■はじめに
日本には国が認定する資格がたくさんあり、その資格を取得した人に与えられるのが免許です。そして免許には一度交付されたら生涯有効なものと数年毎に更新手続きが必要なものとがあります。例えば医師や弁護士などは更新不要ですが、自動車運転やケアマネジャーなどは有効期間があります。ただし、犯罪によって資格の制限や剥奪、再取得禁止などが定められていますから、免許を持っているからといって何をしても良いのではありません。では、キリストを信じた者に与えられる罪の赦し、天の御国に入る約束には有効期限とか取り消しはあるのでしょうか。今日は、キリストによる罪の赦しがどれくらい効力を持つのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.キリストはご自身のいのちをただ一度ささげた後、神の右に座した(10:11-14)
手紙の著者はキリストによる罪の赦しは、キリストといういけにえゆえに一度で完全だと語りました。律法では不完全だった罪の赦しがキリストによって完全となったから、今や律法に則った赦しのための礼拝は必要ありません。それをふまえた上で、著者は祭司の勤めという視点から罪の赦しを解説します。なぜなら、律法において罪の赦しには、いけにえとそれを神に献げる祭司が必要だからです。
著者はいけにえの時と同じように律法とキリストを対比させて、キリストの完全さを強調します。律法では、祭司が聖所で所定のいけにえを定められた手順どおりに神にささげます。ただし、毎日あるいは毎年するように定められていること自体が、これらの儀式では人の罪を完全に取り除く、言い換えれば神からすれば罪を完全に赦すに至らないことを明らかにしています(11節)。繰り返し罪を犯すことが前提だから毎日あるいは毎年の規定があるのです。
一方、キリストについて著者はこう言います。キリストはご自身のいのちという一つのいけにえを神にささげて大祭司の務めを果たしました(12節)。キリストといういけにえとキリストという大祭司による罪の赦しが完全、すなわち目には見えない人の内側にある罪をも赦すから、神はただ一度の儀式で完了と認めました。それでキリストは「ご自身という一つのいけにえ」をささげた後、神の右に座すことができるのです(12節)。そして「敵がご自分の足台とされる」とあるように、キリストに敵対する勢力がすべて足で押さえつけられ活動を終える時、いわゆる世の終わりまで神の代理として天からこの世を治めているのです(13節)。
著者が対比させているように、レビ族の祭司は毎日罪の赦しのために立って働いていますが、キリストは一度だけの働きでその後は神の右に座っています。もう立って働く必要はないのです。ですから「一つのささげ物によって永遠に完成された(14節)」と断言できるのです。つまり、キリストによる罪の赦しはこのような効力を持つのです。
①程度:目に見える悪に加えて人の内側にある目に見えない罪を過去・現在・未来に亘って赦す
②有効期間:世の終わりまで不変。更新とか取り消しはない。
「キリストといういけにえ、キリストという大祭司の働き」これらによってキリストを救い主と信じる者は完全に罪を赦されています。しかも、この赦しは世の終わりまで変わりませんから、やがて来る最後の審判では無罪がすでに確定しています。だから、天の御国に入れることがすでに確定しているのです。それゆえ、私たちは「これをやったらわざわいが来るだろうか/天の御国は取り消されるだろうか」といった不安や恐れはありません。私たちは神の顔色を伺いながら生きるのではなく、我が子キリストを犠牲にしてくださった神に感謝し神の喜びのために安心して自由に生きることができるのです。
Ⅱ.キリストといういけにえと祭司が信じる者を聖なる者に変えたから、もう罪をきよめる儀式は必要ない(10:15-19)
ここで著者は「一つのささげ物によって永遠に完成された」ことを旧約聖書から説明します。神は聖霊を通してご自身のみこころを聖書記者に書かせました(15節)。特にここでは預言書のエレミヤ書をを引用していますから、まさに神のことばそのものです。つまり、著者は「ただ一度で完全かつ永遠の赦し」というのが単なる持論ではなく、このことは神のみこころだと言いたいのです。
著者はエレミヤ書31:33-34から罪の赦しを語っています。「これらの日の後に」とあるように、律法による契約の時代のあと、新しい契約すなわちキリストによる罪の赦しの時代がやって来ます(16節)。神はキリストを救い主と信じた者に「わたしの律法」を与えます。「わたしの律法」とはキリストが教えたように「神を愛し、人を愛する」ことを指します。違う見方をするならば、神が息を吹き込んで人を生き物にしたように、神に完全に従うことと言えます。
初めの契約では、神は目に見える文字や耳に聞こえることばとして律法をモーセを介してイスラエルの民に与えました。いわゆるモーセの律法と呼ばれるものです。一方、新しい契約では「心に置き、思いに書き記す」とあるように、人は神が与えた「わたしの律法」を見たり聞いたりはできません。けれども、心に置かれ思いに書き記されていますから、その人の感情や判断や意思に作用します(16節)。自分の意志にかかわらず「神を愛し、人を愛する」思いが押し寄せてくるといったイメージです。
つまり、キリストによる罪の赦しでは、その人を生かしている源に「神のみこころ」が据えられているのです。だから罪の誘惑を断ち切って、神のみこころに従って生きることができるのです。キリストはこのことを「新しく生まれた」と言っています(ヨハネ3:3)。神はキリストを信じる者の罪をキリストに負わせ、さらにその人の奥底に神のみこころを据え置いて、その人を罪ではなく神のみこころに生きる者としたから、17節のように以前のものを取り扱いません。
神ご自身が、キリストによって罪赦された者の罪を決して思い起こさないと語りました。しかも、その人の心に「神と人を愛する」という神のみこころを置きました。それゆえ、18節「罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。」とあるように、罪を赦してもらう儀式は不要なのです。
ユダヤ人クリスチャンはキリストを信じたゆえの迫害を受けています。一向に収まりはしません。ある者は、律法に則って祭司といけにえによる礼拝をしていないから神のさばきが下ったと考え、元のユダヤ教に戻ろうとします。人はだれでもわざわいを逃れるために儀式のように目に見える形のものに安心を得ます。しかし著者はキリストのいのちというただ一度のささげ物で完全に永遠に罪は赦されていると語ります。もう罪や汚れによる神のわざわいはないから、以前の律法に基づいた儀式に戻る必要はないのです。律法では得られなかった完全で永遠の安心をすでに受けているのです。
■おわりに
「わたしの律法を彼らの心に置く/もはや彼らの罪と不法を思い起こさない/もう罪のきよめのささげ物はいりません」これらのことをパウロはキリストとの関係からこう語っています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」キリストを信じる者はキリストと結びついています。神のみこころそのものであるキリストが私たちの内に住んでいるから、私たちは罪がない者と認められています。
ただし忘れていけないのは私たちの功績で罪の赦しを得たのではない、ということです。前回も申しましたように、「罪を犯さないように努力している/人助けをたくさんしている」といった私たちの考えや行動で、神は罪を赦したのではありません。私たちがどんなことをしても神の聖さには届かず、どんなことをしても滅びを免れないのを神はかわいそうに思い、我が子キリストのいのちをささげ物としました。そしてキリストは神のみこころどおり十字架刑で死に私たちの身代わりとなりました。私たちは罪を完全に永遠に赦されたために、最後の審判では無罪となり天の御国に入れます。ただただ神のあわれみしかありません。だから私たちは罰を赦してもらうための不安と恐れが混じった礼拝ではなく、感謝と安心と喜びを持って神に礼拝するのです。
Commentaires