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木村太

5月26日「神の義は変わらない」(ハバクク書2章1-8節) 

■はじめに

 今の日本では何事もすぐに結果が求められます。それゆえ待つというのがだんだん難しくなってきているように思えます。ただ、待てないというのは現代人だけではありません。イスラエルの初代王であるサウルも、「自分が着くまで待つように」というサムエルを待てませんでした。サウルは迫りくる敵の脅威に負けて、戦いの勝利のためにサムエルがやるべき祭司の仕事を自分でやってしまいました(Ⅰサムエル13章)。そしてこのことはサウルを王位から退ける原因になりました。目の前の危機が迫った時、私たちは神のことばよりも具体的な行動に安心を見出そうとする性質があるのです。今日は、神を信頼して神の働きを待つということをみことばに聞きます。

 

■本論

Ⅰ.主は、うぬぼれた者には終わりの時があることをハバククに伝えた(2:1-4)

 預言者ハバククはユダ王国が神に背き続けたことで罰を受けるのは当然と認めていました。また、神がカルデヤ人を用いて自分たちを罰することも認めていました。しかし、暴虐なカルデヤ人が悪事をやりたい放題にしている状況には声をあげました。なぜなら、悪事が野放しにされているのは神の義に反するからです。それでハバククは神に疑問を叫んだのです。そしてハバククは神の動きを監視しようとします。

 

 ハバククは自分の訴えに対して主なる神が何をするのかをしっかり見ようとしています(1節)。「私がそれにどう応じるべきかを見よう。」とは、主の働きが自分にどんな応答を生じさせるのかに期待したい、という気持ちを表しています。ですから、ハバククは主に疑問を持ちながらも、主を捨てたり見限ってはいないのです。

 

 そんなハバククに主が答えます。主は「何をするのか見よ」ではなく、ご自身が与える幻を記すように命じました(2節)。幻は預言とか御告げと理解しても構いません。ここでの「確認する」は「板の上に刻み付ける」という動作を意味しますから、この幻は正確に残さなければいけないほど重要なのです。加えて「これを読む者が急使として走るために」とあるように、この幻は人々が緊急に知らなければならない内容なのです。

 

 その上で神はこの幻について3つのことを告げています(3節)。

①神が定めた時であり何かが終わることを証言していること

②この証言は偽りではなく真実。つまり、必ず起きるということ

③定めの時が具体的にいつなのかは不明だが、必ず来ること

 

 ここで主は格言的なことばを告げます(4節)。「彼」は1章の内容からすれば「カルデア人」を指していると思われます。「うぬぼれる」は「高慢/有頂天」とも訳されます。「彼(カルデア人)は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺す(1:17)」とあるように、カルデア人はすべて思いのままに暴虐を働いて、自らを全能と認めています。ですので、神よりも自分を上にしているから「直ぐでない」すなわち正しくないのです。

 

 一方、正しい人、すなわち神に従っている人は、信仰によって生きています。「信仰によって」とは神への信頼が生きる力や喜びになっていることを言います。うぬぼれている者が、自分の欲望を満たすことを生きる力にしているのと対照的です。それゆえ主は、どういう者が正しくなくて、どういう者が正しいのかをここで宣言しているのです。

 

 つまり、主はご自身の義が変わっていないことをハバククに伝えているのです。主は「定めの時/終わり」が何かを明らかにしていませんが、4節のことばからすれば、主はカルデア人の暴虐を必ず終わらせることを約束しているのです。神は悪を放っておかないという約束が人々の忍耐を生み出すから「この幻は重要で緊急」なのです。

 

 ハバククをはじめイスラエルの民は「義なる神なのにどうしてカルデア人を放っておくのか/神の義はどうしたのか」と疑っています。しかし、神はうぬぼれた者を終わらせる時を告げました。人の目には「この世で起きている悪事を神がそのままにしている/神が悪事を導いている」のように見えます。けれどもヨブ記にあるように、神は悪を良しとしているのではなく、何らかの目的で許可しているのです。神の義は決して揺るぎません。ですから人は悪を憎み抗いながらも、神を信頼して、終わりの時を待ちながら神の働きに委ねながら生きるのです。

 

Ⅱ.うぬぼれた者は飽くことを知らないが、より強大な者によって滅ぼされる(2:5-8)

 ハバククは主のことばから、カルデア人のふるまいをもとに、うぬぼれた者について5つの有様を語ります。

・飽くなき欲望(5-8節)/物欲(9-11節)/残虐(12-14節)/他者を貶めること(15-17節)/偶像崇拝(18-20節)

 

 ハバククはまず「飽くなき欲望」の姿を語ります。力の強い勇士は「自分は誰よりも強い」とうぬぼれて、他者をどんどん征服してゆきます(5節)。それはあたかも、ぶどう酒で酔った者が自制できなくなって他者を大切にしない姿と同じです。しかも、「定まることを知らない。」とあるように、彼の支配欲には終わりがありません。ちょうど、死やよみが生きている者すべてを飲み込むようなものです。だから、カルデア人はあらゆる国々のすべての民を飲み込みたいのです。征服しても征服しても満たされることはありません。

 

 ここでハバククは飲み込まれた者たちのことばを語ります(6節)。「これら」はカルデア人の暴虐にあった人々を指しています。彼らは格言を使って暴虐者を皮肉ります。ある注解書では「呪いの言葉」とも言われています。

 

 6節「わざわいだ。」は「なんて悲惨なんだ」というニュアンスを持ちます。なぜなら、彼らは自分のものを担保いわゆる質物にして、借金を重ねているようなものだからです。つまり彼らは罪という負債を積み上げているから、どれほど強い者であったとしても悲惨な者なのです。

 

 そして負債を清算するときがやってきます(7-8節)。「おまえにかみつく者/揺り動かす者」とはカルデア人に暴虐を振るう者を言います。借金の返済が突然突きつけられるように、カルデア人はより強い者によって略奪されます。略奪してきた土地ではない民が彼らを襲うのです。「おまえは人の血を流し、地に暴虐を行った。...」と暴(あば)かれているように、これまで飽くなき欲望のままにやりたい放題だったのが一転して暴虐を受ける側になるのです。まさに、積み重ねてきた罪というツケを払う時がやってきたのです。

 

 1章でハバククはカルデア人の暴虐を主に嘆きました。ところが、ここでは彼らの有様を語りながらも、彼らを悲惨な者・略奪される者と見ています。つまり、1章と2章5節に挟まっている主のことばが、彼を変えたのです。主はうぬぼれた者、すなわち主に従って生きていない者には必ず終わりが来ることを告げました。これまでは、暴虐者を痛み・恐怖・不安としか見ていなかったのに、主のことばが「悲惨な者・暴虐される者という見方」に変えたのです。「正しい人はその信仰によって生きる。」とあるように、主への信頼が「カルデア人からの解放」という希望を生んだのです。2:5-20には、カルデア人の罪の有様が記されていますが、そこからは「主の義は変わらない」という確信がうかがえます。

 

■おわりに

 カルデア人の悪を見たとき「神は義ではないのか」という疑問が出ても不思議ではありません。けれども神の義は永遠に不変です。暴虐者は必ず罰せられて滅ぼされます。歴史がそれを証明しています。アッシリアはバビロニア(カルデア人)に滅ぼされ、バビロニアはペルシアに、ペルシアはギリシヤに、ギリシヤはローマに、そのローマも東西に分裂した後に滅びました。

 

 そして、うぬぼれた者が完全に永遠に終わる時がきます。それがイエスがこの地上に再び来る時、いわゆる再臨の時です。この時、「イエスを救い主と信じる信仰」を持っている者は新しい国で永遠に生きる道に定められます。この世の人生では信仰が生きる力になりますが、終わりの時では信仰が「永遠に生きる」判断になるのです。

 

 ただし、神は終わりの時をすでに定めていますが、私たちはそれがいつなのか具体的には分かりません。でも「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」と告げられているように、その時は必ずやってきます。全世界を見ても、また自分の人生を見ても「神は義ではないのか」と思えることがいくつもあります。しかし、私たちは信仰によって、ともにおられるイエスから生きる力を受けながら終わりの時を待ちましょう。

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