■はじめに
今日から受難週が始まります。受難週は、キリストがエルサレムに入った日「しゅろの日」から始まり、十字架で死んだ受難日を経て、よみがえった日「イースター」の前日までの期間です。キリストは群衆の熱狂的な喜びの声を浴びながら、しゅろの敷かれた道をロバに乗ってエルサレムに入城しました。しかし、わずか一週間で「十字架につけろ」という群衆の叫びによって十字架刑で死に墓に葬られました。それで、私たちはキリストが歩んだ日々を辿ってキリストの苦しみに思いを向け、我が子を犠牲にするほどの神のあわれみを再確認するのです。今日は、なぜキリストが十字架という苦しみを受けなければならなかったのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.キリストは天という聖所に入り、ただ一度ご自身をいけにえとして献げることで永遠に罪を取り除く(9:23-26)
手紙の著者は律法による初めの契約(古い契約、旧約)よりもキリストによる第二の契約(新しい契約、新約)の方がすぐれていると語りました。なぜなら、罪の贖いにおいて初めの契約は不完全であり、新しい契約が完全だからです。ここで著者は、大祭司が年一度至聖所に入る「あがないの日」を取り上げて、「なぜ完全なのか」を明らかにします。
神はモーセに罪を贖うための方法、すなわち幕屋の聖所とそこでの礼拝の規定を伝えました。ただし、「天にあるものの写し(23節)」とあるように、地上の方法は天における方法の模型です(24節)。だから、地上の幕屋や礼拝の用具などがいけにえの血によってきよめられているのなら、天の本体も何らかのものによってきよめられているはずです(23節)。しかも、天における贖いが本体であり本物ですから、こちらの方がよりすぐれていて、より尊く、より権威があります。それゆえ、天の贖いにふさわしい応じ方のために、家畜のいけにえよりもさらにすぐれたいけにえが必要なのです(24節)。
大祭司がいけにえの血を携えて神がおられる至聖所に入ったように、キリストもよりすぐれたいけにえを携えて神のおられる天に入りました(24節)。十字架の死からよみがえったキリストが弟子たちの見ている前で天に上ったのがその証拠です。ただここでもキリストの方がすぐれていると著者は暗に示しています。至聖所は神の臨在の象徴ですが、天は神がおられる所ですから、「神の御前に現れて」とあるようにキリストは直接神と顔を合わせます。加えて、大祭司はイスラエル民族限定ですがキリストはキリストを信じる人すべてのために神に直接とりなします。だからキリストの方がすぐれているのです。
さらに著者は「よりすぐれたいけにえ」がどれほどすぐれているのかを明らかにします。年に一度、大祭司は自分の血ではなく、家畜をほふってその血を携えて至聖所に入り、民が犯した律法違反のすべてを贖います(25節)。けれどもこの贖いでは人の内側にある罪を取り除くこと、言い換えれば神が罪を思い起こさないようにはできません。あくまでも人の外側に現れた違反が対象です。それで毎年行わなければなりません。
一方、キリストはご自身の血すなわちご自身のいのちを携えて天という聖所に入りました。それは、「世々の終わり」とあるように、目に見える見えないに関わらずあらゆる世界が終わり、人の行き先を決める審判があるからです(26節)。この審判において「罪なし」と判定された者は天の御国に入り、「罪あり」と判定された者は永遠の滅びに入ります。この審判で無罪となるために、キリストは人の犯した律法違反だけではなく、その源である罪を贖うためにいけにえとなりました。違う言い方をするならば、人の罪に対する神の怒りをキリストという供え物が宥めたのです。しかも神にとってキリストは、それ以上すぐれたものがないほど清く尊いいけにえです。だからただ一度で、神は人の罪をもう思い起こすことはありません。人からすればキリストというただ一度のいけにえによって罪が取り除かれたのです(26節)。
ここで見落としていけないのはキリストという最上のいけにえは、キリストにとって苦難だという事実です(26節)。律法ではいけにえとなる家畜は生きているままほふられました。それと同じようにキリストも生きているまま十字架刑でほふられました。ゲツセマネの園での祈りや十字架上でのことばから、この十字架刑がどれほど恐ろしく苦痛なのかが伝わってきます。人の罪を取り除くために、罪のないキリストが十字架刑という苦難を引き受けました。それは人を滅びから救うために、神がご自身の子を犠牲にした事実を指しています。本来は人が犠牲を払うべきなのにです。それほどまでに神は滅んでもいいはずの人を救いたいのです。これが人知を越えた神のあわれみです。
Ⅱ.キリストが世に来たのは、一度目はご自身を献げて人の罪を負うためであり、二度目は罪赦された人を天の御国に入らせるためである(9:27-28)
さて「キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになった(9:14)」とあるように、著者はキリストといういけにえを献げるのは「とこしえの御霊」すなわち神のわざだと言っています。著者はこのことをことばを変えて再び扱います。
神はすべての人に2つのことを定めました(27節)。一つは死です。「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。(創世記3:19)」と神は罪を犯したアダムに言い渡しました。そのため肉体の人生には必ず終わりがあります。もう一つは死んだ後に受けるさばきです。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(Ⅱコリント5:10)」とパウロが言うように、キリストが再びこの地上に来た時にさばきが開かれます。いわゆる最後の審判です。
神が人に死とさばきを定めているように、キリストにもこの世に2度来ることが定められています(28節)。一度目は「多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ」とあるように、キリストは十字架の死といういけにえとなるためにこの世にお生まれになりました。ただし、「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。(ルカ24:44)」とイエスが証ししているように、ご自身をいけにえとして献げることは神によってあらかじめ定められていました。その代表とも言われるのがイザヤ書です。「しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(イザヤ53:10-11)」キリストの十字架はまさに定められていたことの実現なのです。ここにも神の深いあわれみが示されています。
そしてもう一つ神が定めていたことがあります。それが28節後半です。「ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(9:28)」とあるように、先ほど申しましたとおりキリストは再びこの地上に来られます。その時、さばきが行われてキリストを救い主と信じ罪が取り除かれている者は、滅びを免れ天の御国で永遠に生きます。違う見方をするならば、キリストが天の御国から迎えに来るのです(ヨハネ14:3)。「キリストを信じる者は永遠に生き、信じない者は永遠に滅ぶ」という新しい契約がそのとおりとなるのです。
読者であるユダヤ人クリスチャンはキリストを信じたゆえにローマから激しい迫害を受けています。それで、もとのユダヤ教や御使い礼拝に誘惑されキリストを捨てようとしています。けれども、彼らは人にとって最も大事な「滅びからの救い」をキリストという完全ないけにえで受け取っているのです。そのことを著者は読者に気づかせ、彼らを励ましているのです。
■おわりに
使徒パウロはキリストによる救いについてこう語っています。「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:3-5)」私たちは本来神の喜びになるはずでした。けれども、罪のために神に従わないばかりか自分の欲するままに生き、神のさばきでは怒りすなわち永遠の滅びに行くべき存在になりました。
しかし神は、そんな私たちをかわいそうに思い、罪を赦す方法を実行しました。それが神の子イエス・キリストといういけにえです。罪のない我が子キリストを死なせていけにえとし、それによって私たちへの怒りを収めました。それが十字架刑での死です。私たちが罪を赦され、さばきにおいて無罪となり天の御国に入れるのは、罪のないキリストが完全ないけにえになったからなのです。
明らかなように犠牲を払ったのは私たちではありません。計り知れない痛みを負ったのはキリストであり、我が子を献げた神です。これが神の愛による一方的な恵みです。このことを今日の聖餐式、そして受難週を通してますます私たちの心に刻みましょう。
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