■はじめに
聖書には「箴言」や「伝道者の書」のような知恵の書と呼ばれる書があり、そこでは問題を解決するための考えや方法を知恵としています。そして知恵には平和や平安、一致、満足、善、正しさといった、いわば神のご性質が伴っています。もし、問題を解決するときに混乱や不満がいつまでも残るのであれば、それは知恵とは言えないのです。そこで今朝は知恵とは逆の愚かさから知恵について見てゆきます。
■本論
Ⅰ.愚か者は「今だけ・自分だけが良ければよい」という人生になっている (10:1-15)
伝道者は人の知識や知恵の限界をわきまえていながらも、それを用いることの大切さを説いてきました。さらに伝道者は愚かさを通して知恵を教えようとしています。ただし、書き方が箴言のように前後のつながりが薄いので、小さなテーマ毎に解説します。
(1)悪やわざわいに向かっていることに気づかない(1-2節)
「調香師の香油(1節)」は聖所の器具を聖別するための最も聖なる香油です。けれどもたった一匹のハエの死骸がその香油をダメにしてしまいます。つまり、わずかな悪が知恵や栄誉といった自分や他者のすばらしさを台無しにするのです。例えば、一人のクリスチャンが新聞に載るような犯罪を犯せば、所属している教会のみならずキリスト教そのものに疑いの目が注がれます。
なぜ愚か者はそんなことをしてしまうのか、その理由が2節です。聖書において「右」は幸い、正しさ、救いといったいわゆる「良いこと」を意味し、反対に左は不幸、不正、わざわいといった「悪いこと」を意味します。「心が向く」とあるように、愚か者の動機や意志は悪いことに向いていて、しかも彼はそれを気づきません。どっちに向いているかに気づけば、自分の振るまいが多くの良いものを台無しにすることはないからです。
(2) 忍耐や熟慮がない(3-4節)
愚か者は人生あるいは生き様において、自分の愚かさを表に出してしまいます(3節)。なぜなら、「思慮に欠け」とあるように、自分の言葉や行いがどんなことになるのか熟慮しないからです。その事例が4節です。支配者が自分に立腹したときに、その場を離れたら、それは支配者に向かって不満や不服の意思表示になり、火に油を注ぐようなものです。だから、まずは短気にならず冷静になり、自分のふるまいが何を引き起こすのかをよくよく考えて、忍耐するのです。そうすれば怒りを受け入れる姿になるから、支配者もそれ以上腹立ちしません。
(3)不安や混乱を招く(5-7節)
伝道者は、愚か者のふるまいが権力者の過ちのようだ、と言います(5節)。続く6-7節がその過ちを説明しています。「愚か者が非常に高い位、富む者が低い席、奴隷が馬上、君主が地を歩く」これらは権力者が人々をふさわしくない立場に定めているのであり、間違った判断を表しています。当然、不満や疑問、反発を招き、混乱が生まれます。愚かさの結果は知恵とは正反対になります。
(4)自分や他者の安全・安心に注意を払わないから慎重さに欠ける(8-11節)
「穴を掘る=罠の穴/石垣を崩す=城壁攻撃/石を切り出す=家の土台石/木を割る=たきぎ(8-9節)」これらは生きてゆくための活動ですが、愚か者は不注意によって台無しにします。こうなるのは自分のやっていることがどうなるのかを予想しなかったり、何が起きるのかを想定しないからです。その事例が10-11節に記されています。斧の刃が鈍くなって研がなければますます力が必要です。蛇の動きから次を察しなければ合図のタイミングを誤り噛まれます。一言で言えば、慎重さにかけているのであり、その原因は自分や他者の安全や安心に関心を払っていないことにあります。
(5) 他者の益を考えない(12-15節)
12節「恵み深い」は「優しい/親切」を意味しますから、知恵ある者は他者の益を考えています。一方、愚か者の言葉は他者に苦痛や嫌な思いをさせるから、自分の身に滅びを招きます。しかも、終始思慮に欠けているにもかかわらず、他者を顧みないから「愚かから狂気に」移るように、ますますエスカレートします(13節)。だから、15節「彼は町に行く道さえ知らない」のように、簡単なことでもわからないのに知ったかぶりをして語ります。でたらめを語るからそれを覆うようにさらに言葉を多くします(14節)。愚か者は自分のことしか頭になく、相手に気配りできません。
これらの5つの姿から「愚か」について2つの特徴を見て取れます。
①自分の欲望を満たすのが最優先であり、他の人や集団の益に気を配らない
②今さえよければよく、自分のふるまいが何を引き起こすのか、将来どうなるのかを考えない
それゆえ、愚かさの結末は平和、平安、喜び、善、秩序となりません。つまり、知恵を働かせるというのは、この2つの逆を目指せば良いのです。イエスは神を愛し人を愛するように教えましたが、まさにそれが知恵ある者の姿なのです。
Ⅱ.愚か者は果たすべきことを果たさない(10:16-20)
ここで伝道者は国家レベルでの愚かさについて語ります。国の指導者によって国民の人生が左右されるからでしょう。「わざわいなことよ/幸いなことよ」とあるように、ここには愚かな王(16節)と知恵のある王(17節)とが対比されています。愚かな王に仕える高官たちは朝から宴会を開き、自分のなすべき仕事を放棄しています(16節)。それができるのは、王が未熟なために彼らを監督できていないからです。一方、知恵のある王は貴族の出とあるように、正しい見識を持ち有能です。ですから、王が高官たちを監督しているので、彼らは王の定めた時に食事をしています(17節)。しかも宴会のように自分の楽しみのためではなく、自分の能力を十分に発揮するために食事をします。
申命記で神が王のすべきことを定めているように(申命記17章)、王は神のことばに従い、自分のためではなくて国民のために務めなければいけません。当然、高官は国民のために必要な行政をしなければなりません。ですから高官たちが朝から宴会をするのは、王が王の職務を果たしていないからであり、国民に目が向いていないからなのです。19節にあるように愚かな王は自分の楽しみや必要を満たすために生きているのでしょう。つまり、「自分のすべきことをやらない」という怠惰も愚かさなのです。だから18節のたとえのように怠惰という愚かさが国を衰退させてしまうのです。
さて20節は解釈が難しいのですが、「愚か者は自分の果たすべき事を果たさない」という観点からすれば、愚か者は他者との比較に心が向いていて、知恵ある者は自分の果たすべきことに心が向いているとなるでしょう。「心の中」「寝室」とあるように、愚か者は人に知られない所で「ねたみや悔しさによる憎しみ」を抱き、それが意志を生み出します。しかし、「空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」とあるように、知らず知らずのうちにその思いが外部に知られるのです。というのも、「自分が愚かであることを、皆に言いふらす。(10:3)」のごとく、愚か者は言葉の端端にあるいは何気ない行動に自分の思いを出してしまうからです。
愚かな者は自分とだれかを比べて「ああなりたい/あれを手に入れたい」のような欲望を満たすために生きています。一方、知恵ある者は人の平安や喜び、あるいは社会の平和のために自分がすべきことを考え、そのために生きています。この地上では、愚かな者が長寿や裕福、反対に知恵ある者が短命や困窮という理不尽があります。けれども神はちゃんと見ていて、その人の心にまことの平安と喜びを与えてくださるのです。
■おわりに
私たちにとって知恵ある者のお手本はイエスです。イエスは常に「人の益を考え」そして「将来のため」、すなわち「やがて来るさばきで無罪となり永遠の滅びから永遠のいのちに救われるため」に活動しました。その上、イエスを信じる者の罪を神が赦すために、人の身代わりとなって十字架にかかりました。イエスはご自身が果たすべきことを果たしたのです。
十字架刑は想像を絶する苦痛と屈辱を伴います。「苦痛を免れたい」という思いを優先して、避けてしまえば苦しまずに済みます。しかしイエスは神を愛し人を愛したから、人のために神のみこころを成し遂げました。そのイエスと私たちは結びついているのですから、私たちもイエスと同じように知恵ある者として人と神のために生きることができます。それが、やがて入る天の御国での神からの栄誉になるのです。
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