■はじめに
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。現在、福音すなわちキリストのことばを伝える教会は全世界に広がっています。これは、イエスの弟子たちに聖霊が下り、彼らが自分の国とは違う言語で福音を語った出来事から始まりました。それで、教会では聖霊が下った日を記念してお祝いしています。
聖霊が下った日はユダヤ人の祭りである五旬節の日でした。五旬節は過越の祭りから数えて50日目に行われていて、同時にイエスのよみがえりからもちょうど50日目に当たります。それでこの日をギリシャ語で50番目を意味する「ペンテコステ」と呼ぶのです。今日は、聖霊を受ける前と後で弟子たちがどう変わったのかを見ながら、聖霊の働きについて聖書に聞きます。
Ⅰ.聖霊によって弟子たちは大胆に恐れずイエスを証しした。
イエスは弟子たちと3年間、寝食を共にし、彼らに直接、人の救いや滅び、神の国について教えました。さらに、病気の癒し、悪霊の追い出し、自然の支配、死人のよみがえりなど、たくさんのしるしを通して、ご自身が神であることを彼らに明らかにしました。しかし、弟子たちはしるしを見聞きし、イエスのことばを知識として持ってはいたけれども、イエスを滅びからの救い主とは信じきれていませんでした。その証拠に、イエスが捕まったとき全員が逃げました。自分たちもイエスのように捕まって、ひどい目にあわされるという恐怖によって、イエスを見捨てたのです。そして、イエスが死んだ後も恐怖におののいていました。
そんな彼らに聖霊が下りました。イエスは生きている間に弟子たちに聖霊が下ることを明らかにしています(ヨハネ16:7)。「去っていく」とは、この地上を離れ去って神の元に行くという意味です。また「助け主」は聖霊を役割の面から呼ぶ言い方です。つまりイエスは、自分が十字架で死んだ後よみがえり、神のいる天に戻ったら天から聖霊を遣わす、と約束しました。そして約束通り、エルサレムにいた弟子たちに聖霊が下ります(使徒2:1-4)。
4節「他国のいろいろなことばで話し始めた。」とあるように、彼らは自分の国の言語とは全く違う、しかも知らない言語でイエスを証しました。さらに驚くことに、彼らはユダヤ人の前ではっきりと語ったのです(使徒2:14)。今彼らのいるエルサレムは、パリサイ人、律法学者、祭司長などイエスを否定する指導者たちの本拠地です。だからイエスのことを語れば間違いなく捕まって、神冒涜で重罪になります。ところが、彼らは全員が立ち上がり、顔を人々にさらし、そして声を張り上げてイエスのことを語りました。
もう彼らにとまどい、躊躇、恐れはありません。彼らはユダヤの指導者たちから語ることを禁じられても、さらにはむち打ちの刑罰が待っていても「イエスがキリストだと」語り続けました。聖霊はイエスを救い主と信じる者を公にイエスを語れるように変えてくださいます。「私はイエス様を滅びからの救い主と信じます。私はイエス様の誕生、死、よみがえりを信じます。」誰の前でもこう証言できるのは聖霊の力によるのです。
Ⅱ.弟子たちは聖霊によって真理すなわち罪、義、さばきが何であるのかを知った。
さて、人は聖霊によってイエスを証言できるようになりますが、その人に何が起こるのでしょうか。これについてイエスはあらかじめ語っています(ヨハネ16:13)。
真理とは神のお考え、ことば、ふるまいなど神から発せられるすべてがその通りであり、完全に正しく疑いを挟む余地はないということです。言い換えれば、神あるいはキリストそのものが真理です。ですから、聖霊が人を「神やイエスのことはすべてその通りです。」という確信に至らせます。それゆえ人は半信半疑ではなく揺るがない確信があるから、自信と安心を持ってイエスを証言できるのです。
さらにイエスは「聖霊がすべての真理に導く」を具体的に語っています(ヨハネ16:8)。聖霊は罪、義、さばきについて間違って理解し信じている人を、正しい道に導きます。
(1)罪について(ヨハネ16:9)
ユダヤ人にとって罪とは古くから定められている戒律違反を意味します。しかし真理において罪とは神を第一にしないことであり、さらに言うならイエスのことばに背くことです。ですからイエスよりも自分を最優先にしたい気持ちがすでに罪になります。罪悪感という観点からすれば、人ではなくて神に対して自分はどうなのかとチェックし、「ごめんなさい」と謝るのです。
(2)義について(ヨハネ16:10)
ユダヤ人は戒律に従うことを義すなわち正しいとし、イエスには従いませんでした。けれども、イエスはあらかじめ語った通り、十字架で死んで3日後によみがえり、弟子たちが見ている前で父のおられる天に戻りました。この世の常識では絶対にあり得ないことが、その通りになりました。この事実によって、「イエスのことばもふるまいも全てが義」と証明されたのです。この世も何が正しいのかを定めますが、イエスに沿っていないのは義ではありません。
(3)さばきについて(ヨハネ16:11)
この世の支配者は自分で定めた義に則って人をさばき、刑罰を与えます。けれども、天におられるイエスが再びこの世に来られる時、神によるさばきいわゆる最後の審判がなされます。その時、イエスよりも自分を第一とし、イエスではなく自分の義に従っている者は神によってさばかれ、人にとって最も恐ろしい永遠の滅びに入れられます。「さばかれた」とあるのは、すでにこのことが決定事項を意味しています。
先ほども申しましたように、弟子たちは真理すなわち神が定める罪・義・さばきを知ってはいたものの、それを確信していませんでした。イエスは彼らに言いました。「わたしに従えば神の国に入れる(マルコ8:34)/たましいもからだも滅ぼす方を恐れなさい(マタイ10:28)/わたしはあなたがたに平安を与える(ヨハネ14:27)/世にあっては苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った(ヨハネ16:33)」このような真理を確信していれば、イエスが捕まったときに逃げることはなかったでしょう。
聖霊が下る前、弟子たちは自分の思いを第一とし、イエスに従えず、神のさばきよりも人のさばきを恐れていました。ところが、聖霊がまことの罪と義とさばきを弟子たちに確信させたから、彼らはその真理に身を委ねることができたのです。別な見方をすれば、これまで自分が信頼しているものからの解放、いわばそこから来る不安や恐怖から解放されて、イエスを信じ委ねることができたのです。弟子たちの外見は同じだけれども、聖霊によって彼らの内面はまるっきり違うものに変えられたのです。
■おわりに
弟子たちと同じように私たちにも聖霊がすでに与えられています。なぜなら、罪が何であるのか、義が何であるのか、さばきが何であるのかを理解し、信じているからです。罪があるままでは神の審判の時に天の御国には行けず、永遠の滅びに定められます。そして、この罪はイエスの十字架以外では赦してもらえません。それを信じているから、罪が赦されて天の御国に入りたいと願い、イエス・キリストを救い主と告白したのです。つまり、「イエス・キリストを救い主と告白し、信仰を持った」このことこそ聖霊が下っている証拠なのです。
パウロもこう言っています。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)」私たちがキリストを信じるに至ったのは、肉体の鍛錬やキリスト教の学びではく、聖霊の働きによります。さらに言うなら、神はひとり子を犠牲にしただけではなく、聖霊をも遣わして私たちを救ってくださいました。聖霊の働きもまた、神のあわれみなのです。
そして信仰を持った後も聖霊は働いています。「今自分は何を第一としているのか/何が正しくて何が悪なのか/何を恐れないで、何を恐れなければならないのか」こういったことを聖霊は教えています。聖霊は私たちを救いに導き、私たちをイエスに似た者へと変え、私たちを通して神の栄光を輝かせてくださっているのです。
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