■はじめに
大変な雪のシーズンも終わり、三笠にも春がやって来ました。除雪で積み上げた雪の山も日に日に小さくなり、山歩きや山菜取りの時期が近づいてきました。私たちは登山ルートやトレッキングコースが示されている所はその案内に従って行きます。一方、山菜取りのように場所も行き方も分からない時には、すでに行ったことがある人に聞きますね。
では天の御国はどのようにして行けるのでしょうか。「イエスを救い主と信じれば、義と認められ永遠の滅びではなく、永遠のいのちである天の御国に入れる」という、いわば条件は知っています。けれども「どんなふうに行けるのか」は分かりません。なぜなら天の御国に入って、再びこの世界に戻ってきた人がいないからです。でも私たちは間違いなく天の御国に入れると確信できるのです。今日はキリストのよみがえりを通して、私たちがどのようにして天の御国に入れるのかを聖書に聞きます。
Ⅰ."キリストを信じる者が義と認められて神の国に入ること"を神は約束した(ヨハネ3:16/14:2-3)
まず初めに、神はキリストを信じる人に何を約束しているのかを見てみましょう。
神はどんな悪者であっても、その人が滅びることを望んではいません。永遠に生きて欲しいというのが神のお気持ちです(エゼキエル18:23)。それで、滅びから救われる方法を、神はこの世に明らかにしました。
【神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16) 】
「滅び」とは神と同じ義(正しさ)ではない人を、神は有罪として永遠の苦しみに定めることです。「義人はいない一人もいない(ローマ3:10)」とあるように、私たちは誰一人として滅びを免れることはできません。しかし、自分の罪を悔い改めて、神の子キリストを救い主と信じた者は、滅びを免れます。なぜなら、キリストを信じた者は義と認められるからです。そのことをパウロはローマ人への手紙でこう書いています。
【すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(ローマ3:22)】
ただし、神は人の罪を見逃したわけではありません。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」とあるように、キリストが私たちの代わりに罰を受けてくださったから、私たちの罪が赦されるのです。そのキリストが受けた神の罰が十字架刑です。さらに、神は永遠に生きる場所をも明らかにしています。
【わたしの父の家には住む所がたくさんあります。...わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:2-3) 】
「わたしの父の家」とは、キリストの父である神が住んでいる場所、すなわち天にある神の国いわゆる天国です。ここに「あなたがた」つまりキリストを信じる者たちが住む場所があります。そして3節「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」とあるように、キリストを信じた者は、天の御国で神とキリストとともに住むのです。
ですから、このことと先ほどのヨハネ3:16の内容から、神の約束はこのように言えます。「自分の罪を認めて悔い改め、キリストを信じた者は義と認められて滅びを免れ、神の国で永遠に生きる」これが新約と呼ばれる神と人との新しい約束です。私たちは自分の努力や他の人の力で罪をなくすことはできません。だから神の方から滅びを逃れる道を用意し、約束してくださいました。この約束は神が私たちを大切にしているからこそ、与えてくださっているのです。
Ⅱ.義であるキリストのよみがえりと昇天が、私たちの行く先を明らかにしている(Ⅰコリント15:20-2)
「キリストを信じる者が義と認められて神の国に入る」この約束がその通りになるのを、この世に明らかにしたのがキリストのよみがえりです。パウロはこのことを次のように言いました。
【しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(Ⅰコリント15:20)】
パウロはキリストを信じ義と認められて死んだ者たちとキリストとの関係を麦とその穂(実入り)でたとえました。
・眠った者(義と認められて死んだ者たち)→麦
・死者のよみがえり→麦の穂(実入り)
・死者から最初によみがえった者(キリスト)→初穂
麦の中で最初に実を付けた初穂が出たならば、残りの麦もそのようになると私たちはわかります。これと同じように、すでに死んでいる者たちの中で、神によって最初によみがえったのがキリストです。だから、「残っている者たちもキリストと同じように、よみがえる」ということが明らなのです。
ところで、キリストは私たちとは違う特別な肉体を持っていたからよみがえることができたのではありません。キリストは母マリヤから産まれ、人と同じように成長しました。キリストは涙し、空腹になり、のどが乾き、汗を流し、傷からは血が流れました。人と同じように喜怒哀楽がありました。キリストは肉体も精神も全く私たちと同じなのです。ただし、罪はありませんでした。人でありながら、生まれながらにして義なるお方でした(ルカ1:35、Ⅰペテロ2:22-23)。
そのキリストは確かに死にました。イエスが十字架で確かに死んでいるのを認めたから、ローマ兵はイエスの脚を折りませんでした(ヨハネ19:32-33)。さらにニコデモや女性たちもキリストが確かに死んでいるから墓に埋葬しています(ヨハネ19:38-42)。
そして死んだキリストは確かによみがえって、人に姿を現しました(使徒1:3、Ⅰコリント15:6)。人に姿を現すというのは、弟子たちがキリストとわかるような姿を持っていることを意味します。ですから、私たちもよみがえったときにはそれぞれが見分けがつくようなからだを持っているのです。その後、キリストは確かに天に昇り、神の国に入って、今は神の右におられます(使徒1:9,7:55-56)。
つまり、キリストの人としての誕生、成長、十字架での死、よみがえった姿、天に昇り神と共に住む、これら全てを人々が見ているのです。すべてが事実であり、架空の話ではないということです。ですから、まったく罪がなく、義の人キリストがよみがえって神の国に入ったのだから、キリストを信じて義と認められた私たちも、キリストと同じようによみがえって神の国に入るのです。死んだ者の中から、神によってキリストが初穂として最初によみがえり、天の御国に入ったことは紛れもない事実です。だから、私たちは「天の御国、永遠のいのち」という神との約束を確信できるのです。それゆえパウロはこう語るのです。
【死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(Ⅰコリント15:21-22)】
■おわりに
私たちの人生にはつらさや悲しみが必ずあります。病気、事故、天災、貧困、差別、争いなど、これらを一つも経験しない人生はありません。中には自分や周囲がどれほど努力をしても、一つも変わらないものもあります。そして例外なく全員が肉体の死を迎えます。しかし、私たちには天の御国というゴールがすでに決まっています。絶対にそこに入ることができるのです。キリストが初穂としてよみがえって天の御国に入ったから、私たちもそれに続いて天の御国に入り、神とキリスト共に永遠に喜び、安らぐのです。だから、私たちはキリストによって希望を失わないのです。
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