■はじめに
イエスは「あるじから財産を預けられたしもべの話」いわゆる「タラントのたとえ」で、あるじのために損をする危険を冒した者をほめ、損を恐れて何もしなかった者を非難しました。私たちは神やイエスの喜びのために生きる者です。ただその際「思った通りの成果がでない/ムダになる/自分の心身に苦痛を受ける」といったリスクを伴うことがあります。しかしイエスは「招来受ける主の評価に備えて自分に与えられた能力を使ってやってみる」方を勧めています。J.I.パッカーはこのことを「冒険心」と呼んでいます。今日は、「後の日のためにやってみる」という生き方を聖書から見てゆきましょう。
■本論
Ⅰ.自分の予測や判断を完全としないで、今すべきことをする(11:1-6)
伝道者は愚かさについてその姿を明らかにし、怠惰も愚かさであると語りました。ここで伝道者は怠惰にならないための方法を勧めます。
「あなたのパン(1節)/あなたの受ける分(2節)」は、すでに語られているように、労苦に対する神からの分け前を言います。伝道者は神からの分け前を「今、自分のためだけに使わないで将来に備えるよう」に勧めています(1節)。ただし「水の上に投げる」とあるように、その行いは何の見返りもない、ムダになるというリスクを持っています。つまり、冒険心が求められているのです。
その例として「七、八人に分けておけ」とあるように、伝道者は「自分の持っているものを用いて他者のために何かをする」ことを勧めています(2節)。それは、ずっと後になって自分を助けることにならないかもしれないし、すっかり忘れていた頃に「この助けはあのときの報いか」とわかるときもあります。ここで大切なのは神がご覧になっているという確信です。そのことをイエスはこう言っています。
「...さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい(マタイ25:34)。...まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。
(マタイ25:40)」
「今、自分の持っているもので、人に対してできることをする」これは神に対してなしています。この確信があるからこそ、失敗や見返りを恐れないで「やってみよう」という冒険心が生まれるのです。
一方、「リスクがあるからやらない」という怠惰も伝道者は語っています(3-4節)。大雨や木が倒れるほどの強風のように、この世には人の手に負えないことがたくさんあります(3節)。だからといって「風が完全に収まったら種を蒔こう/完全に晴れたら刈り入れしよう」では何もしないことになります(4節)。風も雨も人は手出しできません。けれども種まきの時期、刈り入れの時期にはすべきことをしなければならないのです。言い換えれば、自分でやらない理由を持ち出して、すべきことを避けるのが怠惰なのです。
どうして、やらない理由を持ち出すのが良くないのか、そのことを伝道者はこう言います(5-6節)。妊婦のお腹の中で赤ちゃんの骨はどう形作られるのか、風はどこからどこを通って来るのか、当時の人にはわかりません(5節)。同じように、科学が発達した現代でも、神のわざであるこの世の出来事すべてを人は解明できていません。この世には人知の及ばない領域があり、その頂点が未来なのです。
6節で言われているように、「朝蒔いた種が良い実りとなる」と予想し、その日終わらせなければならい種蒔きを放っておくのはよくありません。なぜなら、朝以外に蒔いた種も良い実りとなるかもしれないからです。つまり、「将来どうなるか人にはわからないのに、勝手な理由をつけてやるべきことをしないのが怠惰だ」と、このたとえは語っているのです。
以前申しましたように、私たちは過去の膨大な出来事から将来を予想できます。天気予報や農作物の生育などはその典型でしょう。そのため、私たちは予想に基づいた不安や恐れで前に踏み出せないときもあります。例えば、「神はいない」と断言している友人に教会の案内を出してもムダだろう、と思い何もしない場合があります。でも勇気を出して話してみたら拒否されなかった、というときもあります。私たちの判断には誤りがあるし、神の介入があるかもしれません。私たちは未来について「絶対にこうなる」とは断言できないのです。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(Ⅱテモテ4:2)」とパウロが言うように、自分でチャンスかどうかを勝手に決めつけないで、「すべてをご存じの神に信頼して、今すべきことをしっかりやる。後は神に委ねる。」これが、神の求める人の生き方です。
Ⅱ.神によって与えられた喜びや平安を「幸せ」とする(11:7-10)
伝道者はもう一つすべきことを語ります。「光」と「日を見る」はどちらも目で太陽の光を感じることなので、これは「生きている」ことを指しています(7節)。伝道者は「生きていることは素敵だ」と言います。なぜなら、すでに語られているように、神が楽しみや喜びといった幸いを与えてくださるからです(2:24,3:12-13,5:18-19)。これはいわば神から与えられた特権と言えます。
それゆえ、もし長く生きているならば、その特権を受ける日が長いのだから存分に神からの幸いを味わって欲しいのです(8節)。なぜなら、闇の日すなわち目から光が入らない死がやってくるからです。どんなに素晴らしい楽しみも喜びも、その日には受け取ることができず空しくなります。「あこがれの土地に転勤になったけれども、住んでいるからいつでもあちこち行けると思い先延ばしにしていたら、急に他の土地に移動になった」そんなイメージです。「神からの特権を味わえる内に味わう」これも神が人に求めるすべきことの一つです。
そのため伝道者は2つのことを勧めます。9節には積極的にすべきこと、10節には避けるべきことが記されています。
①9節:すべてのふるまいにさばきがあることをわきまえながら、人生を楽しむ
「若い男/若いうち/若い日」は「自分のやりたいように活動でき、神からの楽しみや喜びを存分に味わえる時期」であり、青年時代はその代名詞です。「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」とあるように、生きているうちに人は心に湧き上がる思いに従って、やりたいことができるのです。人は神から与えられた自由を堪能してよいのです。ただし、何をやってもよいのではありません。「神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行く」とあるように、やがて来る神のさばきにおいて自分のふるまいすべてについて白黒がつけられます。当然、悪と判定されたら、その罰があります。人は犯罪のような悪をしてしまいますが、それは神が「良し」と認めたのではなく、悔い改めるように猶予を与えているのです。ですから、たとえ自由であっても後の日のさばきのために、神にとって良いのか悪いのかを吟味しなければなりません。
②10節:神からの幸いを拒否する心を捨てる
心に落ち込みや怒りがあるときは楽しいことを楽しいと受け取れません。同じように、体が苦痛の時もいつもと同じように喜べないものです。つまり、人生という限られた時間の中で、神が幸いを与えているのだからそれを拒まないようにするのです。人はだれでも幸せと感じられるハードルを定めています。「こうなったら幸せ/これがあれば幸せ」というものです。それで神から与えられていても「これじゃない」となっていらついたり、苦しくなるのです。イエスはパリサイ人の頑なさを非難し、子どもの素直さを喜びました。理屈抜きで心に湧き上がる神から与えられた喜びや平安を素直に受け取るのが大事です。
人は神によって与えられた喜びや平安を「幸せ」と受け取れます。ここで注意したいのは、心身に苦痛を与える、いわゆる不幸といわれるものごとを幸せと受け取るのではないということです。「悲しい/辛い/痛い/苦しい」といった感情は拒否せず抱いたままでいいのです。ただそのような中でも、神が心に与える安らぎやうれしさをそのまま受け取るのです。病者の祈りはそのお手本です。
「求めたものはひとつとして与えられなかったが願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにかかわらず心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」
■おわりに
伝道者は後の日のために2つのことがらを命じています。
①後の日の神の報いのために、今すべきことをする
②後の日の死そして神のさばきのために、今味わえる神からの幸いを味わう
ただし、私たちはイエスを信じていても未だ弱さを持っています。「自分の見通しや判断で不安や恐れを抱き、すべきことを避ける/幸せのハードルを設けて素直になれない」という弱さです。それでパウロは、一歩足を踏み出して冒険するためにこう言います。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。(ピリピ2:13-14)」
神はすべてをご存じで、私たちのために最善をなしてくださるお方です。その神を疑わずに信頼する、これが「やってみる」ための秘訣です。すでに私たちは「イエスを信じれば天の御国で永遠に生きる」という、人にとって最も重大な冒険をしています。ですから、「イエスを信頼してやってみる」そのような冒険心を持っているのです。
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