4月6日「大祭司ヨシュアの戴冠」(ゼカリヤ書6章9-15節)
- 木村太
- 4月6日
- 読了時間: 8分
■はじめに
詩篇を見ると、ダビデは神の正しさを確信しながらも「神はなぜ悪をそのままにしておくのか」と嘆いています。「起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか(詩篇44:23-24)」このような嘆きです。現代の私たちもダビデと同じように「神が全てをご支配している/イエスはいつもともにいる/聖霊の助けがある」と確信しています。けれども、世界を見渡すと「なぜ神は何もしないのか」と嘆いたり失望感を覚えます。今日は、完全な正しさや平和で満ちている神の国が誰によってもたらされるのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.ヨシュアの戴冠は「王であり大祭司である若枝が神の国を完成し統治すること」を象徴している(6:9-13)
本論に入る前に今日の理解を助けるために、八つの幻について短くおさらいします。主である神は八つの幻を通して「神の国がどのように再建するのか」について2つのことをゼカリヤに伝えました。一つは、神がこの地上のすべての悪を根絶すること、もう一つは、神の指導によって神の民が神の国を再建し、若枝であるメシアが完成することです。その際、2本のオリーブの木である大祭司ヨシュアが信仰面を、総督ゼルバベルが行政面を指導します。主はバビロニアから帰還した民に「わたしに帰れ。──万軍の【主】のことば──そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」と約束しましたが、その「帰ること」が「神の国という祝福」であることを幻を通して教えたのです。
主は八つの幻の直後にゼカリヤに向かってことばを与えました(9節)。ですので、このことばは八つの幻のテーマである神の国に関わっています。主は、バビロン捕囚から戻ったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物である金と銀を受け取るように命じました(10節)。エズラ記によれば、ペルシアの王キュロスは神殿再建を支援するために、エルサレムに戻る者たちに金、銀、財貨、家畜を持参させるように命じています(エズラ4:1-11)。ですからこの3名は王冠を作るに十分な銀と金を持っていたのでしょう。
そして、この銀と金でゼパニヤの子ヨシヤが王冠を作ります(11節)。おそらくヨシヤは金細工人と思われます。ただし、この王冠は普通の王冠ではありません。冠の上に冠がいくつも重なっている豪華な作りであり、大国で絶大な権力を持つ王がかぶるものです。さらに不思議なことに、主はこの王冠を大祭司ヨシュアにかぶらせます(11節)。大祭司ヨシュアの幻で見たように(3:5)、大祭司のかぶり物はターバンであり王冠ではありません。つまり、主はヨシュアの姿を通して、一人の者が大祭司と偉大な王の権威と働きを持つことをゼカリヤに見せているのです。イスラエルの民を監督する総督ゼルバベルではなく、大祭司ヨシュアにかぶらせたのはそのためなのです。その上で主はこう告げます。(12-13節)
豪華な王冠をかぶった大祭司ヨシュアに「見よ、一人の人を。その名は若枝」と主は言います(12節)。預言書では「若枝」はメシアの呼び名です。結論から言うと、メシアが大祭司と王の職を持っていて、そのことをヨシュアの姿が象徴しているのです。ここで主は若枝であるメシアについて3つのことを明らかにしています。
①彼は自分のいるところから芽を出す(12節):メシアは自分のいるところ、すなわち、この地上から誕生し成長します。どこからともなく突然現れるのではありません。救い主イエスの誕生が暗示されています。
②彼が【主】の神殿を建てる(13節):メシアが神の国の都にある神殿を建てます。ただし、「神殿を建てる」は神殿だけではなくて「神の国の完成」を意味します。
③彼が威光を帯び、王座に就いて支配する(13節):メシアが主の権威を帯びて、神の国を治めます。イザヤ書で預言されていたように、ダビデの王座に就いて王国を治めるのです(イザヤ9:6-7)。ただし、メシアの働きは王の働きだけではありません。「その王座の傍らに一人の祭司がいて、二人の間には、平和の計画がある。」と主は語ります。「その王座の傍らに一人の祭司がいて」は解釈が難しいのですが、同一人物に王と祭司の二つの役職があること示しています。そしてこの両者は「平和の計画」とあるように互いに調和して神の国を治めます。
イスラエルの歴史からすると王と祭司の働きは明確に異なります。王は神を畏れながら、神のみこころ通りに王国を治め、正義と平和を保ちます。一方、祭司は神と国民との間をとりなして民の聖さを保ちます。それによって、国民は神の祝福である繁栄が与えられます。つまり、王であり大祭司であるメシアが王国を治めるというのは、個人だけでなく国全体が神のみこころに従い、悪が全くない社会になるのです。言い換えれば、国民は主の祝福を何の妨げもなく受け取ることができるのです。メシアによって完全な平安と喜びと楽しみがもたらされます。
ペルシアの王キュロスの命によって捕囚の民はエルサレムに戻り、神殿を再建します。しかし、周辺の敵によって建築は妨害されます。しかも、超大国ペルシアの支配に陰りはありません。ですから、エルサレムの民が主を疑ったり、失望してやる気が失せるのも無理はありません。けれども、そんな彼らに「王であり大祭司であるメシアが来て、神の国を完成し治める」このことをヨシュアの戴冠を通して主は約束します。現代の私たちにも「イエスの再臨によって天の御国が来る」という約束がなされています。善と悪が混在する世において、この約束が私たちの希望になるのです。
Ⅱ.冠は主の約束の記念であり、イスラエルの民に希望と主への従順を与える(6:14-15)
さて、主は冠についてさらにゼカリヤに語ります。主は「ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ヨシヤによって作られた王冠」を神殿の中に残すように命じます(14節)。今申しましたように、王冠は「若枝が神の国を完成し統治する」という約束を表しています。ですから、「記念」とあるように、この王冠の存在によって人々は神の約束を忘れず希望を持ち続けることができるのです。たとえ、王冠をかぶった大祭司ヨシュアがこの世から去ったとしても、金と銀という朽ちない冠が残ることで、後々までも主の約束を保つことができるのです。
さらに、神の国はイスラエルの民だけの国ではありません。「遠く離れていた者たち」とはイスラエル民族ではない異邦人を指します(15節)。主は測り綱の幻でこう言いました。「その日、多くの国々が【主】に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。(2:11)」神の民はイスラエル民族という血筋で決まるのではありません。主なる神を畏れて主を信じ、主に従う者が「わたしの民」となり神の国民となるのです。
このことは次のことばからも明らかです。「もしあなたがたが自分たちの神、【主】の声に確かに聞き従うなら、そのようになる。(15節)」繰り返しになりますが、主はメシアによる神の国完成と統治を約束し、神の民が祝福を受けられることを約束します。けれども、イスラエル民族だからといって自動的にその祝福を受け取ることはできません。「もしあなたがたが自分たちの神、【主】の声に確かに聞き従うなら」と条件が付いているように、主なる神を自分の神として主のことばに完全に従うなら、神の民に認められて神の国に入れるのです。主はこの上ない祝福を約束しますが、それを受け取れるかどうかは人にかかっているのです。だから、その約束をいつも覚えているために「王冠」というしるしが必要なのです。
イスラエルの歴史を振り返れば、イスラエルの民は主のことばに反してきました。預言者によって何度も警告されているにもかかわらず、「自分たちは神の民だ」と高慢になり主のことばを無視しました。それゆえ主は、王冠という目に見える物によって神の約束を忘れないようにさせるのです。ここに主のあわれみがあります。
■おわりに
今日のみことばを現代のクリスチャンに適用します。主は大祭司ヨシュアの戴冠を通して「若枝による神の国完成と統治」この約束を明らかにしました。これがエルサレムに戻った民の希望となります。ただし彼らは神の国完成の途上にあるため、いまだ悪がはびこる世界で生きて行かなくてはなりません。そのため、主はゼカリヤにことばを与え、ゼカリヤはヨシュアとゼルバベルに助言し、ヨシュアが信仰面、ゼルバベルが行政面において民を叱咤激励します(エズラ5:1-2)。と同時に約束を覚えておくために王冠を記念にしました。
これと同じように、神は「イエス再臨において私たちが神の国に入れる」ことを約束しています。そのしるしが「イエスの誕生、十字架の死、よみがえり、昇天」であり、これが「記念の冠」といえます。「イエスによる神の国」これこそがこの世を生きるクリスチャンの希望になります。ただし、私たちも神の国に至る途上を生きているから、神の義と人の悪が混在している中で生きなければなりません。しかし、恐れることはありません。主とゼカリヤの関係のように、死からよみがえって天にもどったイエスが父なる神と私たちの間をとりなしておられます。そして大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルが民を指導したように、助け主なる聖霊が私たちを慰め、励まし、罪に気付かせ聖い道を歩ませてくださいます。主は決して私たちを見放さず見捨てません。
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