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木村太

8月21日「神を畏れよ」(伝道者の書12章1-14節)

■はじめに

 今、日本にいる私たちにとって神とはどんな存在でしょうか。ある人は「初詣/パワースポット巡り」のように願いを叶えてくださる存在と答えるでしょう。ある人は「厄除け/厄払い」のように悪いものを払って災いから守ってくれる存在と答えるでしょう。あるいは、「天罰/お天道様はお見通し」のように神はすべてご存じで善悪に応じた報いをする方と思っている方もいるでしょう。一方で、「神の方から積極的に自分に関わっている」と思う方はあまりいないと思います。今日は「人は神と関わらなければならないこと」を伝道者の書12章から見てゆきます。


■本論

Ⅰ.人は活動できる時期に神への従順を明らかにできる(12:1-8)

 伝道者は人の有り様をつぶさに見てこう語っています。「この世の価値観からすれば空としか言えないが、神からすればすべてに意味がある。ただし、人はそのすべてを知り得ない。」こう言えるのは「神がみこころのままにすべてをご支配し、人のことをすべてご覧になっている。」という神観を伝道者が持っているからです。それをふまえて伝道者は人がすべきことを命じます。


 「創造者」は天地万物を造り、そのすべてを支配している神であり、同時に人のすべてをさばくお方です(1節)。また「覚える」とは単に記憶するのではなくて、どのようなお方かを理解し、いつも心に留めて関わりを持つことを言います(1節)。ダビデのように、どんなときにも神に聞く姿がお手本と言えます。ただし伝道者は「あなたの若い日に(内に)」と、神を覚える時期を指定しています。具体的には「わざわいの日が来ない」時期であり「『何の喜びもない』と言う年月が近づく前」の時期です。


 この当時は「わざわいの日」は死ぬ日であり、「『何の喜びもない』と言う年月」は2節のように、人生にかげりが出てくる老年期を指しています。言い換えれば、「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め(11:9)」とあるように、自分の意志通りに活動できる時期が若い日なのです。


 なぜ若い日に創造者を覚えるのか、これについては後ほど扱いますが、答えは「神を畏れて神の命令を守り神のさばきで無罪となるため」です。神は「命令を守れ」と言うように従順をふるまいで求めています。イエスの兄弟ヤコブは「イエスを信じているといっても行動が伴っていなかったら、イエスを信じている悪霊と見分けがつかない」と語っています(ヤコブ2:19-20)。つまり自分の意志、すなわち創造者である神への従順をふるまいで十分に表せるのが若い時期だから、「若い日に創造者を覚えよ」と命じるのです。さらに加えるならば、神からの良いものを味わい楽しめるのも若い時期だからです。


 ここで伝道者は「『何の喜びもない』と言う年月」すなわち老年期の特徴をたとえで語ります(3-5節)。

①家を守る者たちは震える:手に力が入らない

②力のある男たちは身をかがめる:足腰の衰え

③粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめる:「引く」=「砕く」から歯の衰え

④窓から眺めている女たちの目は暗くなる:目の衰え

⑤通りの扉は閉ざされる:外との接触が少なくなる

⑥臼をひく音もかすかになる:「臼をひく」=「噛む」から食欲の衰え、あるいは働きの衰え

⑦人は鳥の声に起き上がる:浅い眠り、早起き

⑧歌を歌う娘たちはみな、うなだれる:声に張りが無くなる、あるいは、歌い手ががっかりするくらいに耳が遠くなる

⑨高いところを恐れる:高所を怯える

⑩道でおびえる:出歩くのがおっくうになる

⑪アーモンドの花は咲く:アーモンドの花が白いことから白髪

⑫バッタは足取り重く歩く:バッタのように軽快だったのが難儀になる

⑬風鳥木は花を開く:欲望が少なくなる・無気力(風鳥木の花は開いて破裂するから) 


 このように人は心身が衰えて活動が少なくなり、それによる喜びや楽しみを感じにくくなります。しかも「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。(5節)」とあるように、「永遠の家/嘆く者たち」でたとえられている死に向かって進んで行きます。そしてついに死を迎えます(6節)。


 「灯りのための金の器とそれを吊っている銀のひもが切れる」は光すなわち命が終わることを意味しています。また、水がめや滑車が壊れると泉や井戸から水を汲めません。これも水すなわち命が続かないことを指しています。ここで伝道者は人の死をこのように見ています(7-8節)。


 人の肉体は地のちりに戻り、霊は吹き込まれた神に戻ります。人は神によって造られた時と同じ道を辿るのです。それゆえ1章で語られたように、元に戻るという循環しかないから空の空、すなわちこれ以上ない空だと伝道者は語るのです。つまり、この空に至る前に創造者である神を知り、神に従う人生に入ることが人にとって最も大事なのです。人は自分がいつ死ぬのかをわかりません。「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩(11:9)」んでいるうちに、衰えの時期を迎えます。だから、生きていて意志通りに活動できる時期に創造者である神に従順となる必要があります。いのちが終わってからでは、有罪を免れる術はないのです。


Ⅱ.「神を畏れて神のことばを守る」これが人にとって最も大事なことである(12:9-14)

 さて、伝道者はこれまでやってきたことを振り返ります(9-10節)。彼は熱意を持って知恵を求め研究しました。さらに「知識を民に教え/多くの箴言をまとめ/適切なことばを探し求め/真理のことばをまっすぐに書き記した」とあるように、彼は知恵すなわち真理のことばを格言のような形式でまとめ、人に教えました。


 驚くことに、彼は熱心に求めて手に入れた真理のことばを自分だけのものにせず、人に教えるにふさわしいことばで書きました。ここに「人に伝えたい」という伝道者の熱意が現れています。なぜなら、11節にあるように、真理のことばは「羊を導く突き棒」のように人を正しい方向に導くからです。また、真理のことばをまとめた書は「よく打ち付けられた釘」のように、いかなる時代いかなる地域でも揺るぎなく、人を真理に打ち付けておくことができるからです。それが可能なのは「一人の牧者によって与えられた。」とあるように、人を養い導く神からのことばだからです。


 つまり、さばきで有罪を免れ空しさから解放されるためには、神からの真理のことばに従わなければなりません。しかも、すべての人は衰えやがて死にます。だから、何とかして真理のことばを伝えて、それに従って生きて欲しいから、真理のことばを書にまとめて人々に教えたのです。父からのことばをユダヤ人に語ったイエスの姿が重なります。


 その一方で伝道者は、神以外の教えに没頭することに注意を与えています(12節)。様々な教えを学び研究してもよいのです。しかし、真理すなわちすべての人を正しい方向に導き、さばきでの有罪を免れるためには神からのことばしかありません。そこは神に属することがらなので、人がいくら探求してもきりがないのです。それで彼はこう言います(13節)。


 「もうすべてが聞かされていることだ。」とあるように、伝道者を含めてユダヤ人は神からのことばをすでに与えられています。パウロはユダヤ人について「彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ3:2)」と手紙に書いています。それゆえ、すでに神のことばを聞いているから、神を畏れて神の命令を守らなくてはならないのです。神を敬い権威にひれ伏す意志を、神のことばである命令を守るというふるまいで神に明らかにするのです。これが人のすべきことのすべてです。言い換えれば、これが人にとって何よりも大事なことなのです。


 なぜ神のことばである命令を守らなければならないのか、その理由が14節です。神は善いことも悪いことも、その人の関わるすべてのことをさばきの座に持ち出します。たとえ人にばれていないことや心の中にしまい込んでいることさえもです。このさばきにおいて有罪になれば人知を越えた罰があるから、神を畏れて命令を守らなくてはならないのです。


 イエスは神を畏れることについてこう言いました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」人はこの世での人生がすべてだと見てしまいます。けれども、地上での人生は一時的な住まいであり、その先に永遠があります(ヘブル11:13)。いくら平安で幸せな人生を送っても、さばきで有罪となって永遠の滅びに行っては何にもならないのです。だから、「神を畏れて神のことばに従う」ことが人にとって何よりも大事なのです。


■おわりに

 私たちが生きる上で健康や信頼、財産といったこの世のものは必要です。しかし、最も必要なのは神のことばとそれを守る生き方です。イエスもこう語っています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。(マタイ16:26)」それゆえ私たちはイエスを救い主と信じイエスのことばに従って生きています。


 イエスを信じる信仰によって私たちはさばきで無罪となり、天の御国で永遠に生きます。と同時に、イエスを犠牲にするほど私たちを大切にしている神に目を留め、「神によって生かされているという」真理をわかっています。人は神から造られたゆえに、生きていること自体に意義があります。私たちはそれをわきまえているから「空の空。すべて空。」から解放されているのです。

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