■はじめに
私たちは人生の中で「こんなこと何になるのか」とか「これは何の意味もない」と思い、虚しさでやる気が失せることがあります。聖書を見ると預言者エリヤがそうなりました。彼はイスラエルの民が神に立ち返るように、不思議なわざを成しながら神の警告を与えていました。しかし、エリヤの働き自体はうまくいっていたものの、国全体は一向に悔い改めないばかりか、自分の仲間は殺され自分も命の危険にさらされていました。それでエリヤは自分の働きに虚しさを覚え、神に命を取るように願ったのです。今日は伝道者の書2章から、生きることの虚しさを扱います。
■本論
Ⅰ.日の下ではどんな快楽も残らないから空しい(2:1-11)
伝道者はまず、本書のテーマである「日の下での空」から語り始め、自然現象や歴史といったこの世の出来事から空を証明しました。さらに伝道者は快楽、知恵、労苦といういわば人の営みも空であると語ります。
1節「快楽」とは、欲が満たされることによる喜びや楽しさのことで、人が何よりも真っ先にいつも求めるものです。しかし、伝道者はこれまでの経験と見聞から、快楽は空しくばからしいと語ります(1-2節)。それで「快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」のように挑発するのです。
ここで伝道者は快楽についての経験を語ります。彼は知恵によって生きています。同時に「何が良いかを見るまでは」とあるように、何が人生にとってよいことなのかを見てみたいのです(3節)。それゆえ、「人にとって最もよいと思われる快楽」という愚かさをあえてやるのです。笑いや喜びや満足だけを求める生活を伝道者はやってみようというのです。その快楽をもたらす代表がぶどう酒です。
4-8節は伝道者がなした事柄です。彼は建物、造園、果樹園、貯水池といった大事業を成し遂げ、さらに奴隷、家畜、財宝、使用人、側室など莫大な財産を手にしました。そのような生活を振り返って彼はこう言います(9-10節)。伝道者は権力、財力、知力において歴代の支配者たちに抜きんでました。また、すべて欲するままに行っても、労苦を楽しめるくらいに思いのままになりました。ただし、すべてうまくいっても、怠け者や愚か者にはならず知恵によって生きていました。
ところが、その知恵によって彼が悟ったのは空しさでした(11節)。伝道者は事業をはじめとする労苦を振り返って「あらゆることを欲するままに行い、すべてが欲するままになった」という、この上ない快楽を得ました。にもかかわらず、彼は風を追うように自分にとって良いものは何一つ手にできなかった、と語るのです。伝道者の歩みは、人であれば誰でもあこがれるものです。しかし、この世で得られるどんな快楽も彼を満たさず、心に与えたのは空しさだったのです。
自分自身を含めて人が生み出すものごとは私たちを完全にかつ永遠に満たすことはありません。なぜなら神によって造られた私たちは、神によってのみ満たされるからです。パウロはこう語っています。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)」この世のものごとがどれほど喜びや安心をもたらしたとしても、私たちは心のどこかであるいはいつかは空しさに気づくのです。
Ⅱ.知恵者も愚か者も行き着く先は同じだから空しい(2:12-17)
次に伝道者は知恵について語ります。彼はあらゆる事業を成し遂げましたが、それは先代の王の業績を継続しただけ、と見なしています。それで、「知恵のない愚かさ」や「悪をする狂気」と比べて知恵は何をもたらすのかを考察したのです(12節)。
人の生き様を見たとき、確かに知恵のある者は目から光を放つごとく、知恵によって先を見通して最善の道を歩みます(13-14節)。一方、愚か者は闇を歩くごとく、自分に苦痛をもたらす道を歩みます。それゆえ、人生という範囲では知恵のある者が愚か者に優っているのです。これは誰も疑いようのない事実です。
けれども、結末すなわち人生の終着地は知恵ある者も愚か者も同じです。16節で伝道者は2つの結末を指摘しています。一つは人々の記憶から消えることであり、もう一つは死です。人の命は必ず終わります。どれだけ賢く生きてもどれだけ非道に生きても必ず死を迎えます。そして長い長い時間の果てには忘れ去られてしまいます。これもまた誰も疑いようのない事実です。だから15節「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」と語るように、同じ結末ならば知恵は何になるのか、と伝道者は言い放ち、知恵もまた空しいとなるのです。
さらに彼は言います(17節)。伝道者にとって毎日の出来事は、たとえ自分の思い通りだったとしても死に向かっているだけなのです。それで、この世のものごとをわざわいと彼は言うのです。そして毎日の出来事がわざわいしかもたらさないから、生きていることそのものを憎むのです。
彼は知恵ある者だからこそ自分の人生を冷静に顧み、どの人も行く着く先は同じであると分かりました。知恵のある者だからこそ生きていることについて敏感であり、虚無感や嫌悪感を感じるのです。これが日の下つまりこの世のものごとだけで、生きることを考察した結果です。ここから脱出するには、神はどのように見てくださっているのか、いわば日の上である天に目を向けるのです。そしてイエスを信じる信仰によって、人生の結末の先にある天の御国で神からのお褒めがあることを確信するのです。これが真に知恵ある者の生き方です。
Ⅲ.自分の労苦の結果は後継者の手に渡るから空しい(2:18-23)
伝道者は人についてもう一つの事実を明らかにします。2章では「労苦」ということばが何度も出てきます。このことばは苦痛や疲労を伴う働きや作業を意味し、広い意味では人がなしているすべてのことがらを指します。「人の営み」と言ってもいいでしょう。
伝道者は知恵を働かせて労苦した結果、思い通りの成果とあらゆる快楽を手にしました。しかし、彼はその労苦を憎み、絶望しました(18,20節)。その理由が19,21節にあります。伝道者であるソロモン自身がそうであったように、自分の跡を継ぐ者が自分の労苦の成果を受け取ります。例えば、事業や財産、貿易、国家間の平和といったものです。伝道者は労苦の成果を受け取りますが、いずれは後継者に譲らなければなりません。しかも、後継者は何の苦労もしていないのです。その上、後継者が知恵ある者でも愚か者でも自分の労苦の成果を自由にできるのです。ですから、自分が望まない使われ方をするかもしれないし、自分の業績がすべてダメになる可能性もあります。現に伝道者ソロモンの後継者レハブアムは一つの国を分裂させ、後々の王によってイスラエル王国は滅亡しました。だから「こんなことをやって何になるのか」という空しさを労苦に覚えるのです。
伝道者は人生について結論を出します(22-23節)。これまで説明したように、快楽・知恵・労苦といった人のあらゆる営みは空しいとしか言えません。それは「思い煩い」とあるように人への心遣いでさえも空しくなるのです。何をやっても心を満たさず、死を避けることにもならず、やった結果がずっとそのまま自分に残ることにもならず、誰かの手に渡ってしまいます。だから人生には苦悶(悲痛)といらだちが伴い、夜も眠れないほどの不安に襲われるのです。これが人生について日の下だけを見た結論、言い換えれば日の上である天の神を無視した結論です。
■おわりに
伝道者は空しさから脱出する方法を見出しています(24節)。当時のイスラエルにおいて「食べたり飲んだり」は労苦による報いの代表であり、同時に快楽をもたらすものの代表です。現代であればグルメとかレジャーになるでしょう。伝道者は、労苦の報いもそれによる快楽も神の御手によること、と告白しています。25節「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」とあるように、知恵も労苦も快楽もすべては神からもたらされるものだからです。その理由を伝道者は説明します(26節)。
神はご自身のみこころにかない、良しとする者には知恵と知識と喜びを与えます。労苦や快楽もこれに含まれます。一方、悪をなす罪人には集めて蓄える仕事を与えます。例えば、財産や食物のように自分の欲望を満たすための人生を歩ませるのです。けれども、後継者のところで申しましたように、結局はせっかく苦労して集めたものは自分の手に残らず、良い者の手に渡るのです。なぜなら罪人は神を無視しすべて自分のために生きようとするから、神が集めたものを取り去るからです。バビロニアのネブカドネツァル王は強大な国家と莫大な財産を見たとき、「これは自分の手柄だ」と判断したため、そのすべてを神が取り去りました(ダニエル4:29-33)。だから罪人の人生は空しいのです。
私たちは日々の営みに神が介入していることを忘れてはなりません。知恵も労苦も快楽も神が何らかの目的で私たちにくださっているのです。イエスを通してそのことに気づけば、「自分がこうして生きているのは神にとって何らかの意味がある」と分かるのです。イエスの十字架とよみがえりによる滅びからの救いは、天の御国での永遠のいのちに加えて、悲痛・いらだち・空しさの毎日から抜け出す道を私たちに提供しているのです。
留言