■はじめに
自然科学の学問では起きている現象を観察・分析し法則を導きます。物理学の基礎である万有引力の法則も、ニュートンがリンゴの落ちるのを見たのがきっかけと言い伝えられています。伝道者の書もこれと似ていて、伝道者であるソロモンが日の下でのあらゆるものごとを見て、「いつでも、どこでも、誰にでも」当てはまることがらを見出し記しています。ただ学問の法則と違って、伝道者は見出したことがらが人にとってどうなのかを考察し、そこから神につなげて行きます。今日は伝道者の書3章から人の営みにおける始まりと終わりについて扱います。
■本論
Ⅰ.神は私たちにふさわしいものごとをふさわしい時に行っている(3:1-15)
伝道者は自然や歴史の繰り返しから空を導き、次に、この世の何ものも人を満たさないという空を導きました。そしてここでは人に起きうる出来事を観察しています。
1節「営み」は「仕事/楽しみ/喜び」の意味もありますから、これは人の活動や感情といった人の生きている様子を指しています。伝道者はすべての営みを観察して、すべてに定まった時あるいは時期があると分かりました。定まった時というのは、あたかも誰かがスケジュールを管理していて、しかもそれがその人にとってちょうど良い時期を言います。
続く2-8節には、日の下で人に起きうる出来事あるいは人が行う出来事が記されています。
①2節「命の始まりと終わり」:「死ぬ」はあとで獣と比べられているから「寿命」と言える
②3節「破壊と修復」:「殺す」「崩す」は個人的な憎しみというよりも戦争や内乱によるもの
③4節「嘆きと喜び」:「泣く/笑う」は個人。「嘆く」は葬儀、「踊る」は結婚式なので公衆
④5節「友愛と敵意」:「石を投げ捨てる」は敵の畑をめちゃくちゃにすること。「石を集める」は征服者のために道路を作るたとえ。
⑤6節「所有の決断」:物を探し、手にする時。それがいらなくなり放り出す時
⑥7節「悲しみ」:「引き裂く」は悲しみを表に現す行為、「縫い合わせる」は悲しみが終わったことを意味する。「黙る」は喪、「話す」は喪明け。
⑦8節「愛と憎しみ」:「憎しみ」が「戦い」を引き起こし、「愛」が「平和」を作る。
ここには「植える/引き抜く」のように自分の意志で始め終わらせるものと、「生まれる/死ぬ」のように自分の意志ではどうにもならないものがあります。また、「泣く/笑う」といった感情も、自分の意志で表に出さないようにはできますが、湧き上がらせたり消え去らせることはできません。ですから伝道者は人に作用する何らかの存在を見出しているのです。そのことをこう説明します(9-10節)。
9-10節「働く者の労苦/従事する仕事」は職業の仕事も含めて人がすることのすべてと言っていいでしょう。天地創造およびイスラエルの歴史から、神が人に役割を与え、人を治めているのは明らかです。だから、神が人の営みに始まりと終わりを定めているから、人はそれらを自在に変えられません。そのため「何の益もない」となるのです。ただし、神によって縛られ不自由を生きているように思われますがそうではありません(11節)。
人が見聞きし、想像できる時には限りがあります。ちょっと難しい概念かもしれませんが、人は「この世の時間」の中で生きています。例えば、「いつか遠い未来」であっても、それが実際に起きたときには何年何月何日という時間で表すことができます。けれども神は「この世の時間」に縛られていません。つまり、11節「心に永遠を与える」というのは「神の存在とその支配に気づく」ということなのです。それゆえ、この世のものごとは神がなすから「始まりから終わりまでを見極めることができない。」とあるように、神がいつ何をなさり、いつ終えられるのかを知り得ません。14-15節はこのことを言い換え、「人は神のなさることに手出しできないから、神のなさることは永遠に変わらない。」となるのです。
「永遠なる神がすべての営みをなさっている」という真理から2つのことを伝道者は明らかにしています。
1.11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」:神は人が本来の姿すなわち神の正しさと聖さとあわれみを持って生きることを望んでいます。それで神はその人にとってふさわしいことをふさわしい時になしているのです。ただ私たちにとっては「どうして今なの/どうしてこんなことになるの」と嘆き、美しいとは全然思えないこともあります。でも神からすればちょうど良い時にふさわしいことをしているのです。
2.14節「人が神の御前で恐れるようになるため」:人の営みには、何もしなくても善をなす道に導かれる時もあれば、何をしても思い通りの道に行けない時があります。よくアニメや映画で「運命には抗えない」というセリフが出てきますが、まさに何らかの力に抗えないと気づいたとき、人は神の存在を知り、神の権威に畏敬し従順となるのです。
科学技術の発達によって私たちは自分の思ったことをその通りにできることが増えてきました。そのため自分の願い通りになることが人にとって良いこと、幸せと信じています。けれども、そうはならないばかりか、願っていない道を生きることになるから、人生に虚無やあきらめや失望を見るのです。
一方、神を恐れる者は「神が自分のためにふさわしいことをちょうど良い時になしている」とわかっています。だから、何事にも始まりと終わりがあるのを承知しながら、空ではなくて「神が何らかの目的のために私を生かしている」と信じられるのです。それゆえ13節「すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と告白できるのです。
Ⅱ.生き物の「生と死」を通して私たちは被造物であることを知り、神を恐れて神の御手の中を生きている(3:16-22)
神はものごとの始まりと終わりを通してご自身の支配を明らかにしていますが、この世の実際は違っていました(16-17節)。16節「さばきの場」とは神の正義に基づいて善と悪を判断する場であり、今で言えば裁判になります。ところが実際には、神の正義ではなく自分の正義すなわち自分の正しさを基準としてさばきをする者がいました。裁判とまではいかなくても感情に任せて判断を間違ったり、あるいは保身のために白を黒と言う人がいつの世にもいます。
そういった者たちは、自分が神に成り代わっていること、さらには自分が神よりも上になっていることを分かっていません。すべての営みに時があるように、神はすべての人をさばきます。それが具体的にいつあるのか人は知り得ません。けれども、イエスが再び来られたときに神のさばきがあるのを、人はイエスのことばから知っています。つまり、ものごとの始まりと終わりを通して神の支配を知り神を恐れている者は、いつか自分も神のさばきの場に立つから不正なさばきをできないのです。
ここで伝道者は「人が神ではない証拠」を語ります(18-19節)。この世界では人も獣も生きているときは息をしていて、やがて死にます。20節「土のちりから生まれ、土のちりに帰る」とあるように、すべての生き物に生と死があり、その上、生と死を生き物自身は変えられません。ですから、動物の生と死を見れば、人も動物と同じ神の被造物(神によって造られたもの)であると気づき、神のご支配を分かり、神への恐れに至るのです。
人は日の下でのものごとを知ることができます。自分が生まれる前のことも様々な記録で知ることができます。また、この先何が起きるのかを予想できます。法則が適用できれば予測できます。しかし、日の下ではないこと、つまり21節のように肉体の命が終わった後の霊の世界については分かりません。だから、永遠すなわち神のご支配を知らない者、無視している者はこの世だけに目を向けているので空となるのです。
伝道者は人の営みについてこうまとめます(22節)。永遠を思う心が与えられている者すなわち神を恐れる者は、神が自分の人生にわざをなしてくださっていることを知っています。ただし、神が何をいつなしてくださるのかは分かりません。だからといって空しさや絶望を抱きません。なぜなら、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」「神は正しい人も悪しき者もさばく。」それを信じているからです。それゆえ神を恐れる者は、神が与えてくださった自分のわざ営みを喜べるのです。同時に、イエスを救い主と信じ、永遠の平安である天での人生に希望があるのです。
■おわりに
人は神によって造られたのに、今では神に気づかず、あるいは無視し、あるいは忘れて、自らが神のようにふるまっています。「私が絶対に正しい/私の国が絶対に正しい/私たちの教会が絶対に正しい」そのような状況を目にします。けれども、この世のあらゆる生き物、あらゆるものごとに「誕生、繁栄、衰退、滅亡のサイクル」があります。すべてが有限で永遠ではありません。ここから、神のご支配の中にあらゆるものごとがあるのを認めるのです。いわば、神の権威の下に自分を置くのです。
しかも、神は私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、ご自身のひとり子であるイエスをなだめの供え物にしました。これほどまでに私たちを大切にしてくださるのですから、私たちは「神のなさることとその時」を「この道を行きなさい」というメッセージとして受け取るのです。それで私たちは永遠のいのちを待ちながら、どんなことがあっても神を信頼して生き抜けるのです。
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