 

 モーセに与えられた律法によれば、断食は第7の月の十日です(レビ16:29)。ただ、イスラエルの民は捕囚期間中に、自分たちの敗北とエルサレムの復興を覚えるために日を増やしていました。それが第五の月です。ところが、捕囚からちょうど70年目となり、預言通りエルサレムに帰還し、新しい神殿も出来上がりつつあるので、彼らは「嘆きの断食はもう必要ないのでは」と考えていたのです。つまり、彼らの断食は「自らの罪を悔い改める」という動機から出ているのではなく、神の恵みを求める手段にすり替わっていたのです。ちょうど、苦しみからの解放を願って朝昼晩と必死に祈っていたのに、幸せになったら「もう祈らなくてもいい」と思うようなものです。

 

 この求めに対して主はゼカリヤに答えました(4節)。なぜなら、祭司や預言者は主のみこころをわかっていないからです。それが次のことばに表れています(5-6節)。主がイスラエルの民に加えて祭司に告げるのは、宗教指導者として彼らこそが真(まこと)の悔い改めを身に着けて欲しいからです。主は、70年の捕囚期間やっていた「断食と嘆き」という悔い改めが本当に主への悔い改めなのか、と強く責めています(5節)。6節にあるように、自分たちの益のための断食、すなわち、主の心を動かして主に願いを叶えてもらうための断食になっているのではないかと、彼らを追及します。「バビロン捕囚から解放されたら第五の月の断食は必要ないのでは」という質問は、まさにこのことの証拠です。

 

 「自分の益のための断食、悔い改め」これについて主はさらに語ります。7節「エルサレムとその周りの町々に人が住み、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき」はユダ王国が平和で繁栄していた時期を指します。主はこの時期から、「悔い改めなければ滅ぶ」という警告を預言者を通して何度も発していました。しかし、祭司をはじめとしてイスラエルの民は主の警告に従わなかったので、バビロニアによって滅ぼされました。そして、彼らは苦難に陥ってから主に嘆き助けを願います。ちょうど「苦しい時の神頼み」のように、自分たちの都合のために主を頼ったのです。

 

 主は「従えば祝福、背けばのろい」という約束をしました。ですから、主は背きを放っておいても良いのです。けれども主はイスラエルの民が苦しみにあって欲しくないから警告を発します。これが主のあわれみです。このあわれみを知った時点で、人は自らの背きの罪を自覚し、悔い改めて主なる神に従う歩みをしなければなりません。悔い改めは神を動かすための手段ではないのです。

 

Ⅱ.神の求める悔い改めには「神への従順」が伴い、これに反する者に神は怒りを下す(7:8-14)

 続けて主はイスラエルの民がすべきことをゼカリヤに告げます(8-10節)。主は3つのことを命じています(9-10節)。

 

①真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ:誰に対しても神の正しい行いや判断をなし、互いにいたわる。自分の判断や感情に左右されず、神の正しさやあわれみを実践する。

 

②やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな:虐げられても仕返しできない者、施しを受けてもお返しできない者、こういった弱い立場の者を暴力的に支配したり、だまし取ったりしない。人を自分のために利用しない。

 

③互いに対して、心の中で悪を企むな:悪は心から生まれるから、その源を正しくする。自分の欲望を満たすために人を苦しめる思いを断つ。

 

 ベテルの者たちが知りたかったのは断食と言う悔い改めでした。しかし、主が命じているのは、主の聖さや正しさ、あわれみの実践です。3節「断食」は「聖別」とも訳され、自分自身を神の所属とすることを言います。神の所属なのですから、神のことばに従うのです。「悔い改め」は「主に向きを変える(主に帰る)」ことですけれども、単に自らの罪を嘆いて、罪を犯さない決意だけではありません。自分の思いを優先するのではなく主のことばに従うのが、まことの悔い改めなのです。

 

 ここで主は真の悔い改め、すなわち主に従わなかった歴史を語ります(11-12節)。エルサレムに戻って来た人々の父祖たちは、従わないだけでなく、主のことばを拒否し、聞く耳さえ持ちませんでした。金剛石と呼ばれる火打石のごとく心を頑なにして、御霊によって語られた主のことばそのものを退けたのです。ここには彼らがなぜ聞き従わなかったのかを記してはいませんが、エレミヤ書を見ると「自分たちは神の民だから大丈夫」という高慢があったのです。

 

 それゆえ主は彼らを激しく怒りました。14節にあるように、「慕わしい国」である神の国イスラエルはアッシリアやバビロニアによって滅ぼされ、荒れ果てた土地になりました。イスラエルの民は風に吹き散らされるごとく、彼らを滅ぼした国々に囚われてゆきました。その最たるものがバビロン捕囚です。しかし、「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない(13節)」とあるように、そうなったのは主に非があるのではなく、あくまでもイスラエルの民が主のことばを拒んだからです。

 

 主はイスラエルの失敗の歴史を通して、真(まこと)の悔い改めをはっきりと命じます。彼らが主の栄光をこの世に現わすだけでなく、彼らが父祖たちのような苦難を歩んで欲しくないからです。むしろ、彼らが主の民としてふさわしく生きることで、彼らが祝福の道を歩んで欲しいのです。イスラエルがどれほど背いても主は彼らを見放さず、見捨てません。ここに主のあわれみがあります。

 

■おわりに

 バビロン捕囚からエルサレムに戻ったイスラエルの人々は、神殿を再建しようとしたものの周囲の敵から妨害されました。その上、奇跡のような神の助けもないため、彼らは神への信頼を失いかけていました。そんな中、神はゼカリヤを通してこう約束しました。「万軍の【主】はこう言われる。わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる。(1:3)」イスラエルが悔い改めて神に立ち返れば、神はイスラエルに戻ってきて祝福するのです。そして主はこの約束の直後から、八つの幻と大祭司ヨシュアの戴冠という預言によって「メシアによる神の国完成」このすばらしい祝福を明らかにしました。本来、イスラエルが滅んだのは彼らの背きが原因ですから、7章のような悔い改めと背きの罰だけを告げても良いのです。けれども、神はそうせずに、まず「私が帰る」ことを告げたのです。「不安や恐怖を強調するのではなくて、喜びや楽しみをまず約束する」このあわれみのゆえにイスラエルは悔い改めて神に従おうとなれるのです。

 

 現代の私たちもこれと同じです。本来、私たちはいくら嘆いても、やめようとしても、自らの力で罪をなくすことはできません。神の激しい怒りしかないのです。しかし、神はそんな私たちをかわいそうに思い、全く悔い改める必要のない我が子イエスを十字架にかけて、私たちへの怒りをイエスに負わせました。それゆえ、私たちは怒りを免れて天の御国に入ることができます。イスラエルの民と同じように、私たちにもまずイエスによる救いがあるから、私たちは主に向きを変えて主に従うことができるのです。怒りを免れるための悔い改めではなく、我が子を犠牲にするほどあわれんでくださっているからから悔い改めて神に従う、これが神の求める真(まこと)の悔い改めです。

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