■はじめに
今の日本を見ると「すぐに必ず結果が出るのが良い」という風潮があります。ですので「○○をすれば必ず成功する/たったこれだけで○○となる」といった宣伝があちこちにあります。自然相手のように人の手では容易にコントロールできない産業構造であれば、このような思想は重んじられなかったでしょう。しかし、科学の発展とともに何でもコントロールできる社会になったために「成果や効率」ばかりが重んじられるようになりました。今日は、このような社会にあって私たちは何を重んじて生きるのかといいうことを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.私たちは神のことばではないものに従わない(29:8-9)
本論に入る前にエレミヤ書と29章の背景について短く説明します。エレミヤは南王国ユダでヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤが王の時代に主からのことばを人々に伝えました。預言の中心は「このまま神に背き続ければ王国は滅びる」という警告、そして、バビロニアによる滅亡後は「バビロニアの捕囚となって服従せよ」という勧告です。
29章1-2節にあるように、ここにはバビロンに囚われていった人々に対するエレミヤからの手紙が記されています。エルサレムの人々は、神の国である祖国がネブカドネツァル率いるバビロン軍によって滅びゆく様子を目の当たりにしました。しかも、その後は敵国で捕囚として生活しなければなりませんでした。本来全世界を治めるはずの神の国が滅び、神の民が異教の者たちに仕えることになったのです。ですから、イスラエルの民には「神に見捨てられた悲しさ、祖国に戻りたい思い」など、とてつもない苦しさしかありません。ある解説本には「絶望と無気力」と言われるほどです。
そんな捕囚の民に対して、万軍の主である神はエレミヤを通して3つの勧告をしました。
①たとえ異国であっても神の民として地に足を付けて生きる(4-7節)
②偽の預言に惑わされない(8-9節)
③主の約束を希望として主に従って生きる(10-14節)
2つめと3つめの勧告は、地に足を付けて神の民にふさわしく生きるための原動力と言えます。この背景を頭に置きながら、まず2番目の勧告を見てゆきます。
捕囚となった人々の中には祭司や預言者がいました(8節)。また、「あなたがたが見ている夢」とあるように、職業的な夢占い師になった者もいるようです(8節)。彼らはこれまでも「神の国だから大丈夫だ」とエレミヤの警告とは違った預言をしてきました。こういった預言は人々の安心に直結しますから、耳に心地よく、受け入れられやすいものです。けれども現実は滅亡と捕囚でした。
偽預言者に対してエレミヤはこう言っています。「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。(エレミヤ28:9)」このことばの通り、神は彼らを預言者として任命していないので、語られた預言は事実無根の偽りだから、聞き従ってはならないのです(9節)。困難な中で「耳に心地よい言葉」が語られたときは、それが主のことばかどうかを確かめることが大事です。
今、日本にいる私たちはバビロン捕囚の民とは違って、勝利国の占領下や植民地でもなければ、民族の圧迫もありません。しかし、災害や災難、貧困や病、差別といった苦しみは誰にでもやってきます。出口の見えない長いトンネルの中に置かれていると思う時期もあるでしょう。そのような時、「神の権威を用いた言葉」に人は弱いものです。カルト宗教はその典型ですけれども、プロテスタント教会においても聖書を曲解して、さも神が告げているかのようなメッセージもあります。
イエスは弟子たちにこう言いました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」どんな苦難があろうとも安心であるためには、すべてに勝利したイエスに頼ることだけなのです。
Ⅱ.神は将来の喜びを約束するとともに、信仰に根差した人生には平安を約束する(29:10-14)
エレミヤは偽りの預言に聞き従わないように命じました。その上で、主の約束を語ります。主は70年間の捕囚ののち、「この場所」すなわちエルサレムに帰す、と約束しました(10節)。14節を見ると、散らされたすべての場所から元の場所であるエルサレムに帰すだけではありません。「元どおりにする」とあるように、神の国で神の民として生きるようになるのです。
この約束を主は「いつくしみの約束(10節)」と言います。ここまでは「滅亡と捕囚」というわざわいの約束ですが、この約束は神との関係が回復することなので、幸いな約束なのです。しかも、「平安を与える計画であり(11節)」とあるように、70年後の帰還はあくまでも主のご計画であり、捕囚の民が何か良いことをしかたらといった報いではありません。ここに主のあわれみがあります。
帰還の計画は「捕囚は永遠ではなく、間違いなく70年後には新しい世界で生きる」という将来を民に与え、それが希望となります。そして、この将来と希望が捕囚の地で神の民として生きるための原動力となるのです。イスラエルの民がどれほど背こうとも、主は彼らを見放さず見捨てないのです。
ところで主は、ここで不思議なことを告げます(12-14節前半)。結論から言うと、このことばは主の約束に留まるための方法です。先ほど申しましたように捕囚の民は絶望と無気力の状態です。しかも、エルサレムへの帰還は70年後ですから、今生きている人々のほとんどが捕囚の地で人生を終えるでしょう。だから耳に心地よい偽預言者のことばに誘惑されやすいのです。
また、イスラエルの民は神殿や礼拝といった「神の臨在と神との関り」が見える形になっていたから、神を信頼し安心できていました。それゆえ、捕囚の地では神殿もないし、祭司による礼拝もないので神との関係が切れていると信じているのです。簡単に言えば、捕囚の地では主との関係が見えるようになっていないから、主への祈りは届かないと理解していたのです。それで主は、見えない形式になっているけれども、見えない主を全身全霊をもって求めるならば、主を見出すと告げるのです(13節)。たとえイスラエルの神とは違う神を崇めている土地であったとしても、主を信頼して呼びかけ、従い、祈るなら、主は必ず応えます。このことはイスラエルの民にとって「神を崇める/神との関係を保つ」という定義の大転換だったでしょう。
「どこでもいつでも心を尽くして主を求めるなら、主は応えてくださる」これは「どこでもいつでも主はともにおられる」ということに他なりません。この真実を主は告げているのです。そして、この真実があるからこそ、70年後の帰還であったとしても偽の預言を退けて主の約束にとどまり、地に足を付けて生きることができるのです。これを実践したのがダニエルと3人の若者です。そして、この真実がキリスト以降の信仰につながっています。つまり、いつの時代も、どの場所でも、イスラエル民族以外でも主の祝福を受けることができるのです。
■おわりに
今日のみことばを現代の私たちに適用します。主は捕囚の民に、地に足を付けて神の民として生きること、偽預言者のことばに従わないことを命じ、70年後にエルサレムに帰す約束をしました。さらに、これら主のことばにとどまるために、捕囚の地であっても心を尽くして主を求めるなら、主が応えてくださると告げました。一言で言うなら、将来がある希望と異国での平安を伝えたのです。ダニエルは囚われの地で異国に仕えなければなりませんでしたが、そんな中でも「あわれみと赦しは、私たちの神、主にあります。(ダニエル9:9)」と語ったとおりです。
今、私たちは神の支配するこの地上に生きています。ただし、罪ある人間が生きている世界ですから、善と悪が混在する世界でもあります。それゆえ、どの人にも苦難があります。その世にあって神はイエスを信じる者に神の御国を約束しました。イエスが再び来られるときにこの世は終わり神の国がやってきて私たちはそこに入るのです。70年後、捕囚の民がエルサレムに帰るように、私たちも罪の世が終わって真の故郷に帰るのです。現代の私たちにも神の国という将来があり、それがこの世を生きる希望となるのです。
加えて、イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
(マタイ28:20)」と約束しました。苦難の世にあっても、心を尽くして主を求めるなら主が応えてくださるのです。それゆえ私たちは、苦難の中でも平安を抱きながら、神の国を希望としながら、神の民として生きることができるのです。
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