今日はキリストのよみがえりを記念するイースター礼拝です。今の曜日で言うと、キリストは金曜日の夕方に十字架刑で死にました。ここでローマ兵はキリストの体を見て、もし生きていたら脚(すね)を折って死を早める手はずでしたが、すでに死んでいたので折りませんでした。また、アリマタヤのヨセフやニコデモもキリストが死んだのをその目で確かめたから、仮の埋葬の用意をしました。キリストは間違いなく死んでいたのです。そして日曜日の朝、マグダラのマリヤたちが正式な埋葬をしようと墓にやって来た時、墓を封印していた大きな石が転がされていてキリストの遺骸は無くなっていました。さらに、驚いている彼女たちに御使いが「キリストは以前語っていたようによみがえった」と告げました。これがよみがえりの出来事です。キリストのよみがえり(復活)は私たちに多くの真理を明らかにしています。例えば、神から義とされた者は死を勝利すること、キリストのことばはすべて正しいということ、キリストは初穂ということなどです。その中で今日は、よみがえった後の出来事を通して、キリストは今私たちとともにいることを見てゆきます。
Ⅰ.よみがえったキリストは「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と語った(マタイ28:20)
キリストは十字架刑によって確かに死に、親しい者たちの手によって墓に埋葬されました。そして死んでから三日目の早朝よみがえり、その後弟子たちにご自身の姿を現しました。さらに彼らと約40日間一緒にいた後、神のおられる天に引き上げられました。ここで、よみがえったキリストは弟子たちにこう語っています。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」
「見よ」には「さあ、覚えておきなさい」という気持ちが込められていて、これに続くことばの大切さを現しています。「ともにいる」ことをとにかく伝えようとしたかったからでしょう。ここには大きく3つのことがらが示されています。
①あなたがたとともにいます:「ともに」とは「空間をともにする/実際に傍らにいる」を意味し、キリストが助け、支える目的で現実に傍らにいることを現しています。また「あなたがた」とあるように、複数の人に同時にいることができます。
②いつも:片時もそばを離れることはありません。
③世の終わりまで:キリストが再びこの地上に来られた後、この世は滅び新しい天と新しい地が造られます。ですから、この世がある限りともにいてくださるのです。
明らかなように、もし、人間の肉体のままでよみがえったのなら、こんなことは絶対にあり得ません。つまり、よみがえりというのは、死体の蘇生ではなく、もとの人間のからだが全く別のものに造り変えられたことなのです。キリストは2000年以上すべてのクリスチャンに同時に、常に一緒にいることのできるからだによみがえりました。だからキリストは弟子たちにこのことばを約束できるのです。
Ⅱ.キリストは人間とは全く異なる新しいからだとなった
(1) キリストのもとの体は消えた(ヨハネ20:6-7)
では本当にキリストはそのようによみがえったのでしょうか。福音書にはその証拠がちゃんと記されています。
ペテロはマグダラのマリヤからキリストの体がなくなっているのを聞いて、墓を確かめに行きました。そこで彼は、遺体を巻いた亜麻布と頭に巻いた布だけがあるのを目にしました。死んでからまだ3日目ですから、遺体が朽ち果てていることはあり得ません。また、頭に巻いたまま残っているのですから、誰かが布をほどいて遺体を持ち去った、というのも不自然です。それで、ペテロは包まれていた遺体だけがすっぽりとなくなった、と理解したのです。遺体だけが消えたというのは、私たちと同じちり、すなわち地上の物質から造られたからだをキリストはもう持っていないしるしです。
(2) キリストは人間の肉体と同じではなくなった(ヨハネ20:25,27)
トマス以外の弟子たちは、よみがえったキリストにすでに会ってキリストのよみがえりを信じました。一方、居合わせなかったトマスは、見ただけではなく実際にさわらなければ信じない、と言いました。彼は両手に釘の跡を見て、そこに指を入れて、さらに槍で刺された脇腹の傷跡に手を入れて初めて信じる、と主張したのです。「脇腹に手を差し入れる」というくらいですから、キリストの脇腹には相当大きな穴が開いていたのでしょう。
その8日後、キリストはトマスの前に現れて彼にこう言いました。(ヨハネ20:27)キリストは、トマスが満足できるような傷跡を持っていたから、自信を持って彼にそのように言えたのです。ということは、キリストの手には指を入れられる程の穴が開いていて、さらに脇腹には手を差し入れられる大きさの穴(裂け目)が実際にあったのです。こんな穴が開いている状態で8日間も生きているというのは、人間の肉体ではあり得ません。
つまり、キリストは人間の形となって実際に姿を現してはいますが、その肉体は人間とは全く別の性質を持っているのです。私たちのように病気やケガに弱い肉体ではありません。だから、キリストは「世の終わりまで」存在できるのです。
(3) キリストはどこにでも現れることができる(ヨハネ20:19,26,ルカ24:36)
福音書にはよみがえりのキリストが不思議な仕方で部屋の中に現れたことが記されています。ヨハネはわざわざ「戸に鍵がかけられていた」と書いています。これは、「入れない状態なのにキリストは姿を現した」ということを強調しているのです。
さらにヨハネは「彼らの真ん中に立ち」とも記しています。弟子たちがキリストのことを話している最中に、キリストは何と彼らの真ん中に現れました。徐々になのかなのかパッと現れたのかは分かりません。けれども、とにかくキリストは彼らが集まっているその中に立ちました。どこからともなく人をかき分けて入って来たのではないのです。
つまり、よみがえりのキリストはドアや壁などをすり抜けたというよりも、自分の行きたいところに行けるのです。今やキリストにとって距離あるいは物体の存在は何ら意味がない、いわば行動の妨げにはならないのです。キリストは人として、すなわち人と同じ肉体を持って生まれました。だから、地上の人生においては歩いて移動し、ドアから入り、群集をかき分けて出てきました。しかし、よみがえった後のキリストは全てを超越した存在となっているから、どこへでも姿を現すことができるのです。だから、私たちがどこにいたとしても、そこに現れていつもともにいることができるのです。
キリストは弟子たちに「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束しました。そして、自らのふるまいを通して、この約束が本当であることを弟子たちに知らせているのです。
私たちが毎日を生きているこの地上では、目には見えないけれどもキリストはいつも傍らにいます。そして、私たちが天の御国に入った後は、神とキリストを見ることができ、ともに永遠に生きることになります。ですから、もう私たちがキリストから切り離されはしないのです。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」これができるからだによみがえったから、私たちはもうひとりにはならないのです。どこにいても、どんなときもキリストがともにいるから、私たちは安心できるのです。
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