聖書ではクリスチャンの人生には困難があると言っています。「信仰を持てば何の妨げもなく、順風満帆の生活がある」とは言っていません。でもパウロが語るように、神は困難を脱出する道を備えています。大事なのは私たちが主に信頼して脱出の道をどのように見つけ、実践するかなのです。そこで今日はネヘミヤ記4章から、私たちが命の危機にどう対応すべきかを見てゆきます。
Ⅰ.サンバラテたちのあざけりに、ネヘミヤは「彼らに神の罰が下るように」祈った(4:1-6)
ネヘミヤはペルシヤ帝国の王アルタクセルクセスの献酌官(王に酌をする重要な官吏。毒味の役割もある)でした。彼はエルサレム城壁の荒廃を聞いて嘆き、そして祈りの中で城壁再建が神から与えられた使命だと確信しました。その後、王から許可をもらい、約1600キロも離れたエルサレムへ赴きユダヤ人とともに城壁修復工事に取りかかります。けれども、エルサレム神殿の城壁再建は着工前から嫌な雰囲気が漂っていました。なぜなら、ホロン人サンバラテ(サマリヤの総督、敵対者の中で最高実力者)を初めとする者たちがが工事を妨害しようと企んでいたからです。彼らはエルサレムを取り囲む地域の人々で、イスラエルが滅んで以来エルサレムを支配していました。もし神殿や城壁が再建されれば、ユダヤ人が力を持ち自分たちの脅威となるから、彼らは工事の邪魔をするのです。
サンバラテとトビヤは、ネヘミヤが警告を無視して修復工事を始めたことに怒りを燃やし、言葉による妨害を仕掛けました(1-3節)。彼らは集団で矢継ぎ早に工事をバカにする言葉を投げつけました。3節「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」とあるように、再建に取り組んでいるユダヤ人の気力を萎えさせようとしました。
このあざけりにネヘミヤは祈りました(4-5節)。ネヘミヤは神のみこころに従って城壁を修復しているのに、それをバカにするのは神冒涜だと判断しました。それで、神が敵の罪を絶対に赦さず、かつての自分たちのように彼らも捕囚の苦しみを味わうように、と願っているのです。一方、ユダヤ人たちは6節のように、敵の言葉にひるむことなく作業を続けていました。城壁の復旧は彼らの悲願であり、ユダヤ人にとっては何もにも代え難い喜びとなるからです。
現代においても教会の活動やキリスト教の考えを物笑いにする人がいます。それを聞くと悔しいし、腹立たしくなります。ただ、あざける者たちは精神的なダメージを与えることで活動を止めさせようとしているのであって、実力行使で妨害しているのではありません。見方を変えれば命の危険はないのです。ですから、あざける人の取り扱いは神に委ねて、自分は今なすべきことを淡々と進めることが肝心です。挑発に乗って神のための働きを中断したら、それこそサタンの思うつぼです。
Ⅱ.ネヘミヤは混乱を目論んだ陰謀を知り、敵に対して見張りを置いた(4:7-9)
ユダヤ人がおどしやあざけりにひるむことなく作業を続けている様子をサンバラテたちは知って、さらなる妨害を企てました(7-8節)。サンバラテとトビヤはアラブ人、アンモン人、アシュドデ人たちを仲間に加えました。そして今度は全員が結束してエルサレムを攻めて、ユダヤ人に損害を与える企てをしました。実力行使に打って出ようとしたのです。
これを知ったネヘミヤたちは祈りました(9節)。ここでの「祈る」には自分自身のために祈り、どうすべきかを考える、という意味があります。祈った結果、ネヘミヤは敵に備えて見張りを置きました。具体的にどんなことが起きるのかわからないけれども、今度は身体が危険にさらされるのは確かです。ネヘミヤはこの状況を傍観するのではなく、神に知恵を求めて今できることを実行しました。
城壁再建は神のみこころであり、神がそれを成し遂げてくださるとネヘミヤは確信を持っています。けれども身体の危険を察知したからには、神に祈りながら人々の命を守る手段を講じました。現代の私たちも「心身に危険が及ぶ状況」を知った際には、まずどうすれば守れるのかを祈りと共に神に求め実行してゆきましょう。
Ⅲ.殺意を持った攻撃に備えて、ネヘミヤは工事を中断させ、神に信頼しつつ武器を持たせて家族を守らせた(4:10-15)
さて、ユダヤの人々は10節のように、度重なる妨害と工事の疲れで弱気になってきました。そこに追い打ちをかけるように敵は新たな妨害を計画しました(11節)。今度ははっきりと命を狙っています。それも見張りに気づかれないように、密かに忍び込んで命を奪おうとする手口です。けれども、何らかの方法でネヘミヤは敵の計画を知りました。さらに、敵の近くに住んでいる住民が頻繁に助けを求めました(12節)。まさに、同胞の命が危機に直面しているのです。そこでネヘミヤは新たな対策を講じました(13-14節)。ネヘミヤは剣や槍や弓といった武器を持たせて、「自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために」といった家族を守るように戦いを命じました。おそらく、家族というよりも親類同士をまとめて一集団とし、その集団ごとに武装させたのでしょう。しかも、「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え」とあるように、敵を恐れたり、武器や人に安心を見出すのではなく、神に信頼して神の力が働くことを信じて戦うように命じています。「城壁再建は神のみこころであり、必ず成し遂げられる」と確信しているネヘミヤだからこそこの言葉が言えたのです。
ここで15節 「私たちの敵が、自分たちの企みが私たちに悟られたこと、神がそれを打ち壊されたことを聞いたとき、私たちはみな城壁に戻り、それぞれ自分の工事に当たった。」とあります。人々は敵の襲来に備えて城壁工事から離れ、それぞれの持ち場で武器を手にして警戒していました。けれども敵の計画が神によって無くなったのを知って、再び工事に向かいました。つまりネヘミヤは戦闘配置と引き替えに城壁の工事を中断したのです。これは大きな決断です。ネヘミヤはこれまで妨害に対して必要な措置を講じながらも修復作業を続けました。城壁再建は神のみこころだからです。しかし、人命の危機に直面した今、再建よりも命を守ることを優先したのです。「神が実現するからそのままにしておいて祈っていればいい」のではありません。命の危機に直面したら何よりもそちらを優先し、神の助けを信頼しながら最善の措置を取るのです。工事は中断しても再開できますが、命は中断したら再開できません。
教会においても私たちの人生においても、神を証しするために計画し、実行していることがらがあります。しかし、命に危険が及ぶのが明白な場合には、神の助けを信頼しながら信仰を持って中断や撤退を決断しなければなりません。自他の命を守るのも神から委ねられた大切な働きです。命があれば再活動はもちろんのこと新しい取り組みもできるからです。
Ⅳ.当面の危機が去っても、ネヘミヤは敵に備えて防御態勢をとりながら修復作業を進めた(4:16-23)
ネヘミヤの対抗措置によってユダヤ人たちは敵の攻撃を逃れました(15節)。「...神がそれを打ち壊されたこと聞いたとき」あるように、人の目には戦闘配置が功を奏したように見えますが、真実は敵の心に神の力が働いたのです。ネヘミヤたちは神の助けを確信しました。そこでネヘミヤは当面の危険は去ったと判断して城壁の工事を再開します。ただし、再び襲ってくるかもしれないので、いつでも戦える体制を取りました(16-18節)。
おそらくネヘミヤは現在取り得る最善の体制で工事を再開したのでしょう。しかし、この体制で最も大切なのは20節「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ」です。いくら厳重な警備や武装をしても完全な安心はありません。でも、彼らは神が助けてくださったこと、そしてこの城壁修復は神のみこころにかなっていることをわかっています。だから、たとえ不完全な体制だとしても「神が戦ってくださるから」という安心があるのです。その結果、23節にあるように誰一人欠けることなく、全員がいつでも戦える体制(服を脱がず:夜寝るときも)を取りながら工事を進めました。「今やるべきことを尽くすけれども、安心は神にある」これが信仰者のあり方と言えます。これがネヘミヤの危機管理です。
ネヘミヤ記4章には、私たちが危機に直面した際にどうするのか、という問いへの答えがあります。一つは、神に祈りながら何をすべきかを考えて実行する、ということです。何をすべきかは状況をよく理解することが必要です。ネヘミヤの対応を見てわかるのは、人の命に関わるかどうかというのが一つのポイントになるでしょう。ことばによるあざけりに対しては工事を続けましたが、襲来が明らかな場合には工事を中断して防御態勢を取りました。そして襲来の可能性が残っているときは防御態勢を取りながら工事を進めました。
もう一つは、安心を神に置くということです。私たちは最善の策だと思ってもそれは完全ではありません。しかし、神がおられるから安心していいのです。たとえさらなる危機が襲ってきても、そこにも神の助けがあるのです。神は見放さず、見捨てないお方です。
今、新型コロナウィルスが全世界で猛威を奮い、毎日感染者や死者が出ています。日本では5/6まで緊急事態宣言が発令され、一人一人が感染拡大を防ぐように指示されています。ネヘミヤ記に照らし合わせるなら、現状は敵襲来による命の危険が明らかな場合と同じであり、私たちは命を守るために祈りつつ必要な措置を尽くさなければなりません。神から安心をいただきながら、命を守ってゆきましょう。
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