■はじめに
私たちはいろんなことをイエスを仲介して神に祈り願います。ただし、願ったことがすべてその通りになるとは限りません。毎日毎日「神様お願いします。」と祈っても、全然願った通りにならないことを私たちは経験しています。場合によっては、願っている方向と全く逆の状況になることもあります。「なぜ神様は私の願いを聞いてくれないのか」と嘆いた方もおられるでしょう。今日は、ラザロの病を聞いたイエスのふるまいを通して、私たちの思いと神のみこころには違いがあることを見てゆきます。
Ⅰ.イエスはラザロの重病を聞いてもすぐに行動せず、滞在地に2日間留まった(11:1-8)
イエスと弟子たちは敵対するユダヤ人から逃れるためにヨルダン川の対岸に滞在していました。ここで新たな出来事が起きます。
ベタニアはユダヤ地方にありエルサレムから約3km東の村で、イエスがおられる場所に行くには約1日かかります(1節)。この村にマルタ、マリア、ラザロの兄妹がいました。以前、イエスがパリサイ人の家に招かれた際、マリアは香油を塗って自分の髪の毛でそれをぬぐい取りました(2節)。自分を捧げるほどまでにイエスを尊敬していたのです。また5節「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とヨハネが解説しているように、イエスも彼らを大切にしていて、彼女たちの家を訪問ています。
ラザロは病のためたいへん弱くなっていました。それで、マルタとマリアはイエスに使いを出し、「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」とイエスに告げました(3節)。後に彼女たちは「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(21,32節)」と語ってますから、イエスに助けを求めたのです。
先ほど申しましたように、ベタニアからイエスの所までは約1日かかりますから、イエスがベタニアに来るには早くても2日必要です。しかし、イエスは2日間とどまっていましたので、使いを出してからイエスがベタニアに到着するまで最短で4日間かかっています。一方、イエスが到着した時、ラザロはすでに墓に入ってから4日となっていました。つまり、使いを出した時点でラザロは危篤状態だったのです。でもマルタとマリアは危篤でもイエスなら何とかできると信じていました(ヨハネ11:22)。
使いのことばを聞いてイエスは言います(4節)。イエスはラザロの危篤と死を見通していました。ただし、人の目から見れば死という事実ですが、イエスの目から見ればそれは神の栄光とご自身の栄光を現すことにつながっています。イエスはあらゆるものごとを父なる神と結びつけるのです。
ところがイエスは理解しがたい行動に出ます。誰でも、愛しているのなら大至急駆けつけるところですがイエスは腰を上げません(6節)。しかもご自身の力をもってすればどんな病をも治せるのにです。以前、王室の役人の息子が瀕死のときには離れていてもすぐに治すことができています。ここにイエスの計画があります。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と語ったように、ご自身を通して神の栄光をこの世に明らかにするためには2日間とどまることが必要だったのです。「愛しているのなら何ですぐに助けにいかないの」と私たちは思いますが、人の考えを越えた目的がイエスにあるから、イエスはその目的のために行動するのです。
ラザロのことを聞いてなお2日、ヨルダン川の対岸にとどまった後、イエスは行動を起こします(7-8節)。「ベタニア」ではなく「ユダヤに行こう」ということばに、愛する者を助けて神の栄光を現すためには危険を顧みないイエスの心を見て取れます。一方弟子たちは、イエスのことばに驚きと不安を持ちました。なぜなら、エルサレムからここに来たのはユダヤ人の石打ちを避けるためだったからです。弟子たちは、イエスの計画をまったくわからないので当然の反応です。
「ラザロの死については神の栄光/救命の連絡については2日間滞在/危険が明らかでもユダヤに行く」神であるイエスのお考えは私たちの理解を超えています。ただ確かなのは一連の出来事すべてを通して神の栄光がこの世に明らかになる、ということです。何が起きているのかこれから何が起きるのか全然分からなくても、「やっぱり神はすばらしい」この結末に私たちは歩んでいるのです。
Ⅱ.イエスは神の栄光を現すために、ラザロを死からよみがえらせる(11:9-16)
弟子たちの驚きと不安にイエスは答えます(9-10節)。イエスはご自身が人としてこの世で活動している期間と十字架で死んだ後のことをたとえで語りました。イエスがこの世にいる間は、イエスが平安や希望を与えます。それゆえイエスが光であり、イエスを通して神を喜ぶことはあっても神を疑うことにはなりません。反対にイエスが去った後は、「その人のうちに光がない」とあるように、人は自分で平安や希望を生み出せないから暗やみを生きることになります。そして先を見通せない不安や悲しみから神を疑い、捨てることに至ります。つまり、危険であってもベタニアに行くのは、何があってもご自身が平安や希望すなわちこの世の光であることを、弟子をはじめユダヤの人々に明らかにするためなのです。
そこでイエスは神の栄光とこの世の光とをどのようにして明らかにするのかを弟子たちに語ります(11-13節)。14節ではっきりと言っているように、イエスはラザロがすでに死んでいるのを知っています。ただし神は死んだ者をもよみがえらせることができるから、死は眠っているのと同じです。これまでイエスはどんな病でも生きている人を助けてきました。ところが今回は死んだ者をよみがえらせるという、人間には絶対にできないわざをなします。それゆえ、人間にはどうにもならない死という暗やみであっても、よみがえるという安心や希望を与えるから、この世の光と神の栄光になるのです。
けれども弟子たちは、イエスがラザロのことを聞いても2日間何もしないので、ラザロは重病であっても眠っていると思っていました。当然、イエスは生きているラザロの病を治しに行くと彼らは信じています。トマスが「主と一緒に死のうではないか。(16節)」と勇ましく言っているように、彼らは「イエスが死人をよみがえらせる」とは思いつきもしていません。
それでイエスは彼らに言います(14-15節)。イエスが友と呼ぶラザロが死んだのに、イエスは「わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」と言います。イエスはどんな病をも治せるのに駆けつけもせず、死ぬのが分かっているのに放っておき、その上「居合わせなかったことを喜ぶ」と言うのです。弟子たちはこのことばに驚いたことでしょう。しかし、それがイエスのご計画なのです。
もし、イエスがその場に居合わせたとしたら瀕死のラザロを助けたでしょう。でもそれであればこれまでのわざと何ら変わりはありません。けれども今回は死んだ人をよみがえらせるのです。しかも、2日間とどまったことにより、ラザロは死んでから数日経過しています。つまり、臨終直後とか仮死状態ではなく、生き返る可能性が完全にゼロであってもイエスはよみがえらせることができるのです。それで弟子たちはイエスのさらなるわざを見ることで、まさにイエスは神であると信じるに至ります。加えて、死という暗やみに置かれたとしても、イエスがよみがえらせるからイエスが光になります。だからイエスは居合わせなかったことを喜べるのです。ラザロの危篤を耳にしながら2日間行動を起こさなかったのには「ラザロの完全な死を通して、神の栄光とご自身の光を現す」という理由があったのです。
宮きよめの祭りにおいてイエスは羊についてこう言いました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。(10:28)」死んだラザロをよみがえらせるのは、「イエスがいのちを与えること」そして「死でさえもイエスの手から愛するラザロを奪い取れない」これを明らかにしています。まさに先に語ったことばの真実を証明し、イエスの全能、全知、あわれみを現しています。
■おわりに
死に瀕しているラザロを前にしてマルタとマリアはイエスに使いを出しました。しかしラザロはまもなく死にます。そして2日経ってもイエスは来ません。姉妹はどんな気持ちだったでしょうか。最初はイエスに期待していました。しかし、次第に不安や疑問になったでしょう。失望したかもしれません。もし、彼女らがイエスのご計画を事前に知っていたなら、何も心配しなかったはずです。聖書を手にしている私たちも、すでにこの箇所を読んだことがあるなら、結末を分かっているので安心して読めます。しかし、初めて読む人は「何で行かないの」と疑問を持ったり、「この後どうなるんだろう」とドキドキするでしょう。
私たちもマルタやマリアのような状況に置かれることがあります。イエスを通して神に祈っても全然良い方向にならず、むしろどんどん悪くなってゆくときがあります。でも私たちは安心して良いのです。なぜならイエスによる結末は神の栄光だからです。「本当に神様はすばらしいお方だ」となるのを知っているからです。しかも、私たち自身には光がなくても光であるイエスがいつも私たちとともにいてくださいます。また、イエスを通して聖霊が私たちを励まし助けてくださいます。何ものもイエスの手から私たちを奪い取ることはできないのです。だから、今どんな状況であったとしても、これから何が起こるのか全く予想できなくても、不安と恐怖に押しつぶされそうになっても、イエスがいるから安心を取り戻せるのです。
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