■はじめに
イエスが十字架の死からよみがえって天に帰られた後、聖霊を受けた弟子たちはエルサレムから福音を地中海地方に広げてゆきました。その記録が新約聖書の「使徒の働き」です。福音とは、喜ばしい知らせという意味であり、天の御国に入って永遠の安らぎを得る道(方法)があるというメッセージです。ただし、弟子たちが語った13の説教のうち、11までもが「死とよみがえり」を扱っています。なぜ、福音にとって「死とよみがえり」は欠かせないのでしょうか。今日はこのことについて、弟子たちの視点からイエスのよみがえりを見てゆきます。
■本論
Ⅰ.イエスのよみがえりによって、弟子たちはイエスがキリスト(メシア)であることを確信した
12人の弟子たちは約3年間、イエスと一緒に生活しました。この間、彼らはイエスの不思議な力を身をもって経験しました。例えば、「不治の病を治す/悪霊をことばで追い出す/死人を生き返らせる/風をしかりつけて静かにさせる/2匹の魚と5つのパンで5千人を満腹にさせる/水の上を歩く」などです。こういった出来事を通して、弟子たちは「この方は預言されていたメシヤではないのか」と強く期待しました。弟子たちだけでなく、それを体験したり目撃したユダヤ人たちも同じです。
神の民ユダヤ人にとってメシア(キリスト)は、イスラエルに神の国を取り戻す者であり神の国の王です。神の民であるユダヤ人はローマ帝国に支配されながら、預言されていた神の国が実現するのを熱望していました。そんな状況の中で、人知の及ばない不思議な力を持つ人が現れたのですから、「きっとこの人はメシアだ」と期待するのは当然です。だからイエスがロバの子に乗ってエルサレムに入る際には「ホサナ、ホサナ」と叫んで、熱狂的にイエスを迎えました(マルコ11:7-11)。
ただし、弟子たちも民衆もイエスに対して間違った期待をしていました。その期待とは、強大な力によってイスラエルをローマの支配から解放し、神の国を建国するというものです。そのため、イエスがメシアの受難を明らかにしたとき、ペテロは「そんなことはない」と否定したのです(マルコ8:31-33)。
ところが、イエスは祭司長たちにあっさりと捕まってしまいます。それで弟子たちは「自分たちも逮捕される」と恐れイエスを見捨てて逃げました。さらに、イエスが十字架で死んだ後も、彼らは恐ろしくて一カ所に集まって身を隠していました(ヨハネ20:19)。あんなに期待していたのに、誰一人イエスがメシアだと信じていないのです。加えて、イエスがこれまでに語ったことばも安心につながってはいません。弟子たちは驚くべき体験をしても、イエスが神の子であり、メシアであることを確信はおろか理解さえしていなかったのです。
しかし十字架の死から3日目に弟子たちはイエスに出会います。イエスは確かに十字架で死に、確かに墓に葬られたはずなのに足で歩き(ルカ24:38-39)、彼らの目の前で魚を食べ(ルカ24:41-43)ました。さらに驚くことに、鍵がかけられていた部屋の真ん中に突然現れたり(ヨハネ20:19,26)、くぎが打たれた手や槍で刺された脇腹の傷跡も見せました(ヨハネ20:27)。イエスは目に見えない霊のような状態でよみがえったのではなく、人とは違うからだでよみがえったのです。
それで彼らは、イエスの逮捕からよみがえりまでの一連の出来事が、前にイエスが語ったことばどおりだったとわかるのです。イエスは弟子たちにこう語っていました。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。(マルコ10:33-34)」
イエスに起きた出来事はまさにこのことばと同じです。何一つ違いはありません。特にこの中で大事なのは「三日後によみがえります。」です。「よみがえり」以外は実際にあり得ますが、「死んだ日から三日目によみがえる」のはこの世では絶対にあり得ないからです。「人の子すなわちメシアは死んで三日後によみがえる」これと全く同じことがイエスに起こりました。さらに旧約聖書に書かれていたメシアの受難の姿がぴったりとイエスに重なりました。それで、弟子たちはイエスがメシアすなわちキリストだと確信したのです。
イエスが墓に葬られたままだとしたら、イエスは単に不思議な力を持ったユダヤ人としか見られません。けれども、人とは違う肉体でよみがえったからこそ、イエスは預言されていたメシアであり、神の子だと信じられるのです。そして「神と同じ正しさを持つ者は永遠の死の苦しみから解放される」このことをイエスのよみがえりを通して確信するのです。
Ⅱ.イエスのよみがえりによって、弟子たちはイエスのことばが真実であることを確信した
ところで、イエスは地上での生涯において、たくさんの教えを弟子や人々に伝えました。では、イエスと一緒にいたとき、弟子たちはイエスのことばを信じていたでしょうか。ある程度は信じていたと思いますが、完全に信じていたとは言えません。なぜなら、イエスが捕まったときに逃げていったからです。もし、100%疑いななく「イエスは神だ」と信じていたならば、うろたえることはないからです。
人の語ったことばを信じるためには、保証が必要です。言い換えれば「その人が語ることはことごとく本当である」という証拠があれば、だれもがその人のことばを信じるようになります。例えば、占い師が自分しか知らないことをピタッと当て続けたら、占い師のことばを信用するでしょう。この「自分しか知らないことをピタッと当て続けた」という事実が保証になるのです。まさにその保証がよみがえりなのです。
先ほども話しましたように、イエスは「メシアは殺されて、3日後によみがえる」と言いました。占い師のことばは偶然当たるかもしれませんが、死からのよみがえりは絶対にあり得ないことです。この世界において、人だけではなく、植物も動物も生きているものすべては、死からよみがえることはありません。しかし、イエスは死とよみがえりを前もって語り、はたしてそれが本当になりました。弟子たちは、よみがえったイエスに出会って、イエスのことばは本当だ、と確信したのです。このことを使徒ヨハネはこう書いています。「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じた。(ヨハネ2:22)」
イエスが不思議なわざを成しながら福音を伝えていったのは、単に人助けとか人を喜ばすためではありません。「イエスご自身とご自身のことばにウソ偽りはない」これを信じてもらうために、不思議なわざを人々に施したのです。そして、その不思議なことの頂点が死からのよみがえりなのです。イエスは地上にいる間、人々の理解を超えたことがらを語りました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25-26)/わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)/わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)/わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」
もし、イエスのよみがえりがなければイエスのことばは「口からでまかせ」にしかなりません。けれども、この世の人間には決してあり得ない「よみがえり」を予告し、まさにその通りになったから、弟子たちも私たちもイエスのことばはことごとく真実だと信じられるのです。
■おわりに
イエスは私たちにたくさんのことばを語りました。私たちはイエスのことばを信じ、そこから力や励ましを受け、希望を持ちます。もし、イエスが死んだままだったら、「イエスのことばは真実だ」という保証はどこにあるのでしょうか。「救い」が真実かどうかあやふやだったら、私たちの信仰は虚しいものになります。あるかどうかはっきりしないことに希望をおくのですから。さらに言うなら、神に完全に従ったイエスが死で終わったとしたら、不完全な私たちに希望はありません。
でもそうではありません。弟子たちが確信したように、イエスのよみがえりによって、イエスが救い主キリストであること、イエスの教えは真実であること、これは永遠に揺るぎないのです。そして、神に完全に従ったイエスは、新しいいのちを得て、神の国で生きておられます。神はご自身に従う者を滅びでは終わらせないのです。よみがえりはそのことをも明らかにしています。イエスのよみがえりが、わたしたちに永遠のいのちを保証しているのです。今日、私たちにいのちをもたらしたイエスのよみがえりをともに喜びましょう。
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