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木村太

5月19日ペンテコステ 「御霊の実」(ガラテヤ人への手紙5章16-26節) 

■はじめに

 人間の体は具合いが良いのか悪いのかを表に出します。例えば、顔色が悪い、腫れている、湿疹ができたなど、体の状態がどうなっているのかを教えてくれます。ダニエル書でも、顔色でダニエルたちの健康を判断していますね。では私たちの信仰の具合、いわば健全さはわかるのでしょうか。そこで今日は、何に従っているのかは実によって分かる、ということをガラテヤ人への手紙から見ましょう。

 

■本論

Ⅰ.「肉の欲望」と「御霊の導き」という2つの源が私たちを動かす(5:16-18)

 神はキリストを信じる者を義と認めます。しかし、ユダヤ人は千数百年もの間、義と認められるために律法と呼んでいる昔からの教えを守ってきました。ですから「律法では義とならない」と言われても納得しませんでした。割礼はその代表と言えるでしょう。それでパウロは、「義はキリストを信じる信仰のみ。だからキリストによって律法という行いの縛りはなくなった。ユダヤ人であっても律法の奴隷から解放されて、何をするにも自由だ」と語るのです。ただし、行いの縛りから解放されたといって、何をしてもよいとはなりません。5:13にあるように、自由ではあっても肉の働く機会、すなわち神に反することを行うのではなく、愛を行いなさい、とパウロは言います。それゆえパウロは「自由になった者として」ふさわしい生き方を教えます。

 

 まずパウロは、私たちには自分を動かす2つの源がある、と言います。(16-17節)

①御霊の導き:御霊(聖霊)は神からキリストを通して私たちに遣わされます。ですので御霊は私たちが神のみこころにかなった生活ができるように、私たちを導きます。

②肉の欲望:生まれながらにして持っている罪からで出てきます。ですから、肉の欲望は神に逆らう欲求です。17節のように、「肉の欲望」と「御霊の導き」は相反していますから、両立はありえません。けれども私たちは両方を持っていますので、両方の間で葛藤しながら生きているのです。

 

 もし、完全に御霊に従っていれば、完全に神に従うことになりますので、モーセの十戒をはじめとする道徳的な律法は必要ありません(18節)。なぜなら、律法は私たちに罪を知らせる役割だからです。でも、私たちには未だ肉の欲望があるので、モーセの十戒を代表とする道徳的な律法が必要なのです。たとえ信仰を持っていても、私たちはいまだ欲望を満たしたい気持ちが常にあります。だからパウロは「御霊によって歩みなさい。肉の欲望を満足してはいけない」と強く命じるのです。

 

Ⅱ.「肉の欲望」も「御霊の導き」も目に見える実を結ぶ(5:19-23)

(1)肉の欲望の実(5:19-21)

 パウロは肉の欲望に従っているのか、御霊に従っているのかをチェックする方法を示しました。19節「肉のわざは明らかです」とあるように、肉の欲望に従った結果、すなわち実は具体的な振る舞いに現れます。19-21節には肉の欲望による代表的な実が挙げられています。

 

a.淫らな行い、汚れ(性的汚れ)、好色(性的放蕩)…神が定めた男女の秩序を壊す

b.偶像礼拝(神以外のものを神を崇める)、魔術(悪霊の働きに頼る)…神と人との関係を壊す

c.敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ…神が造った平和を壊す

 そねみ:他人の特徴などを羨ましく感じてねたむこと。(身体など)

 ねたみ:他人の自分よりも良い点を羨ましく思って憎く思ったり、怒ること。(成績など)

d.泥酔、遊興(酔って大騒ぎすること)…神が人に備えた理性を壊す

 

 これらはすべて、天地創造において神が造った秩序に反しますから、神の国に入る者としてふさわしくない行為です(21節)。しかも、いくつかは人の脳に強烈な快感を植え付け、一時的ではありますが不安・恐れ・不満をなくすことができます。だから常習になったり、だめだとわかっていてもしたくなるのです。それでパウロは「以前にも言ったように」と繰り返し禁じるのです。

 

(2)御霊の導きの実(5:22-23)

 肉の欲望と同じように、御霊の導きに従った結果も、「御霊の実」として私たちの外側に現れます。また、御霊の実は9種類の出方があります。そして、9つすべてはイエス・キリストの生き様そのものです。

 

・愛:神の愛。無条件・無償の愛。

・喜び:神がいてくださる喜び

・平安:神の守りの中にある安心

・寛容:気長、仕返しをしない(神のさばきに委ねる心から生じる)

・親切:情け深い、相手を赦す、受入れる

・善意:善いことをする動機

・誠実:神と人とに忠実、手を抜かない

・柔和:何事にも穏やか(激しい感情にならない)

・自制:肉の欲望を抑える

 

 キリストはこう言いました。「あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。(マタイ7:16)」植物は持っている固有の性質が外に表れます。他の植物の性質は決して出てきません。それと同じように、肉の欲望から御霊のもの、すなわち神の性質は生まれません。ですから御霊から神に反することは決して出てきません。だから、私たちも肉の実を自覚したり、指摘されるならば肉の欲望に従っていることがわかります。一方で御霊の実を結んでいるならば、御霊に従い神に従って生きていることがわかるのです。つまり、御霊の実によって信仰の健全さが分かるのです。

 

Ⅲ.大切なのは御霊に従うこと(5:24-26)

 パウロはことばを続けます。キリストを信じる者はキリストと結びついているので、罪の支配から解放されています。人の活動が十字架刑で終わるごとく、罪の支配はすでに終わっているのです(24節)。「情欲や欲望」は「情熱的な願い」意味しますから、「心の満足は罪がもたらす欲望だけ」という人間性は死んでいるのです。そうではなくてキリストと同じように、「神からのもので心を満たされたい」という人に私たちは生まれ変わっているのです。

 

 ただし、罪が消え去ったわけではないので、いまだ罪の誘惑すなわち「神以外で満たされたい」気持ちはあります。なのでパウロは次のことを意識して実践するように命じました。

 

①25節:御霊によって歩む…神の喜び、神の栄光を表すことをいつも考え、実行するのです。祈りを通して神から教えてもらいましょう。聖書を通して神から教えてもらいましょう。そして神に教えられたことを恐れずに実行しましょう。

②26節:

・うぬぼれない…御霊の実を自慢しない

・互いに挑み合わない…互いに実を競い合わない

・ねたみ合わない…互いに実をうらやまない

 

 パウロは御霊に従っているかどうかを見分けるために御霊の実を語りました。他人と比較するためではありません。実はあくまでも従った結果であり、大切なのは御霊に従い、神に従って生きることなのです。

 

■おわりに

 御霊の実が実ったとしても、この世の中で高い評価を得たり、地位や財産が高くなるとは限りません。例えば、敵対者への寛容や善意は非難されることもあるのです。しかし、忘れてならないのは、私たちは本来の姿から離れてしまっていることです。天地創造において人は神に似た者として造られました。人は地上で神の代理として、神のすばらしさを示すために造られたのです。当然、神に背いてはいませんので、キリストと同じように御霊の実を現しながら完全な平安と喜びに満たされていました。つまり、神がキリストを通して御霊を遣わしてくださるのは、私たちが人本来のあり方になるのを望んでいるからです。日々、御霊の実によって信仰の健康を保ちましょう。

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