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木村太

5月14日「確信によって生まれるもの」(ヘブル人への手紙10章26-39節)

■はじめに

 イエスは「わたしの平安を与えます。」と私たちに約束しました。それで私たちはどんなときでもイエスを信じイエスからの平安に期待します。しかし、この手紙の読者のように苦しみが長く続くと、イエスではないものに平安や心の満たしを求めることがあります。ただし、この傾向は決して特別なものではありません。誰でもキリスト以外に魅力を感じて引き込まれる性質があるから、ペテロもパウロもヨハネもそしてこの手紙の著者もキリストを信じ続けるように手紙を書いているからです。今日は、キリストに留まり続けることについて聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.キリストによる罪の赦しを味わっていながらキリスト以外に頼るのは、神のあわれみを踏みつけている(10:26-31)

 手紙の著者は「神がキリストという垂れ幕を設けてくださった」と語り、さらに「この垂れ幕を通して神に近づこう」と勧めます。なぜなら、神に近づいて神のそばにいることが迫害にあっても信仰を保ち続ける道だからです。ただし、この勧告をするというのは、信仰を保てなかった者すなわちキリストに頼るのをやめた者がいた証拠でもあります。そこで著者は信仰から離れた者についての真実を語ります。


 パウロがローマ人への手紙で書いているように、キリストと一つになっている者は罪の奴隷から解放されています。ですから自ら進んで罪を犯し続けることはありません。26節「真理の知識を受け」とあるように、ここに登場する者はキリストによる罪の赦しと天の御国という真理を知って、それを味わいキリストに頼りました。けれども迫害の苦しみが続くためにキリストを捨てて他に頼ったのです。つまり、教会に集ってはいるけれどもキリストと一つになっていない者、言い換えれば新しく生まれていない者なのです(26節)。


 「もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず(26節)」とあるように、彼らはただ一度ささげられたキリストといういけにえによる罪の赦しを信じましたから、信じる前の状態に戻り罪を犯したとしても、それを赦してもらうためのいけにえはありません。それゆえ27節のように神のさばきと罰をびくびくしながら待つしかないのです。しかも彼らが受ける罰は単なる神の怒りではありません。「焼き尽くす激しい火」とあるように、キリストを信じない者が受ける怒りよりもはるかに激しい怒りを受けます。その理由が28-29節です。


 モーセの律法を拒否した者は神に従いたくない者ですから、律法に沿って人の手によって死に処せられます(28節)。一方、キリストを捨てた者は犯した罪の質が違います。彼らはキリスト以外に頼っただけと思うかもしれませんが、神からすればそんな軽いものではありません。

・神の御子を踏みつける(29節):感謝すべきキリストを侮辱する

・自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なす(29節):キリストの血は聖ではない、すなわちキリストを罪を贖うに値しない者と見なす

・恵みの御霊を侮る(29節):真理に目を開かせてくれた聖霊の働きを軽蔑する


 つまり、我が子をいけにえにするほどの神のあわれみを一度味わった上で、頼りにならないからといって捨てるから、律法の拒否よりも厳しい罰になるのです。さらに律法の場合は人による刑罰ですが、この場合は30節のように神ご自身の復讐・報復ですから、人が想像できないほどの罰を受けます。このことをキリストはこう言っています。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」


 それゆえ「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(31節)」と著者は言います。人による迫害や苦しみあるいは死とは比較にならないほど、神の罰は恐ろしく酷いからそうならないようにキリストに留まることを勧めるのです。


 私たちが滅びを免れて天の御国に入れるのは、我が子イエスを犠牲にしたほどの神のあわれみによります。私たちの希望と平安は神の犠牲とキリストの苦しみの上にあります。ですから、「キリストを信じてもどうにもならない/信仰は役に立たない」と思うこと自体が、神のあわれみを踏みにじっているのです。「神はイエスを犠牲にするほど私を大切にしてくださっている」ここから目を離さないのが、キリストに留まる道です。


Ⅱ.「天の御国」という報いを確信している者は、困難を忍耐しキリストに留まれる(10:32-39)

 著者は神の激しい怒りを語ることで、キリストを捨てないように警告しています。その上で、キリストに留まる方法を語ります。


 「光に照らされた後(32節)」は「真理の知識を受けた後(26節)」と同じで、キリストによる救いという光を味わった後を指しています。著者はキリストを信じた直後、彼らが激しい迫害の中でもキリストを捨てずに持ちこたえた事実を伝えます。33-34節にあるように彼らは「嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされる/自分の財産が奪われる」といった直接的な苦難を受けました。それに加えて「このような目にあった人たちの同志となる/牢につながれている人々と苦しみをともにし」とあるように、他者の苦難を一緒に背負う苦しみ、いわば神の愛の実践から受ける苦しみも受けました。


 今は彼らはキリストから離れようとしていますが、キリストを信じてしばらくは迫害の中でも信仰を保っていました。なぜそうできたのか、その手がかりが34節「いつまでも残る財産があることを知っていたので」にあります。彼らは家財やお金といった財産を奪われても、「いつまでも残る財産」があるのを知っていました。「いつまでも残る財産」これこそがキリストを信じた者に与えられる天の御国での永遠のいのちです。


 イエスは「いつまでも残る財産」についてこう言っています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。(マルコ8:36)」どんなに苦しめられても、財産を奪われても、最悪の場合殺されても、「自分のいのち」すなわち永遠のいのちは奪われません。しかも永遠のいのちは全世界よりもはるかにすぐれたものです。これを必ず受け取れるから、彼らは迫害の中でも信仰が持ちこたえられたのです。著者は、かつて信仰を保っていた事実を振り返らせることで、「かつてできていたのだから今も必ずできる」と励ましているのです。


 そして彼らが再び迫害を耐え忍べるように勧めます。著者は読者が迫害の中でも信仰を保つことができた仕組みをことばで表しています(35-36節)。神はキリストを救い主と信じる者に永遠のいのちという大きな報いを約束しています。「これを必ず受け取れる」という完全な信頼、言い換えれば「神は約束を必ず守る」という完全な信頼が忍耐を生み出すのです。たいへんな苦しみが続く中で、キリストを信頼し続けるためには、確信からもたらされる忍耐しかないのです。


 ここで著者は、預言者ハバククのことばを用いて大きな報いが必ずあることを証明します(37-38節)。「来たるべき方」とはイエス・キリストです。「もうしばらくすれば」がどれくらいの時間を指すのか私たちにはわかりません。けれども「遅れることはない」と神が語るように、神のご計画に従って再び来るはずのキリストがこの地上にやってきます。キリストが再び来た時、最後の審判が開かれ、キリストによって罪赦された者は天の御国で永遠に生きます。神ご自身がハバククを通して語ったから、この約束は必ず果たされると言えるのです。それゆえ、「必ずそうなる」という確信を持つことができ、この確信から忍耐が生まれるのです。「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(39節)」これが確信から生まれる忍耐によってキリストを頼る者の姿であり、決意です。


■おわりに

 5月8日に新型コロナウイルス感染症は2類相当から5類感染症に移行しました。それに伴って様々な制限が条件付きではありますが解除されました。私たちは約3年間、マスク着用や黙食、人混みを避けるなどたくさんの我慢をしてきました。しかし、それができたのは対策を取っていれば必ず収まることが、医学的にも歴史的にも明らかだったからです。「苦難は必ず終わり、終わった先には今よりも良い状況になている」これがわかっていれば人は痛みや悲しみ、不自由や不満を何とか乗り切れるのです。


 それと同じように、私たちがどんな困難にあってもキリストを信頼し続けられるのは、来るべきキリストが必ずやって来てこの世が終わり「悲しみも、叫び声も、苦しみもない(黙示録21:4)」新しい天と地に入れるからです。神のことば、さらに言うならば神の約束は必ずその通りになります。ヘブル人への手紙の著者が旧約聖書をいくつも引用しているのは、それを証明するためです。「神のことばはその通りになる」という確信から忍耐が生まれるのです。

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